ナチス突撃隊とナチス親衛隊

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第1章  ナチス突撃隊(Sturmabteilung 略号:SA)
第一次世界大戦後のドイツでは、政党の集会や演説会を他政党の党員や支持者が暴力的に妨害する事件が多発していた。 ナチス突撃隊はナチス党員を保護する目的で1921年に結成された団体で、当初、その隊員は退役軍人や兵士などであったが、後に一般の若者や失業者も隊員になった。 ナチス突撃隊は共産主義者との街頭での闘いやデモ行進を通してナチスの政権獲得に大いに貢献し、褐色の制服姿は市民に恐怖感を与える存在となった。 ナチス突撃隊の指揮は1923年からはヘルマン・ゲーリングが執っていたが、1926年からはフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンがナチス突撃隊の指揮を執り、1931年からは元陸軍大尉のエルンスト・レームがナチス突撃隊の指揮を執った。 エルンスト・レームはヒトラーの最も古くからの同志で、ヒトラーと肩を並べるほどの実力を持っていた。 エルンスト・レームはヒトラーに向かって「おまえ」と呼ぶことの出来る唯一のナチス党員であった。 野心を燃やすエルンスト・レームはドイツ国防軍(10万人)をナチス突撃隊に編入させようとしたが、ドイツ国防軍はこれに激しく反発した。 ナチス突撃隊は当初は共産主義勢力に武力で対抗する団体であったが、エルンスト・レームがナチス突撃隊の指揮を執るようになってからは、徐々にエルンスト・レームの私兵と化していった。 エルンスト・レームは、自ら率いるナチス突撃隊がドイツ国防軍に取って代わる正規軍になるよう画策していた為、国防軍の将校たちは、自分たちがナチス突撃隊に飲み込まれるのではないかと、危機感を募らせていた。

第2章  ナチス突撃隊とドイツ国防軍との対立
ドイツ国防軍について、東京医科歯科大学教授の鈴木直氏は次のように述べている。「ドイツ国防軍はプロイセン以来、貴族やユンカー(ドイツ東部の土地貴族)出身の誇り高い職業軍人の集団だった。 ドイツ国防軍の将軍たちの名前を見ると、やたらに『フォン』という貴族の称号が目につく。 ナチス首脳のゲッベルス、ボルマン、ヒムラーなどが、会計士、郵便局員、教育監督など小市民階級の出身者だったのとは好対照である。 だから、大半のドイツ国防軍将校たちは、成り上がりの大衆扇動家ヒトラーとナチスを軽蔑し、毛嫌いしていた。 それでもドイツ国防軍は、屈辱的なヴェルサイユ体制とそれを受諾したワイマール共和国を打倒し、ドイツの再軍備を実現する為に、天才扇動家ヒトラーを利用しようとした。 用が済めば、伍長上がりの男など、いつでも排除できると高をくくっていた。 そして、プロイセン陸軍の伝統を引くドイツ国防軍エリート軍人たちは、粗暴な街頭宣伝や破壊活動を繰り広げるナチスの私的軍事組織(突撃隊)を危険視していた。 一方、ヒトラーも政権基盤の強化や戦争遂行のためには、ドイツ国防軍の協力が欠かせないことを知っていた」。

ナチス突撃隊は無制限に隊員を受け入れた為、隊員数は最盛期には300万人前後に達し、その結果、ヒトラーの統率が効かなくなった。 エルンスト・レームはナチス突撃隊を独立勢力のように考えて、ヒトラーの指揮に応じない可能性が高くなっていた。 ナチス突撃隊とドイツ国防軍との深刻な軋轢が政権基盤の危機を招くと判断したヒトラーは、ナチス突撃隊を自身の統制下におく方針を固め、更に、独走の懸念があるナチス突撃隊幹部の粛清を決意した。 1934年6月30日、ヒトラーはゲーリングとヒムラーの協力により、ミュンヘンのホテルで会合していたエルンスト・レームほかナチス突撃隊幹部を急襲・逮捕し、直ちに情け容赦なく銃殺刑に処した(長いナイフの夜事件)。 その罪は「外国勢力と結託して党の転覆をはかった反逆罪」だったが、もちろん、でっち上げの罪である。 このほかに同性愛を疑われた幹部もいた。 処刑には裁判手続きが省かれたが、これは国家緊急防衛措置とされた。 この事件は7月2日まで続いた。 男色・酒乱・ゴロツキなど評判の悪かったナチス突撃隊幹部の粛清にドイツ国民の反応は冷静で、この事件のニュースは概ね好感をもって伝えられたという。 ヒトラーはナチス突撃隊幹部を粛清したことでドイツ国防軍との関係を修復した。 粛清の対象はナチス突撃隊幹部だけでなく、シュライヒャーなどの反ナチスの保守派、シュトラッサーなどの党内の左派勢力など、合わせて数百人が殺害された。 レーム粛清でナチス突撃隊は一気に勢力を失ったが、党内階層序列を維持する為にナチス・ドイツが崩壊するまで、ナチス突撃隊はナチスの組織として存続した。

