パレスチナ人の土地を没収したイスラエル政府

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イスラエル建国神話として次のようなものがある。「パレスチナ人たちはパレスチナの土地を所有していたが、長い間、その土地に対して何もしなかった。 彼らはほとんど土地を開拓せず、ただ僅かなみすぼらしい農場があるだけだった。 我々はそれらの土地を合法的に買収した。 今日イスラエルで見ることが出来るあらゆるもの、例えば、村や町、都市、農場など、これらは全てユダヤ人が1948年以降に作り上げたものである」。
確かにイスラエルが建国される以前、ユダヤ人のパレスチナへの移住は「土地の買収」を通じて行なわれた。 シオニスト組織はロスチャイルド一族の資金援助の下でパレスチナの土地を購入した。 パレスチナに土地を所有する不在地主たちはシオニストに土地を売り、パレスチナ人の政治家や有力者の中には、口ではシオニズムに反対しながらも、実際には金のために土地を手放した者もいた。 しかし、上記の神話は果たして本当のことを物語っているだろうか。 真相を探る者は、ユダヤ人がパレスチナに来る前からパレスチナは開発されてきたという事実を知るだろう。 そして、イスラエル建国後、ユダヤ人の入植活動は更に強硬なものになり、パレスチナに元々あった数多くのアラブ人の村々が強引に奪われていったという事実を知るだろう。

イスラエル共和国の成立が宣言された1948年5月14日以前、パレスチナには475の村があったが、この日以降、これらの村の5分の4(385の村)がイスラエル当局によって完全に破壊され、わずか90の村が残った。 そして、特に重要な点は、パレスチナの村々の破壊は第一次中東戦争(1948年5月15日〜1949年7月)によるのではなく、第一次中東戦争が終わってしばらく経ってから、本格的に開始され、現在まで延々と続いているという事実である。

ナチス・ドイツの強制収容所の生き残りであり、人権と公民権のための「イスラエル連盟」を組織したイスラエル・シャハク博士は、1973年の報告書『イスラエルで破壊されたアラブの村』の中で次のように語っている。「1948年以前のアラブ人居住区に関する真実は、イスラエル人の生活の中で最も固く守られている秘密の一つである。 書籍であれパンフレットであれ、どんな出版物も、その数や位置などを知らせてはくれない。 それは意図的なことであり、そうすれば、公的に受け入れられている神話『ユダヤ人は誰もいない土地に入植したのだという作り話』を学校で教えられるし、訪問者にも語ることができるからだ」。 彼の報告書によると、31の村があったラムレー地区のように、多くの地区でアラブ人居住区がイスラエル人によって破壊された。 エルサレム郊外のヤッファ地区では、ただヤッファ市だけが残った。 破壊された385の村々のほとんどは、墓地や墓石まで含めて、ブルドーザーで根こそぎにされてしまったという。 これでは、通りがかりの訪問者が「そこは全くの砂漠だった」と聞かされても、信じるしかないだろう。 パレスチナの村々の破壊はいつも同じように行なわれている。 ある日、安全の為とか公共物建築の為とか戦争の危険がある為とかの理由で、村民が一時的避難を命令される。 そして、村民が村を離れたあと、その村の土地は没収され、ユダヤ人入植村(多くの場合キブツ)に与えられた。 これには、次のような法律が用いられた。 まず「不在者財産没収法」(1950年)がある。 この法律は、国連総会でパレスチナ分割案が可決された1947年11月29日から1949年9月1日までに、近付く戦火のため近隣の村に一時的に避難した者、イスラエル軍の命令で村を立ち退いた者に適用された。 更に、この法律は、その期間中に村を出なかったと証明することが出来ない者、及び、土地・家屋が自分の所有物だという証明書を持たない者にも適用された。 そして、この法律の適用を受けた者の土地(所有地)は没収された。 イスラエルが占領した土地の中にあった370の村のうち300の村がこの法律の適用を受けた。 土地没収の2番目の法律は、イギリス政府が主としてユダヤ人テロリストを対象に作った「緊急法」(1945年)である。 この法律は、パレスチナにいたユダヤ人弁護士が「ナチスの法より悪質」と非難したと言われているものである。 この「緊急法」の109条には「軍司令官は命令によって、特定の地域における居住を禁じることができる」とあり、112条には「軍司令官は市民の国外追放、財産没収、帰国禁止を命令することができる」とあり、119条には「軍司令官は市民の家屋を没収、あるいは破壊することができる」とある。 125条には「軍司令官は或る地域の閉鎖を命令することができる。 この地域に入ること、そこから出ることは禁止される」とあり、この125条が最も多く適用された。 この125条では、閉鎖地域の境界は一般に明らかにされない。 従って、人々はこの法律を守るすべがなく、知らずにこの法律を犯すことになる。 125条は主として、パレスチナ人が自分の村に戻ろうとするときに適用され、14の村が閉鎖され、その土地が没収された。 125条適用の象徴的な例は、バルアム村に対してのものである。 この村は第一次中東戦争では中立を保っていたが、125条によって「閉鎖地域」と宣告された。 これを不服とした住民が、1953年にイスラエル最高裁判所に訴えると、イスラエル最高裁判所は「彼らの帰村は認められるべきである」との判決を下した。 しかし、この判決に対し、イスラエル軍は極めて乱暴な対応に出た。 イスラエル軍の爆撃機が1953年9月16日、閉鎖されて人ひとりいないバルアム村を爆撃した。 この爆撃は村全体が焼けて廃墟になるまで続けられた。 そして、この村の土地は近くのユダヤ人入植村に与えられた。 村を破壊された住民たちは、近くのグーシュ・ラハブ村で掘立て小屋の生活をする破目になり、政府の補償金を断り、祖国の中の難民として生活している。 最近では、125条はガリラヤ地方のデイル・アル・アサド村、ビマ村、ナハフ村に適用され、村々の土地の大部分が没収され、村民1万人は日雇い労働者となった。 そして、この没収された土地の上には、ユダヤ人の近代的な町カルミエールが建設された。

