チリ共和国にあったドイツ人居留地「尊厳の集落」

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『週刊新潮』(2006年6月15日号)に南米の「ナチ残党」についての記事が載った。 その記事の内容は次の通り。
南米はナチの「揺りかご」!? 暴かれたアンデスのドイツ人帝国
ユダヤ人大量虐殺の責任者、元ナチ幹部アイヒマンが逃亡先の南米でイスラエル政府の情報機関モサドに捉えられ、絞首刑に処せられたのは1962年のことだ。 が、驚くべきことに今も、ナチ残党は南米に根を張っている。 チリの“国家の中の国家”と囁(ささや)かれていたドイツ人居留地『尊厳の集落』の幹部たちに、この5月、法の裁きが下った。 同コロニーの独裁者だったパウル・シェーファー(84)はナチの衛生兵(医師)だったが、戦後いち早く、国内で牧師を隠れ蓑に戦争孤児院を設立するが、男児に性的暴行を加えたことが発覚し、信者を引き連れ、チリへ逃亡していた人物だ。  〈中略〉  フォーサイスの小説『オデッサ・ファイル』のオデッサとは、ナチス親衛隊幹部の逃亡支援組織の名称だ。 ナチスの亡霊は世紀をまたぎ、南米の地で生きている。

パウル・シェーファーを初めとする18人の集落幹部の罪状は25人の子供に対するレイプとユダヤ人数学者殺しなどで、2006年5月、パウル・シェーファーには懲役20年の刑が言い渡された。 パウル・シェーファーはチリ共和国のみならず生まれ故郷のドイツからも人権に関する罪状で国際指名手配されていたという。 この裁判は海外のニュースサイトでも詳しく報じられた。 この裁判の背景を簡単にまとめておく。

元ナチスの医師パウル・シェーファーはドイツでの児童虐待の罪を問われ、逃亡し、1961年にチリ共和国の首都サンチアゴから南350km、アンデス山脈の麓に「尊厳の集落(スペイン語で Colonia Dignidad)」を作った。 この集落は鉄条網で囲われ、センサー、監視カメラ、サーチライト、見張り塔、などで厳重に守られていた。 初期のメンバーは約300人で、大多数はドイツからの移住者とその子孫で、一部にチリ人もいた。 このドイツ人集落では、成人の男女は別々の寮生活を強いられ、結婚の相手や時期、“生殖期間”さえもパウル・シェーファーの一存で決められた。 彼らは日に16時間もの労働に従事し、赤ん坊は2歳になると両親から引き離され、8歳から12歳の男児は、ほとんど連日、パウル・シェーファーの慰みものにされたと言われている。 このドイツ人集落は、ピノチェト軍事政権(1974年〜1989年)下で、秘密警察の拷問センター、秘密の武器庫、武器の国際密輸中継基地の機能をも果たしていた。 2005年6月、チリ政府はこのドイツ人集落で同国史上最大規模の数の機関銃とロケットランチャーが隠匿されているのを発見した。 チリのホルヘ・ゼペダ裁判長は、このドイツ人集落がピノチェト軍事政権の拷問施設として利用されていたと語っている。

チリのアウグスト・ピノチェト将軍は1973年9月にアメリカ政府の後ろ盾によりクーデターを敢行し、1974年6月に大統領に就任し、その後16年間にわたって軍事政権を維持し、独裁者と呼ばれた。 ピノチェト軍事政権下で数十万人が各地の強制収容所に送られ、国民の10分の1に当たる100万人が国外亡命した。 チリ政府の公式発表によると、ピノチェト軍事政権下で3千人余りが(人権団体の調査によれば約3万人が)殺害され、2万8000人が拷問を受けたと推定されている。 ピノチェト軍事政権による独裁政治が行なわれている間、後見人のアメリカ政府は、冷戦が終わる直前まで見て見ぬ振りを続けた。

