ヒトラーとポルシェ博士 「国民車」製造計画
第1章 初めに
ヒトラーは車が大好きだった。 仕事で多忙を極めていた彼はストレス発散の為に、しょっちゅうドライブに出かけた。 彼の愛車はメルセデス・ベンツの車であった。 彼がメルセデス・ベンツを好んだ理由は、一度交通事故に遭ったとき、頑丈に造られた車体のお陰で怪我をせずに済んだからだった。 それ以来、彼はどこへ行くときもメルセデス・ベンツに乗り、1932年の大統領選挙の時には、特別に造らせた青いメルセデス・ベンツのオープンカーで遊説した。
ヒトラーはパワフルな車が大好きで、貴族的なマイバッハよりもスーパーチャージャー付きメルセデス・ベンツを大いに愛用した。 当時、メルセデス・ベンツのスーパーチャージャーは独特な「メルセデスの悲鳴」と呼ばれる甲高い耳障りな音を発生したが、それをワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の悲鳴になぞらえる人が多かった。 ヒトラーはワーグナーをこよなく愛していたので、この甲高い音はさぞかしお気に入りだったであろう。 因みに、このスーパーチャージャーの設計の主導的人物はポルシェ博士だった。
第2章 アウトバーン(自動車専用高速道路)の建設
ヒトラーが政権を握る前のドイツの道路行政はかなり遅れていた。 その当時、ドイツの道路は約600の市町村に属し管理されていた為、地域によって不統一な設計や技術的不釣り合いが生じていた。 更に、古い都市が多く、歴史的・美術的な建築物が多い為、他の国々と比較して道路交通網の整備は遅れていた。 また、ドイツの自動車保有台数も他の国々と比較して少なかった。 1930年のアメリカとドイツの人口比は2対1だったが、アメリカには2300万台の自動車があり、ドイツには50万台しかなかった。 この年のイギリスの自動車保有台数は100万台である(人口比はドイツ3、イギリス2)。 1938年におけるドイツの自動車保有台数とイギリスの自動車保有台数は1930年に比べて、それぞれ3倍と2倍に増大したが、1938年のドイツとイギリスの自動車保有率の比は1:2であった。
1933年1月、ヒトラーが政権を握ると、早速アウトバーンの建設計画が発表された。「アウトバーン」は正式には「ライヒス・アウトバーン(Reichs Autobahn)」という。 アウトバーン建設の目的は陸上交通網の近代化であるが、その目的の中には機甲部隊(戦車・装甲車・自走砲などを装備した陸軍部隊)を迅速に国内移動させるということもあった。 アウトバーン建設は、当時650万人にも及ぶと言われた失業者の救済の為の公共事業でもあった。 アウトバーン建設計画はすぐに実行された。 1933年7月、ヒトラー政権は「自動車国道営団」を設立し、道路行政を一本化する法律を制定した。 これ以降、ヒトラーは、自動車税の撤廃、国有鉄道にトラック輸送部門を新設するなどの政策を打ち出し、ナチ党は党内に 「国家社会主義自動車隊」を設け、運転技能者育成を始めた。 そして、1933年9月23日、フランクフルトとダルムシュタットを結ぶ第1期工事の起工式にはヒトラー自らが出向き、その事業に対する力の入れようを示した。 アウトバーン建設計画では南北に2本、東西に4本の基幹路線を作り、路線の総全長は1万4000kmになる予定であった。 アウトバーン建設は第二次世界大戦の影響で1942年に中止されたが、スタートの1933年から1942年までの9年間で3900kmを完成させるという歴史上比類のないハイペースで進められた。
因みに、世界に先駆けて高速道路の整備に取り組んだドイツを追いかけるように、アメリカでも1940年に全長257kmの「ペンシルバニア・ターンパイク」が建設された。 日本での最初の高速道路は、1963年7月16日に開通した「名神高速道路」(栗東IC〜尼崎IC間71.1km)である。
第3章 「国民車」製造計画