イスラエル政府はこの悪質な「緊急法」を更に強化する為に、1949年に新しい条項を盛り込んだ。 これは、ある地域の無人化が保安上必要だと宣言されたら、住民は2週間以内に立ち退かなければならないというものである。 ガリラヤ地方北部のパレスチナ人キリスト教徒村イクリットは、1948年10月31日、イスラエル軍に占拠された。 村民は2週間だけ村を離れるように命令され、当座の食糧だけを持って立ち退いた。 しかし、いつまでも帰村が許されず、村民はイスラエル最高裁判所に訴え、帰村は正当との判決を得た。 そして、村民が村に戻ろうとした時、この新しい条項が適用され、村民がもう一度イスラエル最高裁判所に訴えた直後の1951年12月25日のクリスマスの日、この村は爆撃された。 そして、この村の土地は近くの2つのユダヤ人入植村に分け与えられた。 そのほか1948年10月15日に施行された「非耕作地開拓のための緊急条項」というものがある。 これは放置されている土地を耕作する意志のある者の手に移すための条項であり、他の法律と組み合わされて用いられた。 その用い方はと言うと、ある地域を閉鎖地域と宣言して、立ち入りを禁止し、その地域を非耕作地とし、そのあと、この法律をその地域に適用し、その地域の土地を没収し、近くのユダヤ人入植者に渡すのである。

キブツ(イスラエルの共産村)のユダヤ人は今でも「人の住まない荒れ地を緑地にしたのは我々だ」と言ったり、「アラブ人は怠け者だ」と言ったりしているが、その背景には、以上のような法律がある。 しかし、イスラエルの一般ユダヤ人は、これらの法律の存在を知らないという。

1953年、2人のユダヤ人が殺された報復に、イスラエル軍はヨルダンのキビア村を襲撃し、無抵抗の住民50人を殺害した。 指揮を取ったのは、のちのイスラエル首相シャロンであった。

