パレスチナはユダヤ人だけの故郷なのか

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つい最近まで、世界中の大部分の人は少しも疑問を抱かず、ゴルダ・メイア首相の次のような発言を受け入れてきた。「どうして我々は、自分たちの占領した土地を返還できようか。 それを返還するにも、受け取る人間がいないではないか。 パレスチナ人などというものはいなかった。 パレスチナにあたかも自らをパレスチナ国民とみなす人間がいて、我々がやってきて彼らを放り出し、彼らから国を取り上げた、ということではなかった。 そもそも、『パレスチナ人』などというものは存在しなかったのだ」。 パレスチナ人の運命がパレスチナ紛争の核心を成しているにもかかわらず、パレスチナ人の存在そのものが無視されてきた。 それは、多くのユダヤ人がナチス政権による迫害を逃れてパレスチナに安住の地を求めてやって来たことを少しでも知った者は大いに心を動かさずにはいられなかったからである。

イスラエル建国に見せたユダヤ人たちの大きな努力は大変な称賛を博した。 しかし、イスラエル国が無人地帯に作られたかのように主張するのは不当である。 パレスチナにアラブ人が住んでいるという発見は初期のユダヤ人入植者にひどいショックを与えた。 “ユダヤ建国の父”テオドール・ヘルツルの親密な仲間で、第1回シオニスト会議の「バーゼル綱領」を起草したマクス・ノルダウは、1897年のある日、泣きながらヘルツルの所へやって来て、次のように訴えたという。「パレスチナにはアラブ人たちがいる。 私はそんなことを知らなかった」。

現在パレスチナと呼ばれる土地は紀元前5世紀頃までは「カナン」と呼ばれていた。 ユダヤ教聖典(キリスト教徒の言う『旧約聖書』)によれば、元来、カナンにはカナン人をはじめとして、ヘト人・ヒビ人・ペリジ人・ギルガシ人・アムル人・エブス人が住んでいた。 そこへ紀元前1200年頃、エジプトを出た古代イスラエル人(古代ユダヤ人)が大挙して侵入し、先住民と戦闘を交え、先住民を殺害し追い払い、定住した。 先住民と古代イスラエル人との戦争は凡そ200年間続き、その過程で古代イスラエル人は徐々に優勢になり、紀元前1020年頃、イスラエル王国を樹立した。 紀元前928年、イスラエル王国は北イスラエル王国と南ユダ王国とに分裂した。 紀元前722年、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされた。 それ以来、カナンと古代イスラエル人は様々な国により支配された。 大雑把に言うと、紀元前6世紀前半には新バビロニアに支配され、紀元前6世紀後半から紀元前4世紀半ばまではペルシャに支配され、紀元前4世紀半ばから紀元前2世紀半ばまではギリシャ・エジプト・シリアに支配され、紀元前63年からはローマに支配された。 西暦132年、この地のユダヤ人はローマ帝国の支配に対して「バル・コクバの乱」を起こした。 この反乱は西暦135年にローマ帝国より徹底的に鎮圧され、その結果、この地のユダヤ人はパレスチナから追放され、離散した。 その後、パレスチナにはアラブ人が住み着いた。 そして、19世紀の末にユダヤ人シオニストがパレスチナにやって来るまで、パレスチナは全面的にアラブ的な性格を帯びていた。 結論を言えば、パレスチナはユダヤ人だけの故郷ではない。

ユダヤ教聖典の『ヨシュア記』には、モーセの後継者たちが如何にカナンの先住民を殺害・追放してカナンを奪い取ったかが記されている。 既に、この当時からイスラエル・パレスチナ問題の原型が存在していた。