ヒトラーにより逮捕されたウィーン・ロスチャイルド

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1938年3月、ナチス・ドイツはオーストリアを併合した。 オーストリア国民は必ずしもナチスを支持していたのではなかったが、第一次世界大戦の戦勝国によって阻まれた「独墺合併」の悲願を実現してくれるものとして、ドイツ軍を歓呼の声をもって迎えた。 そして、国民投票が行なわれ、99.7%のオーストリア国民がドイツとオーストリアとの合併に賛成した。 ウィーンのユダヤ人大富豪ロスチャイルド家の当主ルイス・ロスチャイルドはゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密警察)から逃れるため、イタリアへ向かう飛行機に乗ろうとしたが、飛行場を固めていたナチス親衛隊の将校に発見され、自宅へ帰るように命じられた。 彼が自宅に戻ると、ゲシュタポがやってきた。 執事が「ご主人様は不在です」と告げると、ゲシュタポは帰って行った。 翌日ゲシュタポはものものしい集団で改めてロスチャイルド邸を訪れた。 ルイス・ロスチャイルドが「昼食の間、待ってくれ」と言うと、ゲシュタポは何やら相談したあと、「よし、食事をとれ」と言った。 それからルイス・ロスチャイルドは豪勢な食事をゆっくりと味わい、食後のタバコも欠かさず、心臓病の薬を飲んでから、警察へ連行されていった。 ルイス・ロスチャイルドが警察に連行され、地下の留置場に入れられると、ゲシュタポの幹部は「やってみれば、出来ないことはない」と思って、多少の自信を持ち始めた。 あのロスチャイルドの当主を遂にゲシュタポが牢にぶちこんだのだ。 ベルリンの総統室は勝利の声にあふれ、予想以上の成果を得たことを大いに宣伝することになった。 ナチス・ドイツはルイス・ロスチャイルドの屋敷に「ユダヤ人移送本部」という看板を掲げた。 それから1ヶ月が過ぎて、ルイス・ロスチャイルドの身柄はウィーンのメトロポール・ホテルに移され、ナチス・ドイツのナンバー2実力者ヘルマン・ゲーリングの使いから丁重な申し入れがあった。 それは、ロスチャイルド家の所有物でチェコにあるヴィトコヴィッツ製鉄所を提供すれば、身柄を直ちに釈放してあげようという取り引きであった。 しかし、ルイス・ロスチャイルドは捕われの身でありながら、ヘルマン・ゲーリングの申し入れを受け入れなかった。 老獪なロスチャイルド一族は前年にこの危険を予知して、ヴィトコヴィッツ製鉄所の株を中立国スイスなどの名義に変え、更にそれをイギリスの保険会社に買い取らせておいた。 そして、ヴィトコヴィッツ製鉄所の株は最終的には、イギリスのネイサン・マイアー・ロスチャイルドが設立した「アライアンス保険」の所有物になっていた。 こうして、ヴィトコヴィッツ製鉄所が名義上はイギリス企業の所有物になっていた為、ヒトラー政権がこれを接収することは国際法上、不可能だった。 1939年3月15日の早朝、ナチス・ドイツ軍はチェコに侵攻し、同日の夕刻には首都プラハに入城し、チェコ全域を占領した。 同日、ナチス・ドイツはチェコを併合し、スロバキアを保護国にした。 こうして、ヒトラー政権はヴィトコヴィッツ製鉄所を強引に手に入れたが、ロスチャイルド一族の巧みな予防策が効いて、国際法の前には手を出すことが出来なかった。 ルイス・ロスチャイルドは「ルイス・ロスチャイルドの釈放」という条件付きで、300万ドルという売り値をヒトラー政権に提示した。 2ヶ月の交渉の末、遂にヒトラー政権はルイス・ロスチャイルドの提案を呑んだ。 ゲシュタポに捕えられながら、身代金の支払いを平然と拒否し、1年間もメトロポール・ホテルで起居を続け、最後にはヒトラー政権から300万ドル受け取る契約を結んで釈放されたというユダヤ人は他にいない。 その後の大戦の勃発によって、実際にはルイス・ロスチャイルドはこの大金を受け取ることはなかったが、最終的には、ヴィトコヴィッツ製鉄所はドイツの敗戦でルイス・ロスチャイルドに戻った。

【補足説明】
「上の文章に登場しているフランクフルト・ロスチャイルド家は20世紀初頭に消滅したはずでは?」と疑問に思う人がいると思うが、消滅したように見えて、実は消滅していなかったのである。 これについて簡単に説明しておきたい。 16世紀、フランクフルトに両替・金貸しをするユダヤ人が集結した。 そのひとりがモーゼス・ゴールドスミス(ゴールドシュミット)である。 ロスチャイルド家はゴールドスミス家から派生した一族である。 よって、ロスチャイルド家とゴールドスミス家は同族である。 (ロスチャイルド家は18世紀に「赤い楯」を家の入り口に掲げた)。 ロスチャイルド1世(マイアー・アムシェル・ロスチャイルド、1744年〜1812年)には5人の息子がいた。 ロスチャイルド1世は5人の息子それぞれをヨーロッパ列強の首都に派遣して次々と支店を開業させ、5人の息子それぞれがロスチャイルドの支家となった。 1901年、フランクフルトのロスチャイルド家は娘ばかりで消滅したが、ゴールドスミス家がフランクフルト・ロスチャイルド家の利権を相続した。 ロスチャイルド家とゴールドスミス家は何代も前から複雑に結婚し合ってきた間柄である。