レーム粛清に関して、お茶の水女子大学教授の山本秀行氏は、著書『ナチズムの時代』(山川出版社)の中で次のように述べている。「(ヒトラー時代の)人々のナチズムについての記憶を分析していくと、個々の不満がナチス体制そのものへの批判へと全面化しないメカニズムや回路のようなものが浮かび上がってくる。 そうしたメカニズムの1つが 『ヒトラー神話』である。 ヒトラー崇拝は、ナチスが政権をとる前から見られたが、これがドイツ国民に定着するきっかけとなったのが、1934年6月の「長いナイフの夜事件」であった。 この事件は、ヒトラーがナチス革命の継続を唱えるレームら突撃隊の幹部と政敵を粛清したものであった。 大量殺人にもかかわらず、ドイツ国民はヒトラーの断固たる措置を歓迎し、ヒトラーの威信はかえって高まっている。 ナチス組織の腐敗、幹部の目にあまる増長ぶりに、ドイツ国民はそうした幹部をヒトラーが押さえつけてくれることを期待したのである。 言ってみれば、ナチスへの不満が逆にヒトラーの人気を押し上げたのである。 宣伝相ゲッベルスは、ヒトラーを清潔な政治家、党利党略を超えてドイツ国民全体のことを考える人物として演出した。 しかし、ヒトラーの人気はそうしたプロパガンダの所為だけではなかった。 ドイツ国民は清潔なヒトラーを引き合いに出すことによって、腐敗した幹部を批判したのである。 ドイツ国民もまた、演出されたイメージを利用し、自分たちの願望や期待をヒトラーに投影することで 『ヒトラー神話』の成長に関わっている。 『ヒトラー神話』は、人々の不満や批判を吸収することで、ナチス体制の安全弁の役割を果たしていたのである」。

作家の柘植久慶氏は「長いナイフの夜事件」について、著書『ヒトラーの戦場』(集英社)の中で次のように述べている。「エルンスト・レームはナチ党でただ一人、ヒトラーと『俺』『おまえ』で話し合える人物だった。 初期のドイツ労働者党時代から、腹を割って話のできる数少ない親友として知られる。 ところが、レームの思想はヒトラーを含めた他のナチ党の幹部たちと同床異夢の感じが残されていた。 レームの主張は今や共産主義者を打倒し『第1の革命』が成ったから、『第2の革命』として貴族、財閥、それにユンカーを倒すべきというものだ。 このレームの思想は、彼が極貧階層からのし上がった陸軍将校という点を忘れてはならない。 彼はその成長の過程にあって、貴族や財閥を憎悪の対象として考え続けた。 だから、ナチ党に在っても革命主義を徹底して貫くべきと、強い信念を有していたのだ。 しかも、250万の突撃隊をドイツ国防軍に代わるものとする考えを抱いている。 当然、その暁に軍の頂点に立つのはレーム自身だ。 ヒトラーは困惑する。 もし、レームの思想を実行させたとしたら、ドイツは再び大混乱に陥る。 そうなれば、共産主義者も息を吹き返すに違いない。 それにヒトラー自身は革命主義者でなかった。 加えて彼にはドイツ国防軍が必要だった。 何故なら街頭での戦いでなく、本格的な野戦を展開する場合、職業軍人に無視されたら戦争はできないのだ。 ドイツ国防軍の根幹はプロイセン軍人である。 その将校団の中核はプロイセンの土地貴族(ユンカー)出身者だった。 彼らを一掃したドイツ国防軍など存在せぬに等しい。 将校団と突撃隊との対立はすでに10年以上の歴史を持っていた。 両者の和解や妥協点など全く考えられない。 そうなると問題はどちらを残すかだった。  〈中略〉  レーム粛清事件に関して、多くの書物がヒトラー批判をしている。 だが、スターリンが行なったトゥハチェフスキー元帥以下、赤軍将校3万人の大粛清と比べたら、100分の1程度のものだ。 戦勝国側だったお蔭でスターリンの大粛清は看過されたわけだが、このあたりは戦後の連合国の実情をよく物語っている。 いずれにせよ、レーム粛清の際に注目されるのは、ヒトラーが自ら乗りこんだ点だ。 普通は、こうした役割は他人にやらせるものだが、一国の最高権力者が自分自身で決着をつけたことは特筆に値しよう。 反面として、それだけレームの存在が大きかったとも言える。 他の人間ではレームを押えられないと、ヒトラー自身も考えていたのではないか。 かくして、積年の課題となっていた突撃隊に関する悩みがここに氷解した恰好となった。 ドイツ国防軍との関係に横たわっていた障害はすべて除去されたのだった」。

