南アメリカに逃げたナチス戦争犯罪被疑者

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第1章  戦後、連合軍に逮捕されたナチス幹部
1945年5月7日、ナチス・ドイツは無条件降伏し、第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線は終結した。 イギリスのアンソニー・イーデン外相はロンドンで「ノルウェーからバイエルン・アルプスにかけて、連合軍は史上最大の追跡を繰り広げている」と発表した。 パリの大ホテルの一室では、多くの連合軍情報将校および事務官が何千というナチスの個人ファイルと記録カードの検討を行なっていた。 ドイツ全土がしらみつぶしに捜索され、難民の列は詳しく調べられ、捕虜は一人残らず尋問された。 その結果、数人の大物戦争犯罪被疑者が捕らえられた。 ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは1945年5月9日にアメリカ軍に投降した。 ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテルは1945年5月13日に逮捕された。 ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツは1945年5月23日に逮捕された。 軍需大臣アルベルト・シュペーアはグリュックスブルクの執務室で逮捕された。 ポーランド総督でユダヤ人を迫害したナチス法律顧問ハンス・フランクはベルヒテスガーデン近郊の捕虜収容所で逮捕され、自殺するところを阻止された。 ナチスの政治家ユリウス・シュトライヒャーはベルヒテスガーデン近くで、ザイラーと名乗って画家として暮らしていたところを1945年5月27日に逮捕された。 ユリウス・シュトライヒャーはニュルンベルク裁判で絞首刑判決を受け、絞首場で「ハイル・ヒトラー。 今にボルシェビキがお前らを殺しに来るぞ」と、その場にいたアメリカ軍人に言い放った。 外務大臣リッベントロップは1945年6月14日にハンブルクで逮捕された。 アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスはフレンスブルクから遠くない農場で働いているところを1946年3月11日に発見され、逮捕され、ポーランド当局に引き渡され、絞首刑に処された。 ナチス親衛隊の長官ハインリッヒ・ヒムラーは髭を剃り落とし、左眼には黒い眼帯をあて、陸軍兵卒の上着に私服のズボンをはいていたが、1945年5月22日にイギリス軍により逮捕され、リューネブルクのイギリス陸軍本部に連行され、隠し持っていた青酸カリのカプセルを噛み砕いて服毒自殺した。

第2章  ナチス残党の地下組織網「オデッサ」
ナチス残党は、戦後ほどなく、戦争犯罪被疑者とされたナチス親衛隊員の逃亡を助ける地下組織網「オデッサ」を作った。 その他にも、「帝国」「地下救助」「岩の門」などが次々に誕生した。 これらの逃亡支援組織はいずれもナチス戦争犯罪被疑者の為の相互援助組織とでも言うべきもので、世界中にナチス残党の入植地を設け、また、ナチス親衛隊の推定20万人に及ぶ外国人メンバーをも使っての末端組織作りを目指すものだった。 スイス国内だけでもナチス戦争犯罪被疑者の為の隠れ家が2万戸もあったと伝えられているが、これらの逃亡支援組織の全貌は謎に包まれている。 連合軍がこれらの逃亡支援組織の存在に気づいたのは、かなり後のことで、連合軍はこれらの逃亡支援組織の正体を暴くことが出来なかった。 しかし、これらの逃亡支援組織は、作家フレデリック・フォーサイスが『オデッサ・ファイル』の中で描いたような得体の知れない巨大組織ではなかったようだ。 これらの逃亡支援組織は地下組織網と呼べるほどの力はなかったとの見方もある。 これらの逃亡支援組織の中で最大のグループは「オデッサ」である。 オデッサ(ODESSA)とは Organisation der ehemaligen SS-Angehorigen」(元ナチス親衛隊員の為の組織)の略称であり、設立されたのは1947年のことで、戦時中ではない。 独自のナチス逃亡者追跡機関を持つユダヤ人サイモン・ヴィーゼンタールも、この「オデッサ」の全貌を暴くことは出来なかったが、「オデッサ」がドイツからの逃亡者をスイスやオーストリアに送り込み、必要とあれば、イタリアに逃がしていること、そして、スペインや南アメリカとのつながりを持っていること、までは暴くことが出来た。 サイモン・ヴィーゼンタールは次のように語る。「『オデッサ』は十分に能率的なネットワークとして組織されている。 40マイルごとに中継拠点が設けられ、そこには、近くの2つの中継拠点しか知らない3人から5人ほどの人間が駐在している。 彼らは、逃亡者を受け取る中継拠点と、次に引き渡す中継拠点しか知らない。 中継拠点は、オーストリア・ドイツ間の国境全体、特に上部オーストリアのオスターミーティング、ザルツブルク地方のツェル・アム・ゼー、チロルのインスブルックに程近いイグルスなどに設けられている。 オーストリアとスイスのどちらにも近いリンダウ市に、『オデッサ』は貿易商社を設立しており、カイロとダマスカスに支店を設けている。 しばらく後に、私は次のことを発見した。 それは、『オデッサ』がオーストリア・イタリア間の所謂『修道院ルート』を開発していたことである。 ローマ教会の僧、とりわけフランシスコ派の修道僧たちは、逃亡者が長くて安全な『修道院ルート』を使って逃げるのを助けている。 疑い無く、カトリックの僧たちはキリスト教の哀れみの感情に駆られている。 『オデッサ』は、国境地帯で暗躍するあらゆる密輸業者と結託している。 また、ヨーロッパ各国の首都にあるエジプト・スペイン・シリアの大使館、それに南アメリカの幾つかの大使館と密接なつながりを持っている。 更に、彼らはスペインのファランヘ党の社会救済組織のドイツ課とも連携している。 この組織は“旅行者”をスペインに運んだり、南アメリカに送り込んだりしている」。 サイモン・ヴィーゼンタールは、「オデッサ」の責任者はシリア政府発行のパスポートを所持するハダド・セイドと名乗る男で、この男の正体はナチス親衛隊のフランツ・ロステロであることを突き止めた。

