アメリカ企業とナチス・ドイツとの協力関係

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戦争の裏には利権争いと、死体を見ながら札束を数える軍需産業がある。 第二次世界大戦中、アメリカの企業数社がナチス・ドイツを支援していた。 この利権構造の実態について触れていきたいと思う。

第1章  I.G.ファルベン
アメリカ企業とナチス・ドイツとの協力関係を語るに際しては、最初にドイツの企業I.G.ファルベンについて触れなくてはならない。 I.G.ファルベンは1925年にドイツの化学工業企業8社が合併して出来た巨大企業である。 I.G.ファルベンの株主にはユダヤ人が多く、社長もカール・ボッシュというユダヤ人だったので、I.G.ファルベンはヒトラーから「国際金融資本の手先」と言われていた。 ( カール・ボッシュはフリッツ・ハーバーと共にハーバー・ボッシュ法の開発を行ない、高圧化学的方法の発明と開発で、1931年にノーベル化学賞を受賞した) しかし、ナチスが勢力を強めるにつれ、ヘルマン・シュミッツ会長やゲオルク・フォン・シュニッツラーなどの取締役はヒトラー支持の尖兵に変身していった。 カール・ボッシュはヒトラーと合わず、追われてしまった。 I.G.ファルベンの幹部は、1933年2月20日、ドイツ産業界の重鎮数人とともに、ベルリンでヒトラーやゲーリングと会談し、ナチズムに対する政治的・財政的支持を約束した。 また、ヘルマン・シュミッツ会長は、ナチス御用達の銀行だった「国際決済銀行(BIS)」の設立にも参画し、第二次世界大戦終了時まで役員を務めた。

I.G.ファルベンは1939年までにドイツの外貨の90%を稼ぎ出し、ドイツの化学工業製品の85%を製造し、その従業員は10万人に達し、世界の大企業の中でもアメリカのGM、USスチール、スタンダード・オイルにつぐ4番目に、化学工業企業としては世界最大の企業にのしあがった。 I.G.ファルベンはドイツの化学工業をほぼ独占し、ナチスの戦争経済を維持するうえで不可欠だった2つの製品を供給した。 それは合成燃料と合成ゴムで、その大半はアウシュヴィッツにあった同社の巨大化学工場で、被収容者を労働力として製造された。 アメリカ戦争省はのちに次のように語った。「I.G.ファルベンの巨大生産能力、その徹底した調査能力、巨大な国際的つながりがなければ、ドイツの戦争遂行は考えられなかったし、実現することもできなかった」。

ナチス・ドイツの崩壊後、破壊されたフランクフルトに入った米軍兵士たちを驚かせたのは、I.G.ファルベンの建物が無傷で建っていたことである。 I.G.ファルベンは敵国最大の企業だったのに、アメリカ空軍はその建物に一切の攻撃を加えなかった。 その建物は戦後CIAのドイツ本部となった。

イギリス化学工業界はI.G.ファルベンに対抗して、1926年に「ノーベル産業」と「モンド」と「ブリティッシュ染料」と「ユナイテッド・アルカリ」の4社を合併させ、ICI(Imperial Chemical Industries)を設立した。 同じ1926年にI.G.ファルベンは早くも「ダイナミット」(かつてのアルフレッド・ノーベル社)と提携した。 これにより、表向きは平和の顔をした中立国スウェーデンのノーベル・トラストは、それぞれの分身が奇しくも同じ年に、ドイツのI.G.ファルベンとイギリスのICIに同時介入を果たした。 (敵対国の双方に弾薬を送り込む死の商人ノーベル・トラストの実態については別の機会に触れる予定)。

第2章  スタンダード・オイルとナチス・ドイツとの協力関係
I.G.ファルベンは、世界最大の石油企業であるスタンダード・オイルと密接な関係にあった。 スタンダード・オイルはロックフェラー財閥が所有していたものであった。 スタンダード・オイルのウォルター・ティーグル会長はI.G.ファルベンのヘルマン・シュミッツ会長と早い時期から友人関係を結び、アメリカにおけるI.G.ファルベンの子会社GAFの取締役に就任した。 ティーグル会長はこのGAFに多額の投資をしたが、シュミッツ会長もスタンダード・オイルに多額の投資をしていた。 ティーグル会長は1938年にGAFの取締役を退いたが、I.G.ファルベンとの協力関係を維持し続けた。

