ベングリオンの指揮下で実行されたデイル・ヤシン村虐殺作戦
国連でパレスチナ分割案が可決された1947年11月29日以降、イギリス委任統治領パレスチナではユダヤ国家建国をめぐってユダヤ人シオニストとアラブ人との衝突が激しくなり、実質的に戦争状態になっていた。 こうした状況の中で、ユダヤ人シオニストは「ダレット計画」という作戦を立てた。 この作戦はパレスチナに住むアラブ人を無差別に虐殺することで彼らの中にパニックを引き起こし、それによってパレスチナに住むアラブ人を大量追放しようというものであり、13個の小作戦から成っていたと言われる。 デイル・ヤシン村虐殺作戦は、これらの小作戦の中の1つであった。 この作戦の実行はベングリオン(シオニスト組織の最高幹部、後のイスラエル初代首相)の指揮下で実行された。 1948年4月9日、メナヘム・ベギン率いる「イルグン」と、イツハック・シャミル率いる「レヒ」の両ユダヤ人テロ組織が、中立を表明していたエルサレム近郊のデイル・ヤシン村を攻撃した。 この攻撃により無抵抗の254人(最近の研究では107人〜120人)の男女・子供が無差別に虐殺され、生き残った者は血だらけの服のままエルサレムでの「勝利の行進」に同行させられた。 これが悪名高い「デイル・ヤシン村虐殺事件」である。 中立の村でさえ、こんな目に合うと知った他の村々のアラブ人はパニックに陥リ、それをユダヤ人シオニストが更に煽りたてることによって、大量のアラブ人が家と土地を捨てて逃げだした。 こうして、1948年5月14日のイスラエル共和国成立宣言の前に40万人のパレスチナ難民が発生した。
デイル・ヤシン村虐殺作戦を実行したメナヘム・ベギンは「もし、デイル・ヤシンの勝利がなければ、イスラエルの国は生まれなかっただろう」と言った。 なお、メナヘム・ベギンは、かつて、その首に賞金がかけられたことがある。 イギリス政府がパレスチナを委任統治していた時期(1920年〜1948年)、エルサレムの由緒ある「キング・ダビデ・ホテル」にはイギリス軍の司令部が置かれていた。 このホテルで1946年7月、大爆発が起きた。 これはメナヘム・ベギン率いる「イルグン」のテロであった。 このことでイギリス政府はメナヘム・ベギンをお尋ね者にした。 このように、メナヘム・ベギンは筋金入りのテロリストであったが、1977年にイスラエル首相になり、1978年には「ノーベル平和賞」を受賞した。
1948年、アインシュタイン博士は、ハンナ・アレントらユダヤ系知識人と連名で、訪米中のメナヘム・ベギンとその政党「ヘルート」をファシストと呼び、デイル・ヤシン村虐殺事件などのテロ行為を非難する書簡を『ニューヨークタイムズ』紙上に発表した。