第3章  ナチス逃亡者を助けたカトリック教会
ナチス残党の地下組織網「オデッサ」は、オーストリアとイタリア北部に点在するフランシスコ派の修道院と連携していた。 これらの修道院のナチス逃亡者に対する援助活動はアロイス・フーダル大司教によって積極的に承認されていた。 アロイス・フーダル大司教は1885年生まれのドイツ人で、ナチスへの協力者として名高い存在だった。 戦争が終わると、アロイス・フーダル大司教はローマ教皇庁を動かし、カトリック教会をナチス逃亡者の隠れ家として提供した。 アロイス・フーダル大司教の援助活動の対象はナチス逃亡者だけではなかった。 スターリンの容赦なき弾圧にあえぐクロアチア地方の民族主義者たちにもアロイス・フーダル大司教は支援を差し伸べた。 ナチス逃亡者やクロアチアの逃亡者はカトリック教会を頼ってイタリアへ落ちのびた。 ローマ教皇庁は彼らに偽名の難民パスポートを発行するなどして、主に南アメリカへの逃亡を支援した。

「オデッサ」と肩を並べる、もうひとつの代表的な地下組織網として「蜘蛛(ディー・シュピネ)」と呼ばれる地下組織網がある。 この「蜘蛛」は1948年にグラーゼンバッハ連合軍捕虜収容所を脱走したナチス親衛隊員によって設立された。 アドルフ・アイヒマンは1946年1月5日にワイデンの連合軍捕虜収容所を脱走して、親類や知人の間を転々としながら、逃亡生活を続けていたが、アイヒマンの部下で「蜘蛛」のメンバーであったアントン・ブルガーに連絡をつけて、「蜘蛛」やナチスの秘密組織「7つの星」の支援を受けるようになった。 その後、アントン・ブルガーは、アイヒマンを国外へ逃亡させる為に、アロイス・フーダル大司教の援助機関に連絡した。 アイヒマンはローマの修道院からジェノバの修道院へ移り、ボルガノ生まれのリカルド・クレメントという名前の身分証明書とアルゼンチンヘの亡命パスポートを与えられた。 その3週間後、ジェノバの港にアルゼンチン行きの客船「ジョバンナ号」が入港した。 アイヒマンはこのジョバンナ号に乗り、悠々とヨーロッパを後にした。

ナチスの戦争犯罪を追及するジャーナリストのクリストファー・シンプソンはナチス逃亡者とカトリック教会の関係について次のように述べている。「カトリック教会が何故、どのような経緯でナチス逃亡者の密航に関わるようになったかを解明できれば、大戦後に元ナチ党員とアメリカ情報機関との同盟関係が一気に進展した訳を理解する鍵となる。 中でも詳しく調べてみるべき組織は有名なカトリック信徒の組織『インターマリウム』である。 1940年代から1950年代初めまではこの組織の全盛期であり、この組織の幹部たちはナチス逃亡者を東欧から西側の安全な場所に密航させる活動に深く関わっていた」。