当時の戦闘機や爆撃機はテトラエチル鉛(ガソリンエンジンのノッキングを防ぐ為のガソリン添加剤)が無ければ、飛ぶことが出来なかった。 テトラエチル鉛の権利を持っていたスタンダード・オイルは、イギリスのエチル社を通じて、テトラエチル鉛をI.G.ファルベンに供給し、ドイツ空軍の戦闘機や爆撃機が飛べるようにした。 更に、スタンダード・オイルはテトラエチル鉛を日本にも供給し、日本軍の戦闘機や爆撃機が飛べるようにした。

1939年になると、アメリカでは合成ゴムが不足し、アメリカ軍は軍用航空機や軍用車両の車輪を完成させるのも困難になっていた。 しかし、スタンダード・オイルはアメリカ軍に対して合成ゴムの供給を一切しなかった。 この時期、スタンダード・オイルはヒトラーと契約を結び、ヒトラーはスタンダード・オイル製の何種類かの合成ゴムを取得することができた。 この契約は真珠湾攻撃の後まで継続した。 スタンダード・オイルとI.G.ファルベンとが石油と化学製品の独占権で世界市場を二分し、スタンダード・オイルとI.G.ファルベンとが協定していた為、アメリカ政府は真珠湾攻撃の後でさえ、アンモニアの合成工程や天然ガスから水素を取り出す技術を取得できなかった。

アメリカが参戦する前(1941年12月8日以前)、ヨーロッパにおける戦争が長引くにつれて、ドイツは深刻な石油不足に陥り、石油の備蓄はごく僅かしかなかったが、スタンダード・オイルはルーマニアの油田をドイツにリースし、更に、ハンガリーの油田をドイツに売り渡して、ナチス政権を助けた。 また、スタンダード・オイルはタンカーでカナリア諸島のテネリフェ島に燃料油(ガソリン・軽油等)を運び、その燃料油をそこでドイツ軍に供給したり、ドイツのタンカーに移し替えたりしていた。 アメリカ政府がUボートヘの燃料油供給を容認できないと言明し、その上、大西洋でアメリカ国籍の商船がUボートに撃沈されていたにもかかわらず、スタンダード・オイルはUボートに燃料油を供給していた。 また、スタンダード・オイルはナチス政権のために毎週1万5千トンの航空燃料を生産する製油所をハンブルクに建設していた。

1941年7月15日、アメリカ陸軍情報部のチャールズ・A・パローズ少佐は、スタンダード・オイルがオランダ領アルバ島からカナリア諸島のテネリフェ島へ燃料油を輸送していると、陸軍省に次のように報告した。「スタンダード・オイルはこの燃料油の20%をドイツ軍に供給している。 この航路に就航している約6隻のタンカーに乗船している高級船員のほとんどはナチ党員のドイツ人であると考えられる。 船員たちは、カナリア諸島のすぐ傍で潜水艦を何回も目撃し、また潜水艦がカナリア諸島で燃料補給をしていることも知っていると、我々の情報提供者に話している。 スタンダード・オイルのタンカーは魚雷攻撃を今日まで1回も受けたことがないにもかかわらず、異なった航路に就航している他のアメリカの会社は魚雷攻撃でタンカーを失っていると、この情報提供者は述べている」。 アメリカ財務省は、この報告を受け、1941年7月22日、スタンダード・オイルが行なっているタンジール向けの石油輸出についてアメリカ国務省と会議をしたが、スタンダード・オイルに対して圧力をかけることはしなかった。 結局、真珠湾攻撃(1941年12月8日)の後も、アメリカ財務省とアメリカ国務省は、スタンダード・オイルや他のアメリカ大企業がナチス・ドイツと取り引きすることを許可し、証明書を発行していた。

スタンダード・オイルは第二次世界大戦を通してファシストの国であるスペインにも燃料油を輸送していた。 スペインヘの燃料油輸送は間接的に枢軸国を援助することだった。 スペインのタンカー船団は定期的にドイツに航行し、ドイツ大使館やドイツ軍に燃料油を供給し、更に、ソ連軍と戦っているスペイン軍にも燃料油を供給していた。 このような状況を憂えた経済学者ヘンリー・ウォルドマンは、1943年2月26日付の『ニューヨーク・タイムズ』に次のような意見を載せた。「考えても見てください。 戦争の真っ最中に敵国を実際に助けている国がアメリカなのです。 そればかりではなく、スペイン大使が詳細に述べているように、アメリカはこのような援助を続けるばかりか、援助を拡大する準備までしているのです。 スペインは敵国です。 しかし、それでも、アメリカはスペインを援助しているのです」。 それでも、状況は改善されなかった。 毎月4万8千トンのアメリカ産の燃料油がスペインを経由してナチス・ドイツに供給され続けた。

