強化されたイスラエルの対テロ戦術と日本赤軍が起こした「ロッド空港乱射事件」

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PFLP(パレスチナ解放人民戦線)による「エルアル航空ボーイング707型426便ハイジャック事件」(1968年7月)はイスラエル当局に大きな衝撃を与えた。 当時のイスラエルの国内治安局「シンベト」の長官ハルメリンは次のように述懐している。「我々は絶望の淵に立たされていた。 テロ、とりわけ航空機テロとの闘いでは、成す術がないように感じられた」。 しかし、イスラエル当局は脅迫に屈服した恥辱の教訓から速やかに結論を引き出した。 これからは断じて、テロリストの要求には応じないと誓ったのである。 同時にイスラエル当局は、この種の問題に対処するには、断固たる決意表明だけでは不十分であることも知っていた。 言葉だけでなく、新たな方策が必要だった。 対テロリズム戦術である。

イスラエルの国内治安局「シンベト」はPLO過激暴力分子の移動を丹念に追跡した。 対外諜報機関「モサド」は「シンベト」とライバル意識が強く、また、それまでは国外での諜報任務をほぼ独占していたのだが、「シンベト」が国外に活動を広げるのを渋々ながら認めた。 PLO過激暴力分子を追い詰めるのが火急の任務だと認めたわけだ。 そして、イスラエル政府は迅速に新セキュリティー体制を導入し、空港では極端な安全対策を施し、機内持ち込み手荷物、預託貨物を厳重に点検することにした。 更に、貨物室を強化し、仮に爆弾が貨物室内で爆発しても客室に被害が及ばない工夫をした。 1972年8月、イスラエル国営エルアル航空707便が乗客140人、乗員8人でローマを離陸した直後に貨物室内で爆発が起こったときに、この工夫が功を奏した。 また、全てのフライトに「空の保安官」を搭乗させた。 彼らは私服で一般乗客に成り済まし、客席に座った。 彼らは軍のエリート部隊に所属したことのある青年たちで、拳銃の早撃ち訓練も受けていた。 このような安全対策を施した結果、イスラエル国営エルアル航空は世界で最も安全対策を施した航空会社になった。 世界がその事実を知ったのは、1969年2月のチューリッヒで、イスラエル国営エルアル航空の飛行機が武装したPFLPゲリラ4人にテロ攻撃を受けた際、「空の保安官」の1人が反撃し、ゲリラを滑走路で射殺してからである。

1972年5月8日、パレスチナ・ゲリラ組織「黒い九月」のメンバー4人がブリュッセル発テルアビブ行きの「サベナ・ベルギー航空572便」を乗っ取り、針路を変えずにテルアビブのロッド空港に着陸させた。 彼らは10人の乗務員と90人の乗客(うち67人がユダヤ人)とを人質にし、イスラエル政府に対し服役中のゲリラ317人を釈放するよう要求した。 イスラエル軍の諜報機関「アマン」の長官アハロン・ヤーリヴ将軍が巧みに男性2人と女性2人の犯人グループとの交渉に当たり、その間にイスラエル軍は本物の対応をした。 閣議決定に従い、5月9日午後4時22分、人質救出の特別訓練を受けたイスラエル特殊部隊「サエレト」の隊員が航空補修作業員の白い制服を着て、あらゆる侵入口から機内に侵入し、寸分違わぬ熟練ぶりで男性ゲリラ2人を射殺し、女性ゲリラ2人を負傷させ、93人の人質を解放した。 機内の撃ち合いでイスラエル人乗客1人が死亡した。 この速やかな解決で、イスラエルが対テロ戦術の新手法を生み出したことを世界に示すと、他の国々も急いで見習おうとした。 西ドイツ・イギリスをはじめ各国が治安機関員や軍コマンド隊員をイスラエルに派遣し、イスラエル軍のエキスパートたちはこれら友好諸国の人々にノウハウを伝授した。 その後、多くの国がイスラエル特殊部隊「サエレト」をモデルにした自前の特殊部隊を創設した。 イギリスは他国に先駆けて既に特殊部隊「SAS」を持っていたが、この事件を機に対テロ能力を向上させた。

サベナ・ベルギー航空572便ハイジャック事件の興奮が冷めやらぬ1972年5月30日、日本赤軍の武装ゲリラ3人が同じロッド空港の旅客ターミナルで自動小銃を旅客に向けて無差別乱射し27人の旅客を殺害するという事件が発生した。 被害者の約8割は、ロッド空港に到着したばかりのプエルトリコのキリスト教巡礼者だった。 一時の混乱から立ち直った警備陣が応戦し、テロリスト2人(奥平剛士・安田安之)は爆死し、残りの1人:岡本公三(当時24歳)は逮捕された。 岡本公三は取り調べにおいて、自分たちはPFLPとの連帯を証明するためテロを実行したと自白した。 この日本赤軍の殺戮行為は、3週間前(5月9日)のサベナ・ベルギー航空572便ハイジャック事件が失敗したことの報復であった。 岡本公三は終身刑の判決を受けたが、1985年5月20日、イスラエルとPFLPの捕虜交換で釈放された。 岡本公三はこの裁判で次のように述べた。「我々がこの事件を起こしたのは、赤軍の『革命への戦い』における『軍事的な任務』である。 我々3人の戦士は死んで、オリオン座の3つの星になる。 子供の頃、死ぬと星になると教えられた。 空港で命を落とした人たちも星となっているはずだ。 革命は続き、空の星は数を増すだろう」。 この事件から5週間後(1972年7月)、今度はイスラエル側が報復に及んだ。 イスラエル対外諜報機関「モサド」は爆発物を仕掛けた郵便をベイルートに送りつけ、パレスチナの詩人ガッサン・カナファーニを殺した。 彼はPFLPのスポークスマンを務めていた。 そして、その2週間後に、もう一通の郵便爆弾がPFLP幹部バッサム・アブ・シェリフの手の中で炸裂した。 彼は片目と数本の指を失った。 これに激怒したPLOは特別暗殺チーム「黒い九月」をミュンヘンオリンピック選手村に派遣した。 日本赤軍によるロッド空港乱射事件から約3ヶ月後の1972年9月5日、世界は新たな惨劇を目にすることになる。