第4章  ナチス逃亡者を追跡してきたユダヤ人組織
ナチス逃亡者を追跡してきた人物として、第2章で紹介したサイモン・ヴィーゼンタールという男がいる。 彼は1908年にガリチアに生まれたハザール系ユダヤ人である。 彼は第二次世界大戦中、多くの強制収容所を転々としているところを連合軍によって救出され、アメリカ軍の戦略情報局(OSS)の情報員となり、ナチス戦争犯罪被疑者の捜索に協力した。 サイモン・ヴィーゼンタールは1961年、オーストリアのウィーンに、ナチス逃亡者追跡機関「ナチ体制下のユダヤ人犠牲者連盟記録センター」を設立した。 この記録センターには約2万2500名の元ナチスに関する情報が納められているという。 この記録センターは戦争犯罪人についての情報を収集し、犯罪の証拠を発掘し、関係当局に情報を提供している。 この記録センターは民間の情報収集機関である為、逮捕の権限を持たない。

「世界ユダヤ人会議」という団体もナチス逃亡者を追跡してきた。 この団体は第二次世界大戦前の1936年、スイスのチューリヒに32ヶ国のユダヤ人代表280人が集まって創設されたものである。 ヨーロッパ戦線が終結すると、世界ユダヤ人会議はナチス・ドイツの罪状を明らかにすべく、ランズベルク戦争犯罪裁判に代表を送り込み、ユダヤ人問題に関する多くの提言を行ない、検事団に文書を提供するなど、のちのニュルンベルク裁判に大きな影響を与えた。 更に、世界ユダヤ人会議はナチスに略奪されたユダヤ人の財産を取り戻すために、西ドイツ政府を相手取り、賠償を求める作業に着手し、ルクセンブルク合意(西ドイツ政府がユダヤ人の生還者に損失財産の補償を行ない、イスラエルに対しても多額の賠償金を支払うという内容)を成立させた。 また、1979年、西ドイツ連邦議会は、世界ユダヤ人会議の圧力で、ユダヤ人問題に関する「時効の廃止」を承認することになった。

1920年に結成されたユダヤ人武闘組織「ハガナ」(イスラエル国防軍の前身)と、ウィーン大学のユダヤ人学生が中心になって結成した「反ナチ学生組織」の2つも、ポーランドやソ連などから逃亡したナチス戦争犯罪被疑者を追跡した。 両組織は協力してウィーン市内外で35人のナチス戦争犯罪被疑者の所在を確認し、それをソ連軍に通報し、軍事裁判で死刑判決や有罪判決を得るなどの実績を上げた。 イスラエル国の成立後、両組織に所属していた人々の大多数がイスラエルに移住した為、ウィーンでの彼らの活動は低調になった。 しかし、イスラエル共和国ではナチス逃亡者追跡の為に、1950年に「ナチス及びナチス協力者処罰法」が設けられ、諜報機関「モサド」が中心となってナチス逃亡者追跡活動を展開している。

なお、第二次世界大戦末期、ヨーロッパ南部で活動していたイギリス軍の指揮下にあったユダヤ人部隊はイタリア・ドイツ・オーストリア国境周辺で敗走するドイツ軍を追撃し、捕えたドイツ軍将兵を殺害した。 そこでは戦闘とは別の個人的な復讐と言える行動が見られた。 その為、イギリス軍はユダヤ人部隊に進撃停止命令を出すほどであった。 ユダヤ人部隊が殺害したドイツ軍将兵の人数は少なく見ても2000人に及ぶとの説もあるが、実数は不明である。 ポーランドやソ連などの東方地域ではユダヤ人がドイツ軍将兵を追跡し、ドイツ軍将兵の所在を確認して連合軍に通報し処罰を求めたり、ドイツ軍将兵を発見次第、その現場でドイツ軍将兵を殺害したりした。

第5章 ナチス逃亡者の受け入れに極めて寛容だったフランコ政権とペロン政権
現在も、世界各地にナチス残党の避難所が数多く存在していると言われている。 スペインの独裁者フランシスコ・フランコ将軍は第二次世界大戦後すぐにナチス逃亡者のスペインへの避難を認めた。 フランシスコ・フランコ将軍は1937年に「ファランヘ党」の党首となり、1939年8月にスペインの国家元首に就任し、一党独裁体制を敷き、第二次世界大戦中にはヒトラーの再三に渡る参戦要請を退けて「中立」を守り、多くのユダヤ人を匿い、戦後は多くのナチ党員を匿い、唯一のファシズム国家の終身主席として天寿を全うした。 サイモン・ヴィーゼンタールは語る。「あの国(スペイン)には驚かされる。 戦争中には2万5000人のユダヤ人を匿い、引き渡し請求には頑として応じなかった。 ところが戦後になると、今度は何千人ものナチ党員を匿い、彼らの身柄引き渡しを拒んだのだ」。