「国民車」を意味する「フォルクスワーゲン」の製造計画が発表されたのも、ヒトラーが政権を握って間もなくの頃であった。 当時、ドイツの自動車メーカーは裕福な顧客の為の高級車を生産していた。 1933年2月11日、ベルリンでモーターショーが開催された。 その開幕式でヒトラーは「国民の為の車を造るべきだ」と演説した。 ヒトラーは語った。「これからの国家の評価は鉄道ではなく、高速道路の長さで決まる。 自動車が金持ち階級のものである限り、自動車は国民を貧富の二階級に分ける道具でしかない。 国家を真に支えている多くの国民大衆の為の自動車であってこそ、文明の利器であり、素晴らしい生活を約束してくれる。 我々は今こそ国民の為の車を造るべきである」。 このように、ヒトラーはドイツの国力を世界に宣伝する為に「一家に一台」を標語にして、自動車を国民大衆に普及させることを主張した。 そして、ヒトラーは「国民車」の設計をスポーツカーの設計者として有名だったフェルディナント・ポルシェ博士に依頼した。 ポルシェ博士は快く応じ、1934年6月22日、「ドイツ自動車工業連盟」と正式に契約を交わした。 この契約によりポルシェ博士は10ヶ月以内に「国民車」のプロトタイプを完成させることとなった。
ボヘミア出身の天才技術者ポルシェ博士は優秀な技師として多くの会社を渡り歩き、電気自動車や電気とガソリンの混合動力車を開発し、ダイムラー・ベンツ社では伝説のスポーツカー(メルセデスSS、SSK)を開発し、ダイムラー・ベンツ社を退職した後、アウトウニオン社の依頼でミッドシップ方式のレーシングカー「Pワーゲン」を開発した。
「国民車」の設計の条件として、安価であり、4、5人乗りで燃費が良く、持続してアウトバーンを走れ、修理費が安く、全輪独立懸架で、空冷式エンジンを使うことが提示された。 このとき提示された基本性能は当時の車としては型破りの内容であった。 自動車の大衆化に革命的な衝撃を与えたアメリカのT型フォードは、安価を追求した結果として構造的には極めて単純だった。 だが、「国民車」は安価が第一目標だったにもかかわらず、構造的にはとても高級だった。 例えば、全輪独立懸架の採用である。 その頃、全輪独立懸架の市販車はほとんど見かけることはなかった。
ヒトラーの「国民車計画」は第一次世界大戦後の車作りを一変させることになった。 ヒトラーはドイツの自動車工業のあり方や理想のエンジンについて独自の考えを持っていた。 彼は側近に次のように語った。「今までの我がドイツの自動車メーカーは常に新型車を発表し、現在ある車を改装し改善を加えている。 その結果、無数の種類の部品を作らねばならなくなった。 異なった型の部品の互換性がないからだ。 このような事態を避ける為に、我々はドイツ自動車工業が1ダースほどの型しか生産しないよう制限を加えるべきだ。 そして、自動車工業の第一目標をエンジンの単純化に置くべきである。 ダッシュボードも単純化すべきである。 しかし、最も重要なことは、ある1種類のエンジンが病院車にも偵察車にも大砲の牽引車にも使えるようにすることだ。 私の考えている理想的なエンジンは2つの特性を持っていなくてはならない。 1つ目は空冷式であること。 2つ目は分解と交換が容易であること。 後者は特に重要である」。
第4章 試作車の製作
「国民車」の設計をヒトラーから依頼されたポルシェ博士は自分の別荘のガレージで試作車の製作を開始した。 しかし、如何に天才ポルシェと言えども、「国民車」の原型が出来上がるまでには、2年という歳月が必要であった。 1935年に開かれたベルリン・モーターショーの開幕式で、ヒトラーは「国民車」の誕生を予告した。「私は優れた技術者ポルシェ博士とそのスタッフの努力により、ドイツの国民車が誕生の運びになったのを喜びたい。 従来の中型オートバイより安く、しかも燃費の良い小型車をドイツ国民に贈ることが将来必ず可能になるものと信じている」。
「国民車計画」でポルシェ博士に提示された条件のうち、ヒトラーが最も固執したのは価格だった。 ヒトラーは庶民の手の届く価格(1000マルク以下)であることに強くこだわっていた。 しかし、どう考えても、1台あたりの販売価格をこれほどまでに抑えることは不可能に思われた。 何しろチッポケな最も安い車でさえ1500マルクはした時代のことである。 このヒトラーの目標価格は、ディーラーの利益を除外した上での単純計算においても、達成困難な価格だった。 しかし、それでも、ポルシェ博士は熱心に仕事を続けた。 自分がずっと胸に描き続けてきた理想の小型車に挑戦できる願ってもない機会だと考えたからである。
ドイツ自動車工業連盟の主要メンバーは「この条件を鵜呑みにすれば、予定通りには事が進まない」と公言してはばからず、また、棘のある冷たい言葉をポルシェ博士に投げかけた。 しかし、それは結果として、ポルシェ博士の情熱に油を注いだ。 ドイツ自動車工業連盟の主要メンバーは、一設計者に過ぎないポルシェ博士に「国民車」の設計・製作の主導権を握られているという事実を苦々しく感じた。 また、ドイツ自動車工業連盟に参加していたオペル社はポルシェ博士に対抗して、独自に大衆車の開発を進めていた。 しかし、このオペル社の策略はヒトラーを激怒させることになった(後述)。
