レバノン戦争とサブラ・シャティーラ大量虐殺事件
第一次中東戦争後、ヨルダンはPLO(パレスチナ解放機構)本部と多くのパレスチナ難民を抱えていた。 ヨルダン政府は第三次中東戦争(1967年6月)までは、PLOとパレスチナ難民を支援していたが、第三次中東戦争でイスラエルの圧倒的な軍事力を見せつけられてからは、イスラエルに対して強硬手段を取ることを諦め、PLOとパレスチナ難民にそっけなくなった。 これに対し、PLOは反感を強め、ヨルダン各地でヨルダンの政府軍や警察と闘い始めた。 1970年9月6日から9日にかけて、PLO内の一組織であるPFLP(パレスチナ解放人民戦線)は西側諸国の航空会社の旅客機5機(イスラエルのエルアル航空ボーイング707型機、アメリカのトランスワールド航空ボーイング707型機、スイス航空ダグラスDC8型機、パンアメリカン航空ボーイング747型機、英国航空ヴィッカースVC型機)をハイジャックした。 これら5機に乗っていた人質は全員無事に解放されたが、エルアル航空ボーイング707型機を除く4機は爆破された。 この事件により、PLO本部を国内に置いていたヨルダン政府は世界的な非難を浴び、ヨルダンのフセイン国王は激怒してPLOの排除を決意し、9月14日、PLOへの攻撃を開始した。 こうして、ヨルダン内戦(1970年〜1971年)が始まった。 この内戦でPLOはヨルダンから追放され、PLOと多数のパレスチナ難民がレバノンに流入した。 PLOは本部をレバノンのベイルートに設置し、イスラエルに対するゲリラ攻撃を続けた。
一方、レバノンでは、キリスト教徒が国民の5割強を占め、1920年代からキリスト教徒とイスラム教徒との間で軋轢が生じており、不安定な状態が続いてきた。 レバノンのキリスト教右派勢力は、ヨルダンから流れ込んできたパレスチナ難民を快く思わず追放しようとした為、レバノンの国内情勢は一段と不安定になった。 流血の事態を恐れたレバノン政府はPLOに自治政府並みの特権を与え、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域の形成を容認した。 これに対しイスラエルは空軍や特殊部隊を用いて南レバノンやベイルートを攻撃した。 これに対し、レバノン軍は報復する事ができなかった。 こうした状況の中で、キリスト教勢力とイスラム教勢力・PLOとの間で対立が激化し、1975年、レバノンは内戦状態になった。 その結果、ベイルートはキリスト教徒の居住する東ベイルートとイスラム教徒・パレスチナ難民の居住する西ベイルートとに分裂するまでになった。 レバノン政府はシリア政府に対し、レバノンの内戦を終結させてほしいと要請した。 シリア政府はこの要請を受け入れ、1976年5月、レバノンに軍事介入した。 しかし、レバノンの内戦は収まらなかった。 シリア政府にとってPLOは邪魔な存在であった。 というのは、イスラエルに対するPLOの攻撃はイスラエルのシリア攻撃を誘発すると考えていたからである。 こうした状況の中で、レバノンのキリスト教右派勢力はイスラエルの支援と介入が必要だと考え、レバノン内戦へのイスラエルの介入の機会を探った。
イスラエルのレバノン内戦への最初の大規模介入は1978年3月の「リタニ作戦」実行である。 この作戦実行の切っ掛けは、この作戦実行の3日前に起きたパレスチナゲリラによる観光バス乗っ取り事件であった。 パレスチナゲリラ11人が地中海よりテルアビブ北方に上陸し、ハイウェイで観光バスを乗っ取り、そのままテルアビブ市街地に向かい、これを阻止しようとしたイスラエル軍と銃撃戦になり、イスラエル人41人が死亡し、イスラエル人82人が負傷した。 この事件への報復措置として、イスラエル軍は「リタニ作戦」を立て、レバノン南部への侵攻を開始した。 この作戦の目的は、レバノン南部にあるパレスチナゲリラ拠点を一掃し、PLOに打撃を与えるとともに、レバノン南部の国境地域に安全地帯を設け、イスラエル北部の安全を確保するというものであった。 この作戦の実行により、イスラエル政府はレバノン南部の国境地域を奪い取り、この地域をイスラエル政府が積極的に支援するキリスト教右派勢力の支配に委ねた。 イスラエル軍の代理となったキリスト教右派勢力はレバノン南部の国境地域を「ハダト・ランド」と名付けて、レバノン政府からの分離・独立を宣言した。「リタニ作戦」実行の結果、レバノンは事実上5つの地域に分割された。 それはキリスト教地区、イスラム教地区、シリア軍占領地区、国連軍管理地区、ハダト・ランドである。