1956年、カセム村は閉鎖命令(出入り禁止令)を申し渡された。 この命令が出た時刻はこの命令発効の30分前であった。 多くの村民は遠くに働きに行っていて、30分以内に村に戻れないことは明らかだった。 命令を受けたイスラエル兵は「女、子供はどうするのか」と質問した。 上官は「哀れみをかけるな」と言った。 こうして、仕事から次々と帰村した村民47人が待ち伏せされ、殺された。 最後に殺されたのは、トラックに乗っていた女性14人を含む17人である。 イスラエル政府がこの事件の報道管制を敷いている間に、このニュースがヨーロッパに伝わり、そのため、イスラエル政府はこの事件を隠しおおせなくなった。 この事件の責任者たちは裁判に掛けられ、有罪となった。 しかし、次々と減刑され、有罪判決が出てから1年半で全員が釈放された。 しかも、その1人は市役所のアラブ課の責任者として迎えられた。 この事件の最高責任者は「単なる技術上の過失」を犯したとして、実に10円にも満たない形式だけの罰金で釈放された。

1943年にイギリスが施行した「公益のための土地取得法」も適用された。 政府の建物を建てるという理由でナザレの広大な土地が没収され、そこにユダヤ人だけが住める街アッパー・ナザレが建てられた。 これ以外にも、村民を車に乗せて国境まで連れて行き、銃殺した例は枚挙にいとまがない。 1949年にはアナン村民とクファル・ヤシフ村民が、1950年にはマジュダル村民が、そして、1959年には多数のベドウィンがヨルダンやエジプトに追放された。 こうして奪われた土地はユダヤ国民基金の手に移され、そこからユダヤ人入植者に渡された。 土地がイスラエル政府のものならば、その土地を国民であるユダヤ人とパレスチナ人の為に用いなければならないが、土地がユダヤ国民基金のものならば、その土地をユダヤ人の為だけに用いることが出来るわけである。

1973年4月、ナブルス東南6マイルのところにある小さなパレスチナ人のアクラバ村で、4000人の農民が自分たちの土地を売ることを拒絶したとき、イスラエル当局は凄まじい行動を起こした。 彼らは戦闘機でアクラバ村上空を飛行し、村の小麦畑に枯葉剤を撒き散らし、生育中の全ての小麦をダメにした。 彼らは厚かましくも、この過激な行動を素直に認め、それはただ「イスラエル軍が立ち入るなといった土地で頑固に農耕を続けている村民たちに教訓を与えるためだ」との声明を出した。

パレスチナ人のゲリラ活動が活発になると、イスラエル政府はこれらのゲリラ活動に厳罰で対処した。 1人のゲリラが出たら、彼の家族の住む家を爆破し、やがて付近の住居全部をダイナマイトとブルドーザーで破壊した。 ナチスが用いたような「共同懲罰刑」を課したわけである。 ヒルフール市では一度に30軒の家が破壊された。 やがて、ガザのキャンプでは、イスラエル軍のパトロールが行ないやすいようにと、家々を破壊して道路が広げられた。 子供のデモにも容赦なかった。 デモ規制による死者が増え、ヨルダンへの追放や逮捕・拷問が伝えられるようになった。 そのほか、ヨルダン川を渡って戻ってこようとしたパレスチナ難民(女、子供を含む)が警告なしに次々と殺された。

イスラエル共和国の歴史は隠されている。 そして、人々はそれを知っているが、口をつぐんでいる。 それに言及すれば、自分がパレスチナに住む正当性がなくなるからである。 初めのうち、イスラエル政府のやり方に抗議していた人々もやがて沈黙していった。 むしろ、左派に属する人ほどその傾向が強い。 最近では極右の人は堂々と次のように言う。「なるほど、俺たちは不正を犯した。 しかし、それがどうだっていうんだ。 ここは神が俺たちに与えてくれた土地なんだ」。