サイモン・ヴィーゼンタールのナチス逃亡者追跡機関「ナチ体制下のユダヤ人犠牲者連盟記録センター」や「世界ユダヤ人会議」によれば、戦後4万人から5万人のナチス残党が南アメリカに逃亡したという。 マルティン・ボルマンの足跡を追って『戦争の余波』を著したラディスラス・ファラゴによると、第二次世界大戦末期から終戦直後にかけて、計80億ドルの財宝と15万人のナチ党員がドイツから南アメリカへ移動したという。 ナチス逃亡者の多くが南アメリカを逃亡先に選んだ理由の第1は、親ナチス的なファン・ペロン独裁政権がアルゼンチンに誕生しており、庇護を受けられることが約束されていたということである。 ファン・ペロンは、大戦中、軍事視察武官としてヨーロッパに旅行し、ヒトラーやムッソリーニから大きな薫陶を得て、アルゼンチンに帰国し、直ちに全体主義的ナショナリズムの傾向が強い指導者として、政治運動に着手し、1943年のカスティヨ政権打倒に力を発揮し、1944年、クーデターによってファレル政権が成立すると、陸軍大臣に就任し、ほどなく副大統領となり、1946年、大統領に当選し、念願の軍事的独裁を掌握するに至った。 この間、ドイツ大使館はペロンを中心とする青年将校団に資金援助をしていた。 第二次世界大戦末期のドイツはUボートを使って、ナチスの財宝を密かに南アメリカへ搬出し始めていたが、アルゼンチンでは、ペロン副大統領がその受け入れに大きく関与していた。 そして、戦後のペロン政権は、ローマ教皇庁を通じて次々に送られてくるナチス逃亡者の亡命嘆願を積極的に受け入れた。 ペロン政権はスペインのフランコ政権と共に、ナチス残党の受け入れに極めて寛容だった。 ヒトラーがかなり早い時期から南アメリカに対して並々ならぬ関心を寄せていたこと、南アメリカには元々ドイツ系の移民が多かったこと、ドイツ系移民の中から強力なナチス運動が展開していたことも、ナチス逃亡者の多くが南アメリカを逃亡先に選んだ理由として挙げられる。

ハーマン・ロシュニングは著書『破滅の声』の中で、ヒトラーの南アメリカに対する並々ならぬ関心について次のように記している。「1932年夏、官邸のテラスでの夕食会の席上でのことだ。 ヒトラーはアメリカに対する意見を含め、自分の計画が如何に遠大なものであるか、国家社会主義が東部ヨーロッパおよび東南部ヨーロッパのみを対象としていることが如何に誤りであるかをまくしたてた。 ちょうどナチス突撃隊の幹部が南アメリカから帰国したばかりであったので、ヒトラーはナチス突撃隊の幹部に様々な質問を浴びせた。 やがてコーヒーが運ばれてくると、ヒトラーは『未来の土地』についての話を始めた。 それは、具体的な計画ではなく、単に抽象的な観念を繰り返すだけのものであったが、彼はブラジルに対して非常に強い関心を持っているようだった。 ヒトラーは 『ブラジルに新しいドイツを建設しよう。 そこには我々の望む全てのものがあるのだ。 フッガー家とヴェルザー家がそこに土地を持っていたのだから、我々は南アメリカ大陸に対して権利がある。 我々は統一以前のドイツが破壊してしまったものを修復しなければならない』 と語った」。

南アメリカとドイツのつながりは、19世紀後半まで遡る。 その当時、不況のどん底に落ち込んでいたドイツは植民地熱に浮かされていた。 貧困に苦しむ多くの人々が移住を希望していた。 そのため、様々な「移民協会」が各地に生まれた。 1880年代前半までに数十万人のドイツ人が北アメリカ行きの船や南アメリカ行きの船に乗った。 彼らの行き先の大半はアメリカかブラジルかアルゼンチンであった。 ヒトラーが権力を掌握した1933年頃には、アルゼンチンのドイツ系移民はスペイン系移民に次ぐ勢力に成長していた。 このドイツ系移民に早くから注目していたナチスは、在外ドイツ人の監視と統合の為に、1932年に「ナチ党外国組織部」を設立した。 全世界を「北アメリカ」「ラテンアメリカ」「極東・オーストラリア」「アフリカ」「北東および西ヨーロッパ」など、8つの地域に分け、それぞれに担当課を置いた。 8つの地域の中でヨーロッパ大陸を別にすれば、ドイツ系移民が最も多く住んでいた地域は北アメリカ(120万人)で、次にラテンアメリカ(80万人)であった。 ラテンアメリカでは、ナチスのハインリッヒ・コルンの指導のもとで「アルゼンチン・ナチ党」が結成された。 その党員数は、第二次世界大戦が始まった1939年に6万名を数え、ドイツ本国のミュンヘン・ナチ党の党員数に次ぐものであった。 アルゼンチン・ナチ党はミュンヘン・ナチ党の外国支部として発足したこともあって、ミュンヘン・ナチ党の組織構造をすっかり模倣していた。 アルゼンチン・ナチ党の眼からみれば、ヒトラー政権とミュンヘン・ナチ党の崩壊は一部の消滅に過ぎず、全世界に根を張ったナチズムの敗北ではなかった。