第5章 試作車「VW3」「VW30」の完成
1936年春、ヒトラーのところへ電話がかかってきた。「できました」と、ポルシェ博士の声であった。「総統のお望み通りの車が完成しました。 どんなロードテストにも耐えるでしょう。 たとえ水の中、吹雪の中、炎熱の酷暑、どこへ持っていっても故障なし。 そして、大量生産すれば、値段もお望み通りのところになります」。 この自信に満ちたポルシェ博士の言葉を聞いて、ヒトラーは笑みをこぼした。 さっそく、完成したばかりの試作車「VW3」の走行テストが入念に行なわれた。「VW3」の成功を望んでいなかったドイツ自動車工業連盟のメンバーが「VW3」を徹底的にテストした結果、どこにも否定的な問題点を見い出すことが出来なかった。 翌年、更に改良を加えた試作車「VW30」が30台完成し、総計241万kmに及ぶ「VW30」の苛酷な走行テストがナチス親衛隊によって大規模に行なわれた。 それは当時としては異例中の異例とも言える苛酷な走行テストだった。 この走行テストは国家的な機密に属し、一般人が撮影することは厳しく禁じられたという。 この走行テストについて、日本航空学会会長の佐貫亦男氏は次のように語った。「VW30計画と称するフォルクスワーゲン実用走行試験の総費用は3000万マルク、すなわち価格950マルクのフォルクスワーゲン3万台分といわれる。 自動車史上これほどテストに費用を掛けた前例はなく、今後もないであろう。 普通はこの10分の1以下である。 フォルクスワーゲンの欠点を除くための費用だけでも、通常の新車開発費に相当したという」。
また、ある自動車評論家は次のように述べている。「この走行テストの試乗者はナチス親衛隊から200名が選抜された。 わざと素人のドライバーを選んだのは、素人が運転して起こすミスやその他のミスにも耐えうるかの試験をする為であった。 テスト本部をコルンウェストハイムのナチス親衛隊営舎に置き、1937年から1938年の冬にかけて、30台の車が一斉にスタートした。 それは誠に壮観と言ってもいいテストであった。 1台の走破距離が8万470キロ、従って、このテストでは241万4100キロが試乗された。 また、これまでに消費された資金は3000万マルクであった。 おそらく、これほど大がかりな自動車テストというものは、古今絶無といってもいいだろう」。
第6章 試作車「VW38」の完成
ポルシェ博士の息子フェリーは、自伝の中でヒトラーについて次のような印象を述べている。「ヒトラーは一旦、興味を持ち始めると、基本的にも、また、細部についても、彼の理解力は驚嘆に値するほど速かった。 ナチズムそのものは、私の考え方とは真っ向から対立するものだった。 けれども、人間の行動という点から公平に言うならば、ヒトラーの振る舞いは正確そのものと言わざるを得ない。 特に、父に対する態度を見る限り、そう認めざるを得ないような気がする。 金ピカのにわか将官の側近連中とは違って、ヒトラーは決して傲慢な態度をとらなかった。 側近の多くはホウロウ材質で表面を幾分似せていたようだが、頭脳の中身は全く異質のもののようだった。 総統は決して愚問を発したり、的外れの質問をしたりしない。 勉強には苦労を厭わないのだった。 だから、総統は父の「国民車」を理解しようとして、熱心に努力していた。 技術的に細部に渡って多種多様な質問をしてくるのだった。 その質問は全て的を射ていた。 ヒトラーは、ある箇所を変更させるつもりだったらしいが、大きな変更を提案しなかった。 確かに質問の内容から判断して、技術的に細部に渡って相当研究しているように見えた。 更に驚くべき点は、彼の記憶力の良さだった。 ヒトラーの記憶力は抜群だった。 彼の記憶力の良さには父も驚いてしまったほどだ」。
