ゲーレン機関

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太平洋戦争が始まる直前、独自のスパイ組織の必要性を痛感していたアメリカのルーズベルト大統領は1941年7月に情報調整局(OCI)を創設し、翌年、イギリスの情報機関をモデルにして、情報調整局(OCI)を戦略情報局(OSS)に改組した。 戦略情報局(OSS)は世界的規模の戦略情報の収集・分析および特殊活動を担当した。 そのスタッフの総数は凡そ1万2000人だった。

ドイツ陸軍将校ラインハルト・ゲーレンはナチス・ドイツの陸軍参謀本部東方外国軍課長を務めていた。 ラインハルト・ゲーレンは対ソ連諜報活動の責任者としてソ連に広大なスパイ網を作り、その情報分析能力は高く評価されていた。 彼は、ドイツの敗北をいち早く察知すると、ソ連関係の重要記録をアルプスの要塞に隠匿し、ソ連軍の追求を逃れて部下と共にアメリカ軍に降伏した。 アメリカ政府にとってラインハルト・ゲーレンの持つソ連関係の膨大な情報は正に宝であった。 東西両陣営の対立は第二次世界大戦が終わった時点で確定していた。

アメリカの戦略情報局(OSS)ベルン支局長アレン・ウェルシュ・ダレスはヨーロッパ戦線の終結と同時にラインハルト・ゲーレンと接触した。 この2人は紳士協定を結び、ナチスの情報機関とアメリカの情報機関とをつないだ。 これによって生まれたのが対ソ連諜報活動を行なう「ゲーレン機関」である。 ゲーレン機関の本部は西ドイツのプーラッハに置かれた。 ゲーレンが持っていた対ソ連スパイ網は大部分そのままの形でアメリカの情報機関に移植された。

のちにラインハルト・ゲーレンはアレン・ウェルシュ・ダレスと結んだ紳士協定の内容を明かした。 その内容は次のようなものであったという。 【1】 東側で情報を収集し続ける今の力を使って、ドイツの秘密情報組織を設けること。 対共産主義防衛への我々の共通の関心がその土台となる。 【2】 この組織は、アメリカの為に働くのではなく、アメリカの下で働くのでもなく、アメリカと共同して働くものとする。 【3】 この組織は、ドイツ国内に新政権が成立するまで、アメリカからの指令を受ける。 【4】 この組織は、経費とは別の融資をアメリカから受け、その見返りに、この組織は機密情報すべてをアメリカに渡す。 【5】 ドイツに新政権が成立したとき、ドイツ政府はこの組織を存続させるべきか否かを決定する。 そのときまで、この組織の統制管理はアメリカの手中にある。 【6】 アメリカとドイツとの利益が背反する状況になったときには、この組織はドイツの利益を優先させる。

アメリカの戦略情報局(OSS)は1945年10月にトルーマン大統領によって解散させられたが、諜報活動はいくつかの機関に受け継がれ、これらを取りまとめる形で1947年9月、CIA(中央情報局)が設立された。 CIAの設立当時、ソ連情報は全てゲーレン機関によって管理・統括されていた。 ゲーレン機関の報告がCIAの用紙にそのままタイプされ、トルーマン大統領の手に渡ることもあった。 また、ある時期のNATOが有するソ連情報の70%はゲーレン機関が提供したものだとも言われている。 このように元ナチスのラインハルト・ゲーレンは実力の面でも、影響力の大きさからしても、実質上「CIAの設立者」と呼んでもよいような存在であった。

CIAの設立当時、ゲーレンと共に活躍したハリー・ロシツケは次のように述べた。「1946年の時点で、アメリカ情報機関がソ連について持っている情報はほとんど皆無に等しかった。 道路や橋、工場の位置や生産能力、都市計画や空港、こういった基礎的な資料すらなかったのである。 ゲーレン機関は、CIAが基礎的な資料を入手するにあたって、主要な役割を果たしたことは事実である」。 長きに渡って国務省情報調査局の局長を務めたパーク・アームストロングはゲーレン機関について次のように記録した。「アメリカの国益にとってゲーレン機関は不可欠であった。 ドイツ人の提供したソ連の軍事情報は我々の方針を左右することもあった」。

