ガザ地区のイスラム教スンニ派武闘組織「ハマス」

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「ハマス」とはアラビア語の「Harakat AL-Mugawama AL-Islamia(イスラム抵抗運動)」の頭文字をとったものであるが、同時に「熱狂」という意味でもある。 ハマスの起源はエジプトの「ムスリム同胞団」(イスラム教スンニ派)にある。 ハマスは、「ムスリム同胞団」のパレスチナ支部のアフマド・ヤシン師がインティファーダ(民衆蜂起)の勃発(1987年12月)とほぼ同時期に設立した対イスラエル抵抗組織である。

長年に渡り、パレスチナで反イスラエル武力闘争をリードしてきたのは、アラファト率いる左翼系民族主義組織PLOであった。 インティファーダ(1987年12月)が起きる前、パレスチナ占領地(ヨルダン川西岸地区とガザ地区)におけるイスラム抵抗運動はまだ弱小であった。 しかし、インティファーダによって急速に力をつけたハマスは、資金不足で弱体化したPLOに代わって、パレスチナ占領地で過激な対イスラエル武力闘争に乗り出した。

ハマスは、イスラエルを地上から抹消してパレスチナにイスラム共和国を樹立することを目標としているが、基本的に反アラファト・反PLOの立場をとり、PLOとイスラエル政府との間で締結されたパレスチナ暫定自治協定(1993年9月)で現状が固定されることを嫌い、アラファトを弱腰として批判しており、西側諸国からは「テロリスト集団」と言われている。 ハマスのスポークスマンであるマフムード・ザッハル氏は以下のようなコメントを出した。「アラファトは認識が甘いと思う。 イスラエルは狡猾で、アラファトのやり方では現在の自治地域においても結局はイスラエルに牛耳られる仕組みしか生まれない。 そして、イスラエルは、パレスチナがイスラム国家になることを決して容認しないことは確実だ。 だから、現実的に和解はあり得ない」(『軍事研究』1997年1月号より)。

1987年12月に始まったインティファーダにおいて、ハマスはPLOと一線を画した独自路線を歩み、PLOの軟弱外交に失望していたパレスチナ人たちから絶大な信頼をかち得た。 また、湾岸戦争時にPLOがフセイン支持を表明すると、これに反発したクウェートやサウジアラビアなどは資金援助をPLOからハマスに切り替えた。

ハマスの「表の顔」は非常にオープンであり、イスラム教に基づく教育・医療など社会活動に熱心で、貧困者を支援する為の基金を設けたり、学校や診療所や病院などの公共施設を作ったりしている。 貧困家庭へは無料サービスである。 イスラエル占領下におけるパレスチナ人のアラファト支持率は40%を割り始めており、ハマスはPLO主流派ファタハに対する最大のライバルとなっている。 実際、パレスチナ人の生活を支えているのは、パレスチナ暫定自治政府ではなく、ハマスである。

ハマスは「裏の顔」として3種類の秘密部門を持っていることも事実である。 第1は情報部門である。 これは利敵行為の摘発・スパイの摘発・矯正処罰・テロ実行のための情報収集などを任務とする。 第2は浄化部門である。 これはイスラム法に反した麻薬・売春・不当利得を取り締まるものとされる。 第3がイズ・アディン・アル・カッサム隊と称される軍事部門で、エルサレムやテルアビブなどの爆弾テロ殺人はこの軍事部門の犯行である。 この軍事部門の隊長は爆弾専門家だったヤヒヤ・アヤシュで、1996年1月にイスラエル秘密警察によって暗殺された。 しかし、この直後に「ヤヒヤ・アヤシュ門下生」という組織名を名乗ったハマス実行部隊が爆弾を体に巻き付けて連続自爆テロを起こし、イスラエル全土を震撼させた。

ハマスの創始者アフマド・ヤシン師はガザ地区で生まれ育ち、ガザ地区ではカリスマ的な宗教指導者として知られていた。 彼の絶大な影響力を恐れたイスラエル政府は、1989年に彼をレバノン領まで追いかけて行って逮捕した。 イスラエル軍事法廷は彼に終身刑を宣告し投獄した。 彼は1997年にモサド工作員との捕虜交換による政治的取引で釈放され、その後、ガザ地区に戻っていたが、2004年3月22日、ガザ市内の路上を車椅子で通行中にイスラエル軍ヘリコプターからのミサイル攻撃により殺害された。 現在、ハマスの実行部隊は完全に地下に潜っており、新聞・雑誌などにハマス幹部として登場するのは、アラファト寄りの穏健派である。
アフマド・ヤシン師