インティファーダ(民衆蜂起)
1987年12月8日、イスラエルの占領地であるガザ地区で、イスラエルのタンクローリー車の突入によりパレスチナ人4人が死亡し、7人が重傷を負った。 この事件は占領統治され続けているパレスチナ人の貯まりに貯まった屈辱の思いを爆発させる引き金となった。 翌日、ジャバリア難民キャンプから自然発生的にデモが始まった。 それが数日後には、大規模な抗議行動に発展し、イスラエルの占領地であるヨルダン川西岸地区にも飛び火し、1人のパレスチナ人少女が射殺されたことを契機に、イスラエルへの抵抗運動「インティファーダ」(民衆蜂起)が一挙に全占領地に拡大した。
インティファーダが始まる以前の反イスラエル闘争は、PLO(パレスチナ解放機構)の下に編成されたパレスチナ・ゲリラによる占領地外での解放闘争の形をとっていた。 ところが、PLOは1970年〜1971年のヨルダン内戦、1975年〜1990年のレバノン内戦、1982年におけるイスラエル軍のレバノン侵攻(レバノン戦争)で壊滅的な打撃を受け、レバノンからの撤退を余儀なくされた。 PLOの力が弱まり、一方でイスラエルによる占領が長期化する中で、パレスチナ人の若い世代の不満は絶望に変わっていった。 それがインティファーダの発生につながったと言われている。 インティファーダの中心となったのは10代・20代のパレスチナの若者たちである。 彼らのほとんどはイスラエルによる占領下で生まれ育った世代である。 闘争手段は投石である。 闘争手段を投石に限定していることがこの運動を広げた。 これは「石の闘い」と呼ばれるようになった。 イスラエル兵は実弾を発射した。 それらの多くはゴム弾だったが、そのゴム弾の中心部は鋼鉄の玉だった。 そのため、死傷者が続出した。 それでもイスラエル兵に投石だけで立ち向かうパレスチナ人の姿が世界に報道された。 そして、「占領地の住民を弾圧するイスラエル軍、抵抗運動を繰り広げる果敢なパレスチナ人」という印象が世界中の人の心に強く刻まれた。
死傷者がいくら出ても闘いが終わらなかったのがインティファーダの特徴であった。 当時の国防大臣ラビン(のちの首相)のインティファーダ対策は熾烈を極めた。「石を投げる者の手足を折れ」と命令したことは広く知られている。 1990年11月時点の死傷者は、死者900人、重傷者4万9000人、打撲傷者2万4000人、手足を骨折した者1万6000人、流産した者3500人、催涙ガス弾での負傷者3300人で、投獄されたパレスチナ人は総数2万5000人であった。 インティファーダは1993年8月のオスロ合意の時点まで続いた。
なかなか終結しないインティファーダに手を焼いたイスラエル政府は占領地の封鎖で対抗した。 それまでに占領地の経済は破壊され麻痺していたが、占領地が封鎖されたとき、パレスチナ人が受けた打撃は大きかった。 貧困が加速された。 更にパレスチナ指導者の国外追放が続いた。 こうした状況の中で、イスラム教原理主義のスンニ派武闘組織「ハマス」が勢力を伸ばした。