ゲーレン機関は発足当初、ナチス親衛隊やゲシュタポ(秘密警察)のメンバーだった人物を雇い入れたり、逃亡中のナチス高官を庇護する組織「オデッサ」のメンバーをアメリカ情報機関の従業員名簿に登録したりし、彼らに避難所を提供していたと言われている。 例えば、ゲーレンは、「リヨンの屠殺人」と言われていた元ナチス親衛隊員のクラウス・バルビーと一緒にCIAの情報活動をしたり、ユダヤ人の虐殺に関与した元ナチス親衛隊の情報員アルフレッド・ジックスやエミール・アウグスブルクといった逃亡中のナチス戦争犯罪人を雇って、対ソ連情報網を復活させたりした。 要するに戦後初期のゲーレン機関はナチス・エリート・スパイ集団だった。

ナチス戦争犯罪を追及するジャーナリストのクリストファー・シンプソンによれば、ゲーレンの情勢報告はソ連の脅威や軍事的意図を組織的に誇張し、アメリカ国内での共産主義者の破壊活動に関するアメリカ人の妄想症を煽り立てたという。 クリストファー・シンプソンは次のように語る。「第二次世界大戦後のアメリカに雇われた元ナチス党員と元ナチス協力者で、潜在的に極めて大きな影響力を持っていたのはゲーレン機関である。 ラインハルト・ゲーレンのソ連軍事力に関する分析は、独ソ戦に敗れたことで一層鍛えられ、アメリカ情報機関に広く利用され、今日でもなお重要視されている。 しかし、CIAと国務省の双方に勤務したソ連問題専門家アーサー・メイシー・コックスは、ゲーレンが1つ重大な過ちを犯したと指摘する。 ソ連がアメリカに与える脅威はあくまでも政治的であるのに、ゲーレンはそれがあたかも差し迫った軍事的問題であるかのように報告し、『国防総省と連邦議会にいた時代錯誤の冷戦主義者に取り入っていた』というのである。 ゲーレンの情報や分析は『共産主義者の陰謀』という見方を外交政策において強めることになった。 この見方により、ヨーロッパで起こるストライキや学生運動は全てクレムリンが裏で手を回しているものであるかのように見えたのである」。

このようにゲーレンは情報を操作して、ソ連をこれ以上ないというほど悪く描き出した。 ソ連のアメリカヘの脅威がゲーレンの情報活動によっていっそう険悪になり、冷戦は避けられなくなった。 CIAが「ソ連の脅威」を発表すればするほど、アメリカ国防総省は予算を獲得することができた。 国民は国防費に多くの予算がさかれることに賛成するし、賛成せざるを得ない。 その結果として、国防関係の企業や兵器産業の企業は笑いが止まらないほど膨大な収益を得ることができた。 そして、それらの企業の背後に控える国際金融勢力(ユダヤ系&ロックフェラー系)も膨大な収益を得ることができた。 そして、アメリカの産業が色々な面で活気づいた。

脱ナチス推進協会のカール・オグレスビーは言う。「ラインハルト・ゲーレンの情報網が我が国アメリカに提供したのは、東西関係を悪化させ、アメリカとソ連との軍事紛争の可能性を高めるよう特に的を絞った情報だけだった。 明らかにゲーレン機関は冷戦を煽っていた」。

1954年10月、西ドイツのアデナウアー首相が、西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)加盟に支持を取りつけるためのデリケートな交渉の過程でアメリカを訪問した。 外交レセプションの席上、当時のアメリカ陸軍情報局長トルドー将軍は「プーラッハの不気味なナチ一派を信用していない」( プーラッハにはゲーレン機関の本部があった)と、個人的にアデナウアー首相に告げた。 つまり、NATO加盟が認められる前に国内をきれいにするのが賢いやり方だと示唆したわけである。 この発言は後にマスメディアに漏れ、CIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスを激怒させた。 その後の騒ぎで、縄張り意識を持った統合参謀本部はトルドー将軍を支持した。 一方、CIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスは、当時アメリカの国務長官であったジョン・フォスター・ダレスをゲーレン擁護のためにかつぎ出した。 アメリカ陸軍情報局長トルドー将軍は突然、情報活動から外され、極東の目立たない司令部への転属を命ぜられ、その数年後に退役した。