このような状況の中で、イギリス情報機関が秘密作戦を駆使してアメリカのマスメディアを操り、スタンダード・オイルとI.G.ファルベンとの提携関係を暴露し始めた。 すると、予想通りスタンダード・オイルの首脳陣はアメリカ国民から猛烈な非難の声を浴びることになった。 このイギリス情報機関が仕掛けたネガティブキャンペーンにより、スタンダード・オイルのティーグル会長と彼の跡を引き継いだビル・ファーリッシュ新社長は裏切り者・国賊というレッテルを貼られ、ビル・ファーリッシュ新社長はストレスのあまり、まもなく心臓発作で死んだ。 残されたティーグル会長も顧客の信用を一気に失い、精神状態が不安定になり、失意のうちに第一線を退いた。 この反スタンダード・オイルキャンペーンを受けて、アメリカ政府による調査が開始された。 しかし、アメリカ陸軍省と戦略情報局(OSS)は、スタンダード・オイルの協力無しにはアメリカは戦争を継続できないことを熟知していた為、スタンダード・オイルに対する攻撃をある程度のところで止めるように働きかけたと言われている。

第3章  ITTとナチス・ドイツとの協力関係
ITT(International Telephone & Telegraph Corp.)は1920年に設立されたアメリカ企業である。 ITTのソスサニーズ・ベーン会長は通信網を世界中に張り巡らし、世界の電話王になった。 ベーン会長はファシスト政権の国々で政治家をITTの取締役にすると約束し、電話網を急速に広げ、それらの政府からも支持された。 ITTは1931年までに、世界的な大恐慌にもかかわらず、6400万ドル強の資産を持つ大企業に成長した。 彼はナショナル・シティー銀行の役員にも就任している。 1933年8月、ベーン会長はヒトラーと会見した。 ベーン会長はヒトラーとの会見を許された最初のアメリカ人実業家であった。 この会見でベーン会長は、ドイツとITTの政治的な関係を、第二次世界大戦が終了するまで続けると約束をした。 ヒトラーもITTに対して、常に助力と保護を惜しまないと約束した。 ベーン会長はSS(ナチス親衛隊)に資金を与え、更に友人であったナチス・ドイツ航空大臣ヘルマン・ゲーリングの重要な支援者になった。 航空大臣ゲーリングはドイツのみならずアメリカを初めとする各国の財界人に幅広い人脈を持っていたので、その人脈の中にあった各国財界人はナチス・ドイツを資金的に大きく助けた。 ベーン会長は戦争中、ドイツにあるITTを完全に自分の支配下に置いていたばかりでなく、中立国であるポルトガル・スイス・スウェーデンのITT工場も管理していた。 これらの国々のITT工場は枢軸国向けの軍需品を製造・販売していた。

真珠湾攻撃後、ドイツの陸海空軍はITTと契約を結び、その結果、ITTはドイツ軍向けに電話交換機・電話機・警報機・ブイ・空襲警報装置・レーダー装置を製造した。 また、ITTは砲弾用の導火線をドイツ軍向けに月間3万本製造した。 更に、ITTはドイツ軍向け砲弾用導火線を1944年までに月間5万本製造するようになった。 更に、ITTは、ロンドンを空襲する為のロケットの原材料・乾式整流器用のセレン光電池・高周波無線装置・要塞および野戦用の通信セットをドイツ軍に供給した。

作家チャールズ・ハイアムは次のように述べている。「この戦略上非常に重要な資材がなかったならば、ドイツ空軍はアメリカ軍とイギリス軍の将兵を殺傷できなかっただろうし、ドイツ陸軍はアフリカ・イタリア・フランス・ドイツで連合軍と戦うことが出来なかっただろう。 また、イギリスは空爆されなかっただろうし、連合国の艦船が海上で攻撃を受けることもなかっただろう。 ITTとその関連企業の助けがなければ、ドイツ海軍のレーダー提督がパナマから南方の国々を猛攻撃しようと計画したときに、ドイツ側が中南米の国々にこの計画を連絡することができなかったはずである」。

ITTのベーン会長(彼は当時、アメリカ軍の大佐でもあった)のこうした活動は裏切りというレッテルを貼られてもおかしくなかった。 なのに、連合軍によってフランスが解放される1944年の時点で、彼はアメリカのヒーローとして褒めたたえられていた。

第4章  フォードとナチス・ドイツとの協力関係
フォード社の創業者ヘンリー・フォードは典型的な反ユダヤ主義者であった。 彼は1919年に『ニューヨーク・ワールド』誌で初めて反ユダヤ主義を表明し、1920年にはユダヤ人に対する悪意に満ちた『国際ユダヤ人』を出版した。 また、ヘンリー・フォードはヒトラーを支持し、1922年という早い時期から、外国人としては初めてナチスに資金援助をした。 その見返りとして、ヒトラーはヘンリー・フォードの大統領選挙への立候補を助けるために突撃隊の派遣を申し出た。 ヘンリー・フォードは1938年の75歳の誕生日に、非ドイツ人に与えられたものとしては最高の「大十字ドイツ鷲勲章」をヒトラーから授与された。