ユダヤ人作家マイケル・バー・ゾウハーは次のように述べている。「終戦直後の数年間に南アメリカの地を踏んだドイツ人は大量にいたが、そのすべてが戦争犯罪被疑者や元ナチス親衛隊将校、あるいは、元ゲシュタポ幹部というわけではなかった。 多数の技術者や科学者も、この先何年ドイツにいても成功する見通しはないと判断し、新しい国で運を試そうと祖国を離れたのである。 当然のことながら、こうした人々は引き寄せられるように、アルゼンチン・ブラジル・チリ・パラグアイなど、すでにドイツ人の大居留地があった国々へと渡っていった。 だが、1955年のペロン政権崩壊は、アルゼンチンに潜伏したナチス逃亡者にかなりの不安を与えた。 その為、或る者は別の避難場所を求めて、「他の南アメリカ諸国やスペインや中東に移るほうが賢明だ、アメリカ合衆国でさえまだましだ」と考え、また、或る者はもっと奥地に逃げこんで、文明から遠く離れた不毛の高地や、パンパスと呼ばれる大草原や、ジャングルに新たな居留地を作るほうがよいと判断した。 ペロンに替わる新しい指導者たちもナチス逃亡者に対する友愛政策を変えることはなかったものの、アルゼンチンの政権の交替は彼らに多くの心配と不安をもたらした。 その結果、パンパスと呼ばれる大草原や、アルゼンチンに接するパラグアイはドイツ領とでも呼べそうな有り様になった。 更に、1500人ほどのナチス逃亡者はパラグアイより北にあるブラジル領マトグロッソ(パラグアイ川上流域の湿地帯・密林帯)に逃げ込んだ。 その一帯には人跡未踏とも言える広大な熱帯雨林が広がり、熱帯植物が繁茂し、湿地が水蒸気を立ち上らせ、インディアンの部族が文明とは無縁の生活をしていた。 その一帯に入り込む為には、舟もやっと通れる幾筋かの川と、ひどい凸凹道2本を使うしかなかった。 ブラジル政府からその一帯を与えられたナチス逃亡者はジャングルの開拓に取り掛かった。 このような、人間の住む所とは言えないような場所での生活は苛酷であったが、それは間違いなく安全であるという証左でもあった。 よそ者が外の世界から近付けば、よそ者の動きは直ぐに判る。 身の危険を感じたドイツ人は暫くジャングルに隠れることも、こっそり友人の農場に逃げこむことも出来るし、国境を越えることすら出来た。 そもそも、マトグロッソは、ナチス逃亡者が入りこむ前から、脱獄者・指名手配の罪人など、有りと有らゆる逃亡者たちの避難場所だった。 この地域には何かを聴き出そうとする者などいない。 神からも見捨てられたこの地域で守らなければならないルールは「密告するな」「互いに助けあって法に立ち向かえ」の2つだけだった。 まるで暗黒街の掟のようではないか。 そして、このどちらもがナチス逃亡者にはうってつけのルールだったのである」。

ところで、これは余談になるが、ついでに紹介しておきたい。 ナチス・ドイツのフォッケウルフ社(航空機製造会社)で主任技師をしていたクルト・タンク博士は同僚らと共に1947年にアルゼンチンに入国した。 彼はアルゼンチンのコルドバに住み、航空技術研究所の責任者となって、ついに1951年、アルゼンチン初のジェット戦闘機「プルキ2型」を生み出した。 このプルキ2型を製造したのがコルドバの「ペロン工場」だった。 1955年にペロン大統領が権力の座から降りると、かつてのフォッケウルフ・チームは離散し、その多くはアメリカ合衆国へ移った。 クルト・タンク博士はインドに渡り、インドで初めての国産軍用機「ヒンドスタンHF24 マルート」をヒンドスタン航空のために設計した。 その後、クルト・タンク博士はベルリンに戻り、ドイツを本拠として残りの人生を送った。