1937年に開かれたベルリン・モーターショーで、ヒトラーは恒例の大演説を行なった。 この演説の中でヒトラーは「国民車」の開発が順調に進んでいることを強く宣伝した。 開幕式が無事に終わると、ヒトラーは会場内を視察し、やがてオペル社の展示場のそばに来た。 ヒトラーが来るのを待ち構えていたヴィルヘルム・フォン・オペルは満面に笑みを浮かべてヒトラーに近づき、オペル社が独自に開発した大衆車を示しながら、うやうやしくヒトラーに話しかけた。「わが指導者、ご覧下さい。 これこそ我がドイツの国民車でございます」。 オペル社の展示場に華々しく展示されていた車を目にしたヒトラーはさっと顔面を紅潮させた。 そして、彼は唇を引き結んだまま、くるりと回れ右をすると、足早に立ち去ってしまった。 これはヴィルヘルム・フォン・オペルにとっては予想外の出来事であった。 ヴィルヘルム・フォン・オペルはヒトラーが如何に自分の面子にこだわる人間であるかを知らなかったのである。 この無言劇は間接的にポルシェ博士にとって追い風となった。
ドイツ自動車工業連盟に参加していたオペル社の親会社はアメリカの「GM」だった。 ヴィルヘルム・フォン・オペルは、当時ヒトラーが構想した車を作りうる工場施設はアメリカ資本のオペル社とドイツ・フォード社にしかないことをよく心得ていた。 その為、ヴィルヘルム・フォン・オペルは自分の計画にヒトラーが快く応じるだろうと計算していた。 しかし、それはとんでもない誤算だった。 この件に関して、あるジャーナリストは次のように述べている。「オペル社では、かねてからポルシェ博士が“国民車”を作るというので、なんとかして出し抜いてやろうと考えていた。 これは親会社のGMの意向でもあった。 そのことで、GM副社長のムーニーがヴィルヘルム・フォン・オペルを激励にわざわざドイツまで来たくらいである。 オペル社は “オペル国民車” というのを試作して、密かにコストダウンを研究していたのだ。 1000マルク以下の小型車は、ポルシェ博士の天才をもってしても到底出来っこないことを知っていたので、少しでも安い車を作ってポルシェ博士の鼻をあかしてやろうと、密かに努力を続けていたのである」。
オペルの件で大いに自尊心を傷つけられたヒトラーは、既存のメーカーに頼ることなく、既存のメーカーと全く独立した組織で「国民車」を生産することを決心した。 ヴィルヘルム・フォン・オペルとの無言劇の数日後、ヒトラーはドイツ労働戦線の指導者であったロベルト・ライと検討を重ねた。 そして、1937年、「国民車」の生産計画はドイツ自動車工業連盟から離れ、ドイツ労働戦線直属の組織に移管され、国営の「フォルクスワーゲン社」が設立された。 1938年、ついに最終生産型試作車「VW38」が完成した。「VW38」は1938年に44台作られ、「VW3」「VW30」と同じく排気量985ccの空冷水平対向4気筒エンジンが搭載されていた。「VW38」の外観・内容は、どこから見ても、のちのVWビートルそのものであった。
第7章 「国民車」生産工場の建設
ヒトラーは世界一の生産工場を造れと命令した。 生産工場建設の全責任者はボド・ラフェレンツ博士であった。 生産工場の敷地としてニーダーザクセン州のミッテルラント運河近くの広大な荒地が選出され、生産台数80万台〜100万台を目標とする大工場が造られることになった。 最初の計画によれば、生産工場よりも、そこに一大産業都市を造ることに重点が置かれ、野心的で若い建築家ペーター・コラーが主任設計士として任命された。 彼が設計した産業都市は、300m道路・大アパート群・住宅街・ショッピングセンター・娯楽センター・公園・スタジアムを有する素晴らしい規模のものだった。 この都市は「KdFワーゲン市」(現在のヴォルフスブルク)と名付けられた。 なお、この時期、生産責任者に任命されたポルシェ博士は大量生産を研究する為に、アメリカに渡ってフォードの大量生産ノウハウを学んだ。 このとき、ポルシェ博士は小型フォードV8を購入し、ほかに大量生産用の何種類かの工作機械を買い求めた。 日本航空学会会長の佐貫亦男氏によれば、「この時期にヒトラーがフォードへ『ドイツ大鷲十字章』を贈ったのは、このときの助力に対する感謝であった」という。
1938年5月26日に「国民車」生産工場の起工式が行なわれ、ヒトラーはここでの演説で「国民車」を「KdF-Wagen」と命名した。 「KdF」(カー・デー・エフ)とは「喜びを通じて力を(Kraft durch Freude)」というドイツ労働戦線のスローガンの頭文字を取ったもので、その販売カタログにも「総統の意志により実現したKdF」という謳い文句が刷り込まれていた。