ヘンリー・フォードにはエドセル・フォードという息子がいた。 エドセル・フォードは1930年代を通じて、アメリカにおけるI.G.ファルベンの子会社GAFの取締役を務めた。 フォード親子はイギリス空軍向けの航空機エンジンの製造を断わり、その代わりにドイツ陸軍の輸送部隊の主力となった5トントラックの部品の製造を始めた。 その上、アメリカ国内のタイヤ不足にもかかわらず、ナチス・ドイツへのタイヤ輸送を手配していた。 フォードからのタイヤ輸出の30%はナチス・ドイツが支配する地域に出荷されていた。

1940年にフォードはナチス・ドイツ占領地域にあるポアシー(フランスの都市)に自動車工場を建設し、ドイツ空軍向けの航空機エンジンの製造に着手した。 また、この工場はドイツ陸軍の軍用車両の製造も手がけた。 更に、フォードは北アフリカにも自動車工場を建設し、ロンメル軍団のためにトラックと装甲車を製造した。 こうして1942年には、ナチス・ドイツで使用されていたトラックのうち、約3分の2をフォード製が占めるようになった。

第5章  GMとナチス・ドイツとの協力関係
アメリカのデュポン一族が経営するGMとナチス・ドイツの関係は、フォードに負けず劣らず親密なものだった。 GMとナチス・ドイツとの関係は、ヒトラーが政権を握った時から始まった。 GMは1900年代にウィリアム・デュラントによって組織され、1914年にデュポン社から最初の投資を受けて以降、1950年代までデュポン社から出資を受けていた。 アメリカにおけるI.G.ファルベンの子会社GAFはGMに多額の投資をしていた。 GMの経営陣も1932年から1939年までの間、I.G.ファルベンの工場に合計3000万ドルの投資をしていた。 ( GMの欧州総支配人であるジェームズ・ムーニーは、ヘンリー・フォードと同じように、ヒトラーから勲章をもらっている)。

1929年、GMは当時ドイツ最大の自動車メーカーだった「オペル」を買収した。 1931年、オペルはGMの完全子会社となり、オペル製の乗用車はドイツ乗用車市場で40%という圧倒的なシェアを持つようになった。 その当時のダイムラー・ベンツのシェアは9%、フォードのシェアは8%、BMWのシェアは3%だった。 1930年代の中頃になると、GMはオペルを通してドイツで軍需用トラック・装甲車・戦車・軍用航空機の本格的な生産に取り組んでいた。 ブランデンブルクにあるオペルの工場は軍需用3トン・トラックを年間3万台近く生産し、その規模はドイツの軍需用トラック生産の約40%を占めた。 リュッセルスハイムにあるオペルの工場は、第二次世界大戦を通して、ドイツ空軍の為に軍用航空機を生産し、特にドイツ空軍で最も殺傷力が高かった中型爆撃機であるユンカースJu88のエンジンの50%を製造していた。 また、オペルはドイツ軍用車の装備の大部分を製造していた。

1974年、アメリカ連邦議会の上院小委員会で、上院付き某弁護士が、「連合国のGM工場と枢軸国のGM工場の間では、情報も物品も絶えず行き来していた。 フォードやGMの支援がなければ、ナチスはあれだけ持続的に首尾よく戦争を行なうことができなかっただろう」と発言した。 すると、GMの弁護士はこれを「全くの偽り」と反駁し、退けた。

第6章  デュポンとナチス政権との親密関係
1930年代半ば頃、アメリカ軍当局は必要な軍需物資の95〜97%を民間に頼っていたが、その民間企業の中で1、2位を争っていたのは常にデュポンであった。 そして、当時の三大化学工業企業であるデュポン(アメリカ)とI.G.ファルベン(ドイツ)とICI(イギリス)は、敵味方に分かれた戦争中も、戦争後も、国籍に関係なく一貫して友好関係を保ち、もちつもたれつで仲良く共存共栄を図ろうとしていた。

