PFLPの特別暗殺チーム「黒い九月」が実行した「ミュンヘンオリンピック襲撃事件」

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1972年5月30日、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と連携していた「日本赤軍」による「ロッド空港乱射事件」が発生し、それから5週間後〜7週間後、イスラエルの対外諜報機関「モサド」がベイルートのPFLP幹部2人へ郵便爆弾を送り付けて報復した。 これに激怒したPFLPのジョルジュ・ハバシュ議長は特別暗殺チーム「黒い九月」をドイツのミュンヘンに派遣した。 ロッド空港乱射事件から約3ヶ月後の1972年9月5日、「黒い九月」のメンバー8人がミュンヘンオリンピック選手村のイスラエル選手団宿舎へ侵入し、イスラエルのコーチ1人と選手1人とを射殺し、イスラエルのコーチ・選手・審判員の計9人を人質にし、イスラエル国で投獄されている岡本公三ら234人の仲間を釈放するよう要求した。 世界中のテレビ局がこの事件を本国に生中継し、ゲリラ側の要求を報道した。 世界の人々はドイツで受難したユダヤ人のイメージをダブらせて、イスラエル側に同情した。

断固たる態度で妥協を拒んだイスラエルのゴルダ・メイア首相は、この事件に関する全権限をモサドのツヴィ・ザミル長官に委ねた。 彼は直ちにミュンヘンに飛び、西ドイツ側の治安当局と緊急討議を行なった。 メイア首相からの全権委任と「サベナ・ベルギー航空572便ハイジャック事件」で人質を救った経験に支えられて、ツヴィ・ザミル長官は事件への対応をイスラエル特殊部隊「サエレト」に任せて欲しいと西ドイツ側に申し入れた。 しかし、ミュンヘン州当局はツヴィ・ザミル長官の要求を退け、ミュンヘン警察が事態の解決を担当し、経験不足で装備も不十分なドイツ人警察官が犯行メンバーの狙撃を担当することになった。 犯行メンバーとミュンヘン警察との交渉の結果、犯行メンバー8人と人質9人は選手団宿舎近くの草地からミュンヘン警察の用意した2機のヘリコプターに乗って空港まで行き、そこから用意された飛行機に乗って国外に脱出することになった。 犯行メンバーと人質が2機のヘリコプターに乗って空港に着き、犯行メンバーのリーダーが用意されたルフトハンザ航空ボーイング727型機を点検し、ヘリコプターに戻る途中で、狙撃目的で配置されたドイツ人警察官が狙撃を開始し、銃撃戦が始まった。 この銃撃戦により犯行メンバー8人のうち5人は射殺され、残り3人は生き残って逃走を図ったが、その後、逮捕された。 また、この銃撃戦により、ヘリコプター内に座らされていた人質9人は全員死亡した。 最悪の結果である。

この事件の直後、イスラエル政府は、オリンピック選手団の安全確保に責任のある国内治安局「シンベト」の予防諜報部門のチーフを解任し、「対テロリズムの首相顧問」という新たなポストを作った。 そして、ミュンヘンオリンピック襲撃事件から5日後、まだ事件調査が続いていた折り、ブリュッセル駐在イスラエル大使館員ザドグ・オフィルが「黒い九月」のメンバーに至近距離で狙撃された。 彼は一命をとりとめた。 後に、彼は「シンベト」の諜報員だったことが公表された。 更に、ミュンヘンオリンピック襲撃事件から7週間後の1972年10月29日、ダマスカスとフランクフルトとの間を飛ぶ「ルフトハンザ615便」が「黒い九月」のメンバー2人にハイジャックされ、人質となった乗客と引き替えに、ミュンヘンオリンピック襲撃事件で逮捕された犯行メンバー3人が釈放された。 西ドイツ政府は、イスラエル政府には一言の断わりもなく、ハイジャック犯の要求に即座に応じ、西ドイツの刑務所に収監されていた犯行メンバー3人を釈放したのである。 釈放された3人はエジプトへ空輸され、快挙を成し遂げた英雄として、堂々とリビア入りを果たした。 これら一連の動きは、イスラエル政府にとって屈辱以外の何物でもなかった。 イスラエル政府はこのまま黙って引き下がるはずはなく、イスラエル政府は直ちに報復に出た。