KdF-Wagen のテスト走行は一般に公表され、宣伝された。 特に、ホッホアルペン街道で行なわれたテスト走行は人々を驚かせた。 KdF-Wagen は高低差1232mもある13kmの道を21分54秒で走破し、このテスト結果を見たジャーナリスト達は「これよりもはるかに大きな車で走り、エンジントラブルがなかったとしても、この行程は25〜26分はかかる。 この強さは正に芸術品と言えよう」と絶賛した。
KdF-Wagen は両親と子供3人を想定した5人家族の為の車として一般大衆に広く宣伝された。 ドイツ国民は希望に胸を膨らませて、KdF-Wagen の販売カタログに見入った。 当時、この車の予約購入に33万人もの労働者が2億8000マルクを支払った。 この車の価格は990マルクで、毎週5マルクずつ払い込めば、4年後に車が手に入ることになっていた。
第8章 第二次世界大戦の勃発 軍用車の生産
1939年9月1日、ナチス・ドイツは戦争に突入し、ドイツ国民に手渡されるべき KdF-Wagen の生産は中止され、替わりに KdF-Wagen をベースとした軍用小型車が製造されることになった。 そのため、KdF-Wagen を購入するために積立金を支払った労働者に対して、納車はなかった。
KdF-Wagen 用に開発された空冷式エンジンは冷却用不凍液を使わない為、酷寒のロシア戦線や酷暑のアフリカ戦線でも、その威力を発揮した。 戦時中に生産された軍用小型車の台数は水陸両用車を含めて約7万台にも上った。
戦時中、「国民車」生産工場では1940年から1944年までの間に普通型の KdF-Wagen(タイプ60)が630台だけ生産された。 これらの車はナチスの幹部たちに愛用された。 結局のところ、戦前・戦中のドイツ国民は KdF-Wagen を一台も買うことが出来なかった。
第9章 重戦車「ティーガー」、並びに、超重戦車「マウス」の開発
戦時中のポルシェ博士は、もはや「国民車」の設計者というにとどまらなかった。 彼は兵器製造の指導者としてヒトラーを喜ばせた。 戦時中、ポルシェ博士は軍需大臣直属の「戦車製造委員会」の委員長に任命された。 ポルシェ博士は重戦車「ティーガー(ドイツ語で Tiger)」の設計をヘンシェル社と競作の形で行なった。 ポルシェ博士の設計は、ローナー社時代からお得意のハイブリッド駆動タイプだった。 しかし、この駆動方式は信頼性に問題があり、戦略資源の銅を大量に使用するという難点があり、ポルシェ博士の設計は採用されなかった。
試作された90台のポルシェ製「ティーガー」は自走砲に改装され、「フェルディナント」の名が付けられた。 この名称は設計者フェルディナント・ポルシェ博士の名前に由来するものだが、1944年には「エレファント(象)」と改称された。 この自走砲はエンジンで発電機を回して駆動用電気モーターを回すという特異な駆動装置を持っていた為、故障が多いという欠点があった。
「ティーガーII」の開発でも、ポルシェ・グループとヘンシェル社が競作し、ヘンシェル案が採用された。 この戦車は「ケーニヒス・ティーガー」とも言い、枢軸軍・連合軍の戦車の中で最強の重戦車であった。 最初の50輌にはポルシェの開発した曲線的なフォルムの砲塔が搭載されていた。
1941年初頭、ソ連で100トン級重戦車が開発されているという情報を得たドイツ軍はこれに対抗し得る超重戦車の開発を始めた。 ヒトラーは1942年3月、ポルシェ博士に対して超重戦車「マウス」の開発を命じた。 1943年12月にテスト走行を開始した「マウス」は、重量188トン、ダイムラー・ベンツ製のV型12気筒1080馬力エンジンを搭載し、最高時速は20kmで、127ミリの主砲と75ミリの副砲を備えていた。 その主砲の口径は当時の駆逐艦の主砲の口径と同じだった。「マウス」はとても大きく重いので、「マウス」が行動できる場所は限られていた。
軍需大臣アルベルト・シュペーアはポルシェ博士に対する不満を次のように述べた。「ヒトラーを喜ばせ、その意見が正しいことを証明しようとして、ポルシェ博士は重量100トンを超える超重戦車の設計を企てた。 この場合、わずかな台数を一台ずつ手造りするほかない。 秘密保持の立場から、この新しい怪物のコードネームを『マウス』と呼んだ。 いずれにせよ、ポルシェ博士は、重装甲であればあるほどよいというヒトラーの考えに加担したわけで、敵側でも同じような戦車の開発が行なわれているという報告を時折りヒトラーに提出していた」。 また、ドイツ機甲部隊の創始者ハインツ・グデーリアンは超重戦車「マウス」について「