1982年6月3日、ロンドンで駐英イスラエル大使がパレスチナ・ゲリラに狙撃され重傷を負う事件が発生した。 イスラエル政府はこの事件を口実に、1982年6月6日、イスラエル軍をレバノン南部に大規模に侵攻させた。「レバノン戦争」の幕開けである。 イスラエル政府はこの作戦を「ガリラヤ平和作戦」と名付け、その目的はイスラエル北部(ガリラヤ地方)の住民の安全保障の為に、レバノン南部にいるPLO勢力を一掃し、レバノン政府と平和条約を結ぶことであるとした。 イスラエル軍は圧倒的な強さを示し続けた。 イスラエル軍は6月8日までにレバノン南部をほぼ制圧し、目的を達成した。 しかし、シャロン国防相は同日、作戦を変更して制圧目標をベイルートにまで拡大し、ダマスカス街道沿いに空挺部隊を投入し、地上部隊を北上させた。 こうして、イスラエル軍はシリア軍とも戦闘状態に入り、ベッカー高原で地上戦と空中戦を展開した。 6月11日、イスラエル軍とシリア軍は停戦したが、イスラエル軍は孤立無援となったPLO部隊をどこまでも追いかけた。
1982年8月9日、国連安全保障理事会はイスラエル非難を決議したが、ソ連が提出した対イスラエル制裁決議案はアメリカの反対によって否決された。 イスラエル政府の要求に基づいてPLOとレバノン政府との政治交渉が続けられ、8月18日、レバノン政府とイスラエル政府はハビブ・アメリカ特使の「PLO勢力のベイルート退去問題に関する最終調停案」を承認し、PLOはチュニジアへ追放され、レバノン戦争は一応の終結に至った。
1982年9月9日、アラブ首脳会議はイスラエル寄りのアメリカの和平案に対抗して「フェズ憲章」を採択した。 その憲章にはパレスチナ国家の樹立が謳われていた。 これに対し、イスラエル政府は不快感をあらわにし、ベイルートに陸軍を侵攻させた。 この時に、悪名高い「サブラ・シャティーラ大量虐殺事件」(サブラ・シャティーラ難民キャンプでのパレスチナ難民大量虐殺事件)が発生した。 イスラエル政府はかねてから、レバノン政府軍がベイルートのサブラ・シャティーラ難民キャンプに潜伏しているPLOゲリラを追い出し、サブラ・シャティーラ難民キャンプに貯蔵された武器を回収することを望んでいた。 レバノン政府軍はこの作業に着手したが、次期首相と目されていた親イスラエルのバシール・ジェマイエル氏が暗殺されたため、この作業は中止された。 そこで、イスラエル政府はこの作業をキリスト教右派勢力に任せた。 その結果、1982年9月16日から18日にかけて、犠牲者千名とも三千名ともいわれるパレスチナ難民の大量虐殺事件「サブラ・シャティーラ大量虐殺事件」が発生した。 この虐殺事件によって、イスラエル国内の厭戦気分は決定的なものとなった。 9月25日にはテルアビブで大規模な反政府デモが行なわれた。
レバノン戦争で敗退したPLOは本部をベイルートからチュニジアの首都チュニスに移動したが、それでもイスラエル国内におけるパレスチナ人のゲリラ活動は無くならなかった。 更に、レバノンでは反イスラエル感情が高まり、追い出したはずのPLOゲリラが徐々に戻ってきて、レバノンに駐留しているイスラエル軍に対する抵抗活動が活発になっていった。 レバノン駐留イスラエル軍に対する攻撃は800回近く行なわれ、それによる死者は400人を超えた。 イスラエル軍のレバノン侵攻は泥沼化していき、イスラエル国内ではアメリカのベトナム戦争との対比で語られるようになった。 イスラエル国民の10分の1が反戦デモに参加した。
イスラエル政府は1985年1月に一方的撤退を決定し、イスラエル北部へのゲリラ攻撃に対しては随時報復するという、レバノン戦争以前の政策に復帰した。 レバノン南部では現在も、イスラエル軍と、シリアの庇護を受けたイスラム教シーア派民兵組織「ヒズボラ」とが武力衝突を繰り返しており、民間人の犠牲者が出続けている。 最近もイスラエルの「怒りの葡萄作戦」(1996年4月)によって、レバノン民間人が150人近く殺害され、350人近くが負傷し、ヒズボラの「カチューシャ・ロケット」攻撃によってイスラエル民間人60人前後が負傷した。 レバノン南部の安全保障問題が解決される日はまだまだ遠いようである。