第3章  ナチス親衛隊(Schutzstaffel 略号:SS)
レーム粛清でナチス突撃隊は党内での実権を失い、ナチス突撃隊に代わって、ナチス親衛隊が台頭した。 ナチス親衛隊は、もともとはヒトラーの身辺警護を目的として1925年に作られた党内組織であり、ナチスの“私兵”であり、ナチス突撃隊の下部組織であった。 ナチス親衛隊は軍隊とほぼ同じように、管区・連隊の下に小隊・班をおき、将校・下士官・兵で編制されていた。 1929年、ハインリッヒ・ヒムラーが当時まだ280人ほどのメンバーしかいなかったナチス親衛隊の長官となった。 ナチス親衛隊はヒムラーの指導下で大幅に増強され、その隊員数は1932年末までに5万人になり、その1年後の1933年末には20万人に膨れ上がった。 ナチスが政権を掌握した1933年以降、ヒムラーはナチス親衛隊とドイツ警察との一体化を推し進め、1936年、全ドイツ警察をナチス親衛隊の支配下に置いた。 レーム粛清(1934年6月30日)を実行したのは主にヒムラー率いるナチス親衛隊であった。 レーム粛清で実績を上げたナチス親衛隊は1934年7月20日にナチス突撃隊から独立してヒトラー直属の機関となり、その地位を確固たるものとした。 ナチス親衛隊は保安諜報部を持ち、治安維持、反体制分子の摘発、ユダヤ人狩り、強制収容所の運営などに当たった。

ナチス親衛隊員の資格要件は、ドイツが誇りとするアーリア(ゲルマン)人で、志操堅固な者であり、入隊時には血統・家庭環境・教育程度などが厳密に調査された。 具体的にはナチス親衛隊の志願者は3世代に渡って純血アーリア(ゲルマン)人であることを証明しなければならなかった。 そして、身長の条件は170cm以上であること、それ以下である場合、身体の他の部分との調和によって考慮された。 また、勝手な結婚は許されず、ナチス親衛隊の文書局に許可申請と共に婚約者の健康診断書・父母の経歴・近親者の精神病歴の有無などの記録提出が義務づけられていた。 審査に合格すると、本人同士の結婚誓約書を出すという手順が踏まれた。 因みに、ナチス親衛隊においてホモ行為は大罪であり、この罪を犯した者は死刑に処された。

ナチス親衛隊員はナチスのエリートとされ、褐色シャツ・黒ネクタイ・黒上衣・黒ズボン・黒長靴を着用し、ドクロの記章を付けた帽子をかぶり、「神は我らと共にある」と書かれたベルトを着けていた。 また、勤務3年以上の士官には頭蓋骨をかたどった印鑑付き銀製指輪が与えられ、長官ハインリッヒ・ヒムラーがナチス親衛隊の精華と考えた士官には短剣が与えられた。 入隊合格者が基礎訓練を終えると、見習い隊員としてヒトラーへの忠誠の宣誓を行なった。 これはヒトラーの誕生日の儀式で行なわれた。 そのあと、ヒムラーによる「血と土の秘儀」に従って、「民族の純血と健全なる血統の存続が保証されない限り結婚はしない」という宣誓をした。 宣誓は何千人もの声が一斉に行なった。 因みに、ナチス親衛隊員の左わき下には血液型をコード化した入れ墨があった。 それは、ナチス親衛隊員は優秀であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利があるというナチス指導部の思想の為であった。 ZDF(ドイツ公共放送局)の現代史局長であるグイド・クノップ(歴史学博士)は次のように語っている。「常に大衆の側にあった突撃隊と違って、親衛隊は初めから、どちらかというとエリート集団を自認していた。 ドクロのマークを誇示した黒い帽子、黒い縁取りのある鉤十字の腕章によって、親衛隊はニーベルンゲンの登場人物を思わせる一種のオーラを意識して身につけていた」。

ナチス親衛隊の発展にともない、「一般親衛隊」とは別に、「武装親衛隊」が誕生した。「武装親衛隊」という名称は、第二次世界大戦勃発後に、戦闘に参加した親衛隊の武装組織の総称として使われるようになったものである。 武装親衛隊は40個近い師団から成る精鋭部隊で、ドイツ陸海空3軍と並ぶ「ドイツ第4の軍隊」と言われた。 武装親衛隊の入隊資格はのちに緩和され、ドイツ人だけでなく民族ドイツ人(1937年の時点でドイツ国籍を持たない、ドイツ以外の国に居住するドイツ人)や、更に、ナチス・ドイツを支持する国や占領地域からの志願兵、反スターリン派のロシア人などが武装親衛隊に加わるようになり、その為、武装親衛隊員の大半はドイツ人ではなく、ヨーロッパ各地から集まった外国人であり、武装親衛隊の規模は1944年には90万人になった。 。