チリの日刊紙記者は次のように語っている。「ピノチェトの独裁は1974年から1989年まで続きました。 この間、秘密警察による反体制運動家などの拷問・虐殺が横行し、いまだに2000人強が行方不明のままです。 ドイツ人集落の地下牢ではワグナーやモーツァルトのBGMのなか、拷問が行なわれたそうです。 無料の病院もあり、現地人にも定期的に開放されていました。 ところが1996年、病院に預けていたはずの少年が行方不明になり、大騒ぎになった。 その時、政権はすでに中道左派の大統領に移っていたのですが、その後も秘密警察を後ろ盾にドイツ人集落は治外法権を享受していたのです。 少年は何とか脱出に成功し、両親が告訴しました。 翌1997年に警察隊がレイプ容疑でドイツ人集落に雪崩れ込んだ時には、すでにパウル・シェーファーは70人の仲間と共に行方をくらましていました。 そして、潜伏8年の後、2005年に仲間と共にアルゼンチン(ブエノスアイレス)でやっと逮捕されたのです」。

1998年の報道によると、「尊厳の集落」の総資産は約50億ドル(約5500億円)で、広さは137平方km(東京の山手線の内側の面積63平方kmの2.2倍)もあり、学校・病院・滑走路・レストラン・ガソリンスタンドなどを備えていた。 また、「尊厳の集落」はトウモロコシなどの作物栽培や酪農事業・林業事業を行ない、2本の滑走路を備えた空港やサンチアゴの国際会議センターやカジノをも経営し、年間に数百万ドルを稼いでいた。 また、「尊厳の集落」は、仕事の提供や医療の無料サービスにより、この地方の信頼を得ていた。「尊厳の集落」は欧米のメディアで「世界有数の金持ち集落」と報道された。 この集落を訪問した者によれば、そこは1930年代のドイツのような光景で、女性はエプロンをし、髪は三つ編みで、男性はドイツ固有の服を着ていたという。 集落の弁護士は「ここのメンバーはエキセントリックな印象を免れないが、人と争ったりせず、良好な生活をしてきた」と述べている。 チリの著名な精神科医で、この集落で働いていたオットー・ドル・セーヘルはニューヨークタイムズに対して次のように語った。 「私はこの集落をよく知っており、非常に気に入っていました。 ここの住人の考え方は時代錯誤的なところがありますが、嘘をつくことを正当化しません」。

なぜ、パウル・シェーファーは長期の逃亡が可能だったのか。 チリの人権活動家は次のように語った。「大規模な捜索をかいくぐったのは、親ナチスの地下組織の支援があったからだろう。 アルゼンチンにも強力なドイツ移民社会があり、親ナチスの勢力が根強く残っている」。 この問題に詳しいイギリス人ジャーナリストは次のように語っている。「当時のパウル・シェーファーとピノチェト軍事政権との密接な関係から、ドイツ人集落は『国家内国家』として侵すことの出来ないものだった。 ピノチェトとドイツ人集落の関係を隠しておきたい秘密の党派がまだチリには存在する。 しかし、チリが過去との和解を完成したいなら、この告発に立ち向かうべきである」。

