パレスチナ解放機構「PLO」
1950年代末から1960年代初頭にかけて、ペルシア湾岸諸国、エジプト、レバノンで働いていたパレスチナ人やヨーロッパに留学していたパレスチナ人学生の間で、パレスチナ解放を目指す武闘組織がいくつか作られた。 これらの武闘組織はどれもイスラエルの殲滅を目標として掲げていたが、イデオロギー的基盤は多様で、新左翼的な過激派からアラブ民族主義を強調する保守派まであった。 しかし、どの武闘組織も、メンバーは自らを「フェダイーン(一身を犠牲にして戦う戦士たち)」と呼んでいた。 これらの武闘組織の中で指導的な役割を持つようになったのは「ファタハ」という組織である。 これは1950年代末にエジプトに留学していたパレスチナ人学生の間で組織されたものである。「ファタハ」はヤセル・アラファトの指導下で力を伸ばした。 ヤセル・アラファトはエルサレムの名門フセイン家の出身であり、別名をアブ・アンマールといい、カイロ大学卒業後、エジプト軍の予備将校となり、クウェートで技師として働いていたこともある。
エジプトのナセル大統領は「アラブの統一こそパレスチナ解放への途」と主張していたが、これに対しアラファト率いるファタハは「パレスチナの解放こそアラブ統一への途」と主張し、周辺のアラブ諸国と対立していた。 アラブ諸国の指導者にとって、ファタハをはじめとして、パレスチナ解放を目指す諸武闘組織(ファタハ、サイカ、ALF、PFLP、DFLPなど)を放置しておくことは危険だった。 そこで1964年、エジプトのナセル大統領の主導で、パレスチナ解放を目指す諸武闘組織をまとめる上部組織として「パレスチナ解放機構(PLO)」が設立された。 このように、PLOが設立された背景には、アラブ諸国の指導者たちがパレスチナ人武闘組織を自分たちの管理下に置こうとする思惑があった。 初代議長にはアフマド・シュケイリが就任した。 PLOの誕生はパレスチナ人たちにとって、画期的な出来事だった。 1948年以来、パレスチナ人たちは、アラブ世界の中ですら、単なる難民としてしか扱われていなかった。 パレスチナの土地をイスラエルから取り戻すという「アラブの大義」も、エジプトを中心としてアラブ諸国の共同責任という形で考えられており、肝腎のパレスチナ人たちには何の役割も与えられていなかった。 しかるに今や、パレスチナ人たちはPLOという形でアラブ世界に市民権を得ることになったのである。 いわば、PLOは領土を持たないパレスチナ人たちの“国家”のような存在となったのである。
PLOの設立と同時に、PLOの議会にあたる「パレスチナ民族評議会(PNC)」が開催され、パレスチナ人の憲法ともいうべき「パレスチナ民族憲章」が採択された。 この憲章は、パレスチナ全土を対象として、パレスチナ民主国家を創設することを記載していた。 パレスチナ民主国家が創設された暁には、アラブ人もユダヤ人も同等の権利をもってパレスチナに住むことが許されるはずだった。 しかし、住むことを許されるユダヤ人は、1917年のバルフォア宣言以前からパレスチナに住んでいた人達に限られていた。 更に、PLOは、そのパレスチナ民族憲章でイスラエル共和国の存在そのものを完全に否定していた。 その後、イスラエル政府が1990年代初頭に至るまで、執拗なまでにPLOを交渉相手と認めなかったことの原点はここにある。
PLOの軍事組織はエジプト、シリアおよびイラクの指揮下に入ることになっていたため、パレスチナ人による“自主的な武力闘争”の実行を目標にしていたファタハはPLOに敵意を抱いていた。 PLOが自分たちの活動資金源を脅かし始めたことも気に食わなかった。 このまま妥協していると、自分たちの活動が質・量ともに骨抜きにされる恐れがあった。 そこで、アラファトは自分たちの存在をアピールするために、1964年12月31日から対イスラエル武力闘争に乗り出した。 最初は輝かしい戦果を挙げたとは言い難かったが、政治的には大きな宣伝効果があった。 ファタハは武力闘争を行なうことによって、組織としての基礎を固め、他の競争相手に決定的な差を付けたのである。 1965年を通じて、ファタハのゲリラ活動は成功したものだけでも39回に及んだ。 パレスチナ解放のための具体的な行動を起こしたファタハの人気はパレスチナ人の間で急速に高まっていった。
