日本の某ジャーナリストは、このドイツ人集落の内部を取材したことがあるというチリ人(元記者)に会ったという。 このチリ人によれば、「彼ら(集落の住人)は普通の人間ではない。 人を人とも思わないバイオレントな連中」だという。 このチリ人(元記者)の体験談は驚くべき内容を含んでいるので、どこまで真実なのか分からないが、ポイントを絞って簡単にまとめておく。 あくまでも参考程度に読んで頂きたい。
チリで最大の部数を誇る日刊紙『エル・メルキュリオ』の記者だった私がこのドイツ人集落の存在を初めて知ったのは1966年のことだった。 そこにユダヤ人少年たちが収容され、虐待されているという噂が立ったのである。 私は即座にこのドイツ人集落に取材を申し込んだが、相手は拒否した。 そこで私はパラルの市長に取材同行を頼み込んだ。 市長がドイツ人側と交渉してくれたお陰で、3ヶ月後、ようやく取材許可が下りた。 相手の条件はカメラやテープレコーダーは絶対に持ち込まないことだった。 定められた日、私は市長と共にドイツ人集落を訪れた。 門を入ってしばらく行くと、ガードハウスがあった。 そこで厳重なボディチェックを受け、車や持ち物を徹底的に調べられた。 それが終わると病院への門が開けられ、先導車に従って並木道を真っ直ぐに進んだ。 200mくらい行くと巨大な白い病院に着いた。 この病院はサンチアゴ(チリの首都)の総合病院よりも大きかった。 救急車の数も非常に多く、全てベンツだった。 20台以上はあった。 そんなに多くの病人が一度に出るとは思えず、また、警備が非常に厳重だったのが不自然に感じられた。 正面から見ただけでも5人以上のガードマンがいた。 この巨大な病院の前を左に曲がって少し行くと、町に入ったが、全てが整然としていた。 ヨーロッパの町をそのままスッポリと持ってきたような感じだった。 碁盤の目のように整頓された道路は広く、きれいに舗装されていた。 走っている車は全てドイツ製だった。 メインストリートらしき道路には、製パン所・映画館・車の整備工場などがあり、街角の至る所にスピーカーが備え付けられていた。 私と市長は赤いレンガ造りの建物に案内され、そこでヘルマン・シュミットという男に迎えられた。 彼はこの集落のリーダーの1人だった。 建物の中には20人くらいの男女がいた。 皆集落の運営に携わっている者たちだと、ヘルマン・シュミットが説明した。 その後、このシュミットに町の中を案内された。 といっても、見ることを許されたのはごく限られた一部だった。 シュミットの説明によると、このドイツ人集落の広さは約50平方km(東京の山手線の内側の面積63平方kmの8割)もあり、そのほんの一部が町であり、他はプランテーションや牧場として使われているという。 我々が歩いていると、あちこちに付けられたスピーカーが何やらドイツ語でアナウンスしていた。 外部からのお客さんが来ていることを町の人々に知らせているのだとシュミットが言った。 1つだけ不思議だったのは、子供の姿がどこにも見えないことだった。 これについてシュミットに聞くと、子供は一ヶ所に集められ、そこで育てられるという。 このドイツ人集落の内部は全てが珍しかったが、特に印象に残った事柄を挙げるとすれば、2つある。 1つ目はあそこの住人たちの規律正しさというか、リーダーに対する絶対服従の姿勢だ。 まるで昔のプロシアの軍隊並みだった。 リーダーのひと声で全員が一体となって動いているようだった。 我々チリ人から見ればすごいというか恐ろしいというか。 2つ目は何といってもあの経済力だろう。 あれだけの道路設備やビルを作り上げるセメントの量だけでも大変なものだ。 もちろんセメントは全て自家製だった。 セメント工場を見たが、規模も大きく、あれなら十分な量が生産できると思った。
このチリ人記者はセメント工場の他にトラクター工場を見ることが許されたが、セメント工場同様の大きな規模であったという。 彼と市長は5時間ほどこのドイツ人集落にいて、一緒に帰ったという。 3日後、このチリ人記者は再びこのドイツ人集落を訪れたという。 今度は前もって連絡せずに文字通りの「抜き打ち訪問」で、市長も同行しなかったという。 期待と不安で胸一杯になりながら、彼が集落のガードハウスに近づくと、案の定、ドイツ人側は取材拒否の構えを見せ、一刻も早く立ち去るよう威圧的に警告したという。 この時、記者に同行したカメラマンがこのドイツ人集落の周辺を撮影し始めると、ドイツ人警備員2人が血相を変えてカメラマンに飛び掛かり、カメラを叩き落としたという。 びっくりしたカメラマンと記者は車に飛び乗り、ほうほうの体で逃げ出したが、その後、彼らはパラルの町でドイツ人たちに尾行されていることに気づき、言いようのない恐怖を感じたという。 以来、この記者は二度とこのドイツ人集落に近づこうとはせず、しばらくしてから新聞社を辞めたという。