おまけ情報
日本の某ジャーナリストは、このドイツ人集落の内部を取材したことがあるというチリ人(元記者)に会ったという。 このチリ人によれば、「彼ら(集落の住人)は普通の人間ではない。 人を人とも思わないバイオレントな連中」だという。 このチリ人(元記者)の体験談は驚くべき内容を含んでいるので、どこまで真実なのか分からないが、ポイントを絞って簡単にまとめておく。 あくまでも参考程度に読んで頂きたい。
チリで最大の部数を誇る日刊紙『エル・メルキュリオ』の記者だった私がこのドイツ人集落の存在を初めて知ったのは1966年のことだった。 そこにユダヤ人少年たちが収容され、虐待されているという噂が立ったのである。 私は即座にこのドイツ人集落に取材を申し込んだが、相手は拒否した。 そこで私はパラルの市長に取材同行を頼み込んだ。 市長がドイツ人側と交渉してくれたお陰で、3ヶ月後、ようやく取材許可が下りた。 相手の条件はカメラやテープレコーダーは絶対に持ち込まないことだった。 定められた日、私は市長と共にドイツ人集落を訪れた。 門を入ってしばらく行くと、ガードハウスがあった。 そこで厳重なボディチェックを受け、車や持ち物を徹底的に調べられた。 それが終わると病院への門が開けられ、先導車に従って並木道を真っ直ぐに進んだ。 200mくらい行くと巨大な白い病院に着いた。 この病院はサンチアゴ(チリの首都)の総合病院よりも大きかった。 救急車の数も非常に多く、全てベンツだった。 20台以上はあった。 そんなに多くの病人が一度に出るとは思えず、また、警備が非常に厳重だったのが不自然に感じられた。 正面から見ただけでも5人以上のガードマンがいた。 この巨大な病院の前を左に曲がって少し行くと、町に入ったが、全てが整然としていた。 ヨーロッパの町をそのままスッポリと持ってきたような感じだった。 碁盤の目のように整頓された道路は広く、きれいに舗装されていた。 走っている車は全てドイツ製だった。 メインストリートらしき道路には、製パン所・映画館・車の整備工場などがあり、街角の至る所にスピーカーが備え付けられていた。 私と市長は赤いレンガ造りの建物に案内され、そこでヘルマン・シュミットという男に迎えられた。 彼はこの集落のリーダーの1人だった。 建物の中には20人くらいの男女がいた。 皆集落の運営に携わっている者たちだと、ヘルマン・シュミットが説明した。 その後、このシュミットに町の中を案内された。 といっても、見ることを許されたのはごく限られた一部だった。 シュミットの説明によると、このドイツ人集落の広さは約50平方km(東京の山手線の内側の面積63平方kmの8割)もあり、そのほんの一部が町であり、他はプランテーションや牧場として使われているという。 我々が歩いていると、あちこちに付けられたスピーカーが何やらドイツ語でアナウンスしていた。 外部からのお客さんが来ていることを町の人々に知らせているのだとシュミットが言った。 1つだけ不思議だったのは、子供の姿がどこにも見えないことだった。 これについてシュミットに聞くと、子供は一ヶ所に集められ、そこで育てられるという。 このドイツ人集落の内部は全てが珍しかったが、特に印象に残った事柄を挙げるとすれば、2つある。 1つ目はあそこの住人たちの規律正しさというか、リーダーに対する絶対服従の姿勢だ。 まるで昔のプロシアの軍隊並みだった。 リーダーのひと声で全員が一体となって動いているようだった。 我々チリ人から見ればすごいというか恐ろしいというか。 2つ目は何といってもあの経済力だろう。 あれだけの道路設備やビルを作り上げるセメントの量だけでも大変なものだ。 もちろんセメントは全て自家製だった。 セメント工場を見たが、規模も大きく、あれなら十分な量が生産できると思った。

このチリ人記者はセメント工場の他にトラクター工場を見ることが許されたが、セメント工場同様の大きな規模であったという。 彼と市長は5時間ほどこのドイツ人集落にいて、一緒に帰ったという。 3日後、このチリ人記者は再びこのドイツ人集落を訪れたという。 今度は前もって連絡せずに文字通りの「抜き打ち訪問」で、市長も同行しなかったという。 期待と不安で胸一杯になりながら、彼が集落のガードハウスに近づくと、案の定、ドイツ人側は取材拒否の構えを見せ、一刻も早く立ち去るよう威圧的に警告したという。 この時、記者に同行したカメラマンがこのドイツ人集落の周辺を撮影し始めると、ドイツ人警備員2人が血相を変えてカメラマンに飛び掛かり、カメラを叩き落としたという。 びっくりしたカメラマンと記者は車に飛び乗り、ほうほうの体で逃げ出したが、その後、彼らはパラルの町でドイツ人たちに尾行されていることに気づき、言いようのない恐怖を感じたという。 以来、この記者は二度とこのドイツ人集落に近づこうとはせず、しばらくしてから新聞社を辞めたという。