1937年、革新派のドイツ駐在のアメリカ大使ウィリアム・ドッドは、任期終了時にニューヨーク港で記者会見を開き、次のように語った。「アメリカの産業資本家たちのあるグループは、民主的な政府の代わりにファシスト政権を何が何でもアメリカに樹立したいと、ドイツとイタリアのファシスト政権と密接に連絡を取り合っている。 私はベルリンでの任期中に、アメリカの支配階級の一部がナチス政権といかに親密であるかを見聞する機会を多く持った。 船上で旅客の1人が、彼はある巨大銀行の著名な重役だが、ルーズベルト大統領がこのまま革新的な政策を続ければ、具体的な行動を取ってアメリカにファシズム政権をもたらす用意があると単刀直入に語ってくれた」。

1944年、アメリカ上院軍事調査委員会において、検事次長は次のように発言した。「I.G.ファルベンは国際カルテル協定によって勢力を保っている。 アメリカにおいて同社はデュポンおよびICIと協定を結び、アメリカ国内市場を三分割している。 1940年、デュポンはI.G.ファルベンに対し、戦後、I.G.ファルベンの市場回復に協力することを約束した」。 この発言を受けて、キルゴア委員長は次のように結論を下した。「このようなデュポンの協定は、スタンダード・オイルのそれと同じく売国奴の行為であり、上院議員ハリー・トルーマンも同様の語を使って非難した」。 もちろん、このような利敵行為が売国奴の行為であることは言うまでもないが、デュポンは当然その事を否定し、次のように述べた。「I.G.ファルベンとの関係を、アメリカ及び連合国側の利益を損ねる利敵行為であるとして非難する意見があるが、それは全くの嘘である。 それはあたかもソ連共産党のプラウダ紙が『原子力研究は完全に独占資本の支配下にある』と非難するようなもので、的はずれもいいところだ」。

因みに、第二次世界大戦中のデュポンは原子爆弾の生産にも大きく関わっていた。 マンハッタン計画が密かに計画された頃、この計画の責任者レズリー・グローブス准将はデュポンに協力を求めた。 これを受けて、デュポンはゼネラル・エレクトリックやウェスティングハウスと共に、シカゴ大学の監督のもと、まずテネシー州オークリッジにウラン濃縮工場を建設し、次いで、ワシントン州ハンフォードサイトにプルトニウム抽出工場を建設した。 もっとも、これらの工場建設のための巨額な費用はデュポンが自腹を切ったものではない。 全て国費である。

第7章  IBMとナチス・ドイツとの協力関係
アメリカの作家エドウィン・ブラックが、『IBMとホロコースト ナチスと手を組んだ大企業』という本を出した。 彼の両親はホロコーストを生き延びたユダヤ人である。 彼によると、IBMの創業者トーマス・ワトソンは、ヒトラーからメリット勲章(ドイツで2番目に位の高い勲章)を授かるほどナチスに協力し、彼にとってヒトラーの第三帝国は世界で2番目に大きな取引先だったという。 エドウィン・ブラックは次のように告発する。「IBMは、もともとドイツの子会社を通じ、ヒトラーのユダヤ人撲滅計画遂行に不可欠な技術面での特別任務を請け負い、恐ろしいほどの利益を上げた。 IBMこそ現代の戦争に情報化という要素を持ち込み、こともあろうに、あの戦争でナチスの電撃戦を可能にした張本人なのだ」。 当時、コンピュータは存在しなかった。 しかし、コンピュータの先駆をなす機械をIBMは開発していた。 パンチカード機器「ホレリス」がそれである。 ナチスはIBMの提供したパンチカード技術を使い、ドイツ国民の名前・住所・家系・銀行口座などの情報がすばやく参照できるようにした。 その技術で、同性愛者をナンバー3、ユダヤ人をナンバー8、ジプシー(ロマ)をナンバー12などと区分していた。 ブラックは言う。「IBMがナチスに提供したパンチカード機器『ホレリス』がユダヤ人の判別と鉄道の効率的な運行を容易にし、ユダヤ人問題の最終解決に無比の威力を発揮したのである。 もちろん、IBMなしでも、ホロコーストはすべての形で行なわれたであろう。 しかし、IBMなしであったら、ナチスによる犠牲者の数は実際よりも遥かに少なかったはずである。 その意味ではIBMの創業者トーマス・ワトソンへの高い評価はスキャンダラスと言わざるを得ない。 先見の明があった社長どころか、ホワイトカラーの犯罪者なのである。 IBMは戦後、全くその責任を問われなかった。 ナチス時代のIBMのすべての幹部は報償を与えられ、昇進した。 その忠誠心が報われたのか、または、その効率の高さが報われたのであろう。 私は、命令を実行することに満足していたIBMの幹部たちを責めようとは思わない。 しかし、トーマス・ワトソンとその取り巻きたちは、自分たちのしていることを十分に承知していたことだけは繰り返し指摘したいと思う」。