1967年の第3次中東戦争(6日間戦争)でアラブ諸国は手ひどい打撃を受けたが、この戦争の惨めな敗北は「アラブの大義」を掲げるナセル大統領の権威を決定的に傷つけ、同時にその傀儡だった初代PLO議長シュケイリの立場を著しく悪化させた。 結局、シュケイリはPLO内部からの突き上げのために退陣を迫られ、議長を辞任した。 第2代PLO議長にヤヒア・ハマウダが選任された。 パレスチナ解放を目指す各組織は、アラブ諸国軍を介しての郷土解放という計画に失望し、独自の武力闘争を進めることを決意した。 彼らはヨルダンとレバノンのパレスチナ人難民キャンプに根を張って多くの支持者を集め、ソ連やアラブ急進派諸国から援助を受けて組織力と戦闘力をつけていった。 例えば、「サイカ」はシリアと、「ALF(アラブ解放戦線)」はイラクと結び付いた。 この他、「PFLP(パレスチナ解放人民戦線)」、「DFLP(パレスチナ解放民主戦線)」などが共産圏諸国と結び付いた。「ファタハ」はアラブ民族主義を強調し社会主義を唱えなかったので、サウジアラビアや湾岸諸国などのアラブ保守派の陣営からも援助を受けることができた。 こうして、第3次中東戦争での大敗北を境にして、パレスチナ・ゲリラの対イスラエル軍事作戦は、むしろ急増し、過激化し、活動舞台が国際的なものになっていった。 パレスチナ・ゲリラのテロ事件は1967年には145件にすぎなかったのに、1968年には789件、1969年には2390件に増加した。 特にこの頃、過激なゲリラ活動を最も盛んに行なっていたのは、マルクス・レーニン主義者のジョージ・ハバシュ議長が率いるPFLPであった。 しかし、PFLPの無差別テロは激しい内部抗争を呼び起こし、分裂していった。 アラファト率いるファタハはPLO内部での発言力を次第に高め、1969年2月のカイロにおける第5回パレスチナ民族評議会では、「ファタハ」と「サイカ」が連立を組み、代議員の過半数を占めた。 この結果、アラファトが第3代PLO議長に就任した。 1973年の第4次中東戦争後、PLOは国連を中心とした外交分野での著しい成功によって世界各国から政治的承認を引き出したため、ゲリラ活動は減少する傾向を示した。 日本を含めた欧米先進諸国がPLOを承認した理由は、パレスチナ人武闘組織のテロ活動を封じようとしたからであったが、同時に第4次中東戦争の際にPLOの呼びかけでアラブ産油国がとった石油禁輸策による「オイルショック」の再発を防ごうとしたからでもあった。
1974年10月にモロッコのラバトで開かれたアラブ首脳会議で、アラブ諸国の指導者はPLOを「パレスチナ人の唯一の正統なる代表」として認めた。 更に同年、国連はパレスチナ人の自決とPLOとを承認した。 また、石油危機によって途方もないオイルマネーを手にして国際的発言力を高めたサウジアラビアはPLOを強力に支持した。 こうして、PLOは、その後も外交活動を強化し、国連へのオブザーバー派遣、国連総会でのアラファト演説、「シオニズムは人種差別主義である」とする決議などの成果を挙げ、その主張に支持を得るとともに、世界各地に100ヶ所を超すPLO代表部や事務所を開設するに至った。 しかし、PLOは1982年に起こったレバノン戦争でイスラエルに大敗北し、弱体化した。 アラファトはPLOの立て直しを求められ、ヨルダンなどの保守派勢力の意向にも耳を傾けざるを得なくなり、徐々に穏健路線に舵を切るようになった。 そして、PLOは1988年11月にアルジェで開催された「第19回パレスチナ民族評議会」で「シオニスト国家打倒によるパレスチナ解放」から「イスラエルと共存する、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区でのパレスチナ国家建設」への方向転換を決議した。 1988年12月の国連総会で、アラファトはアメリカ政府が提示していた「キッシンジャーの3条件」を受け入れさせられ、イスラエルの承認とテロの放棄を宣言させられた。 そして、この後に起きた湾岸戦争(1991年1月〜2月)で、PLOはイラクのフセイン大統領を支持したため、更に苦しい立場に追いやられた。 湾岸諸国で働いていたパレスチナ人は追放され、彼らの財産もPLOへの税金も没収され、サウジアラビアやクウェートからのPLOへの資金援助も打ち切られた。 この時からPLOは深刻な財政危機に陥った。
PLOは1991年頃からノルウェー政府の仲立ちでオスロにおいてイスラエル政府と秘密交渉を行ない、1993年にイスラエル政府とPLOとの相互承認およびガザ地区・ヨルダン川西岸地区におけるパレスチナ人の暫定自治を定めた「オスロ合意」にこぎつけた。 そして、1993年9月、PLOとイスラエル政府とはワシントン D.C.のホワイトハウスにおいて「パレスチナ暫定自治協定」を締結した。 PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相は共にノーベル平和賞を受賞した。 しかし、イスラエルとアラブ諸国との関係正常化は未だ実現していない。 ラビン首相は1995年に暗殺された。 アラファト議長は2004年に病死した。