極右ユダヤ人医師が起こした「ヘブロン虐殺事件」

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西暦1993年8月20日、イスラエル政府はPLO(パレスチナ解放機構)をパレスチナ人の代表として認め、PLOはイスラエル共和国が国家として平和と安全の内に存在する権利を認め、イスラエル政府とPLOとの間で「オスロ合意」が成立した。 西暦1993年9月13日、「オスロ合意」に基づき、ワシントン D.C.のホワイトハウスにおいて、 イスラエル共和国のラビン首相とPLOのアラファト議長とが「パレスチナ暫定自治協定」に調印し、長年互いに対立してきたラビン首相とアラファト議長とが初めて握手をした。 世界中の人々がこの調印を「歴史的な和解」として歓迎した。 しかし、ユダヤ人側にもパレスチナ人側にもこの調印(和解)を歓迎しない勢力がいた。「妥協はするな。 アラブ人に死を! アメリカの援助はいらない。 ラビンは裏切り者だ」。 連日のようにエルサレムで「パレスチナ暫定自治協定」に反対するデモが起きた。 デモ参加者の大多数は占領地に住むハザール系ユダヤ人入植者で、「キパ」という小さな帽子を頭に着けていた。 デモ参加者の大多数は若者で、銃を持つ人もデモに参加していた。 アラファトと握手したラビンが手を洗っているポスターもあった。 アラファトと握手した為、手が血まみれになったというのだ。「アラファトはテロリストだから、彼の手は血だらけだ」というのである。 デモ隊は松明(たいまつ)をかざし、パレスチナの旗を燃やし、デモを規制する警官には「イスラエルは警察国家」と叫んだ。 首相官邸のそばで大勢の者が逮捕された。 しかし、逮捕された者はすぐ釈放された。 それから数ヶ月後の1994年2月25日早朝、イスラエル軍が不法に占拠している都市ヘブロンで大事件が起きた。 ユダヤ教とイスラム教の聖地である「マクペラの洞窟」で、礼拝中のイスラム教徒800人に向かって、バルフ・ゴールドシュタインというユダヤ人が自動小銃を乱射した。 死者はイスラエル兵の射撃によるものを合わせて60人を超え、負傷者は200人近くに達した。 犯人バルフ・ゴールドシュタインはその場でパレスチナ人により殴り殺された。 この虐殺に怒るパレスチナ人がエルサレムやガザ地区など各地で抗議行動に出たところ、イスラエル兵が銃で制圧し、その日だけで、更に25人強のパレスチナ人が殺された。 虐殺犯人バルフ・ゴールドシュタインは、1983年にアメリカからイスラエルに移住してきた42歳の医師で、イスラエル陸軍の少佐でもあり、ヘブロン近郊のユダヤ人入植地に住み、パレスチナ人を追放しようとする極右シオニスト組織「カハ」の幹部を務めていた。 彼は医師でありながら、パレスチナ人の治療を拒否していた。 現地のユダヤ人入植者たちは、かねてからパレスチナ人の病院などを武力で接収したり、モスクの絨毯を燃やしたり、パレスチナ人の商店をたびたび襲撃したりして、暴力を欲しいままに行使していた。 これに対してイスラエル軍は「入植者がパレスチナ人を銃撃しているところを目撃しても、発砲してはならない」という命令を出して、全てを放任してきた。

イスラエル紙『ハアレツ』によれば、イスラエル軍によるパレスチナ人虐殺は高度の承認を得ていたという。 また、イスラエルの人権グループの調査によれば、過去数年のユダヤ人によるパレスチナ人殺害事件62件のうち、殺人罪を問われたユダヤ人はわずか1人だった。 更に重大なことは、この虐殺に怒るパレスチナ人がイスラエル当局による外出禁止令の中で次々と逮捕され、射殺されてきたことである。 パレスチナ人過激派を取り締まると称して、妊婦までが殺された。

イスラエル政府はパレスチナ人過激派の侵入を阻止するため、ヨルダン川西岸地区を取り囲む壁の建設を2002年に始めた。 この壁は高さ8メートルのコンクリート製で、2007年末時点で壁の総延長は409キロメートルに達しており、最終的な総延長は790キロメートルになる予定だという。 こうして、パレスチナ人の居住地区がゲットー化した。 “ベルリンの壁”に喩えられるこの壁には「ゴールドシュタインは永遠の人」という言葉がヘブライ語で書かれている。

ゴールドシュタインが幹部を務めていた極右シオニスト組織「カハ」の指導者はメイア・カハネという人物であった。 メイア・カハネはニューヨーク生まれのユダヤ人で、FBIでユダヤ人青年の動向調査に従事していた。 彼は1968年に「ユダヤ人防衛連盟」を設立し、反黒人キャンペーンを開始し、ブラックパンサー本部を襲撃したり、在米アラブ人差別反対同盟の会長を暗殺したりした。 この「ユダヤ人防衛連盟」には支援者であるユダヤ人から年間50万ドルが寄付され、その大口寄付者には日本にも進出している有名なアイスクリーム会社も名を連ねていた。 メイア・カハネは1984年、イスラエルの国会議員に選出された。 彼は自分のことを現代の「預言者」だと公然と言い、人々から「ユダヤのヒトラー」と恐れられた。 彼は次のように主張した。「イスラエルにアラブ人が住むことは、神に対するあからさまな冒涜である。 アラブ人の駆逐は政治的活動を超えたものである。 それは宗教的行為である。 我々ユダヤ人は特別な民族であり、我々はその清浄さと神聖さとのゆえに選ばれたのだ」。 メイア・カハネの主張は「大イスラエルの復活」と「占領地のパレスチナ人を武力で排除する」というものだった。 彼はイスラエルの国会議員として勢力を伸ばしたが、1990年に暗殺された。

バルフ・ゴールドシュタインが引き起こしたヘブロン虐殺事件により和平交渉は中断された。 ヘブロン虐殺事件はイスラエル社会に大きなショックを与えた。 しかし、同じく衝撃的だったのは、エルサレムの高校でこの虐殺事件について調査したジャーナリストの報告だった。 その調査によれば、半数強の生徒がこの虐殺を支持した。 更に、教育省が全国の教師を集めて会議を開き、そこで副大臣のゴールドマンが虐殺を批判する演説を行なうと、彼は大勢の教師たちから石を投げ付けられ、逃げ出したという。 また、別の高校では、20人の生徒がバルフ・ゴールドシュタインのために黙祷し、テレビで「虐殺を支持する」と発言した。 中には次のような衝撃的なことをしゃべる子供もいた。「あいつら(パレスチナ人たち)が僕らを殺すかわりに、僕らがあいつらを殺すんだ。 僕が大きくなったら、自動小銃を持って、ゴールドシュタイン先生と同じことをしたい。 僕が大きくなったらアラファトとラビンを殺してやる」。

ヘブロン虐殺事件から2ヶ月後の1994年4月、ヘブロンに隣接するユダヤ人入植地キリヤト・アルバで「和平反対」の1万人集会が催された。 司会者は次のように演説した。「我々の父祖アブラハムがマクペラの洞窟を買い取って以来、何千年にもわたって続いてきたこのユダヤ人定住地に、存続の危機が訪れています。 ユダヤ人の皆さん、武器を持ちましょう。 アラブ人から身を守るために」。

ヘブロン虐殺事件を契機にして、パレスチナ人による初めての「自爆攻撃」が行なわれたが、日本ではこれらの事実経過は報道されず、パレスチナ人の単なる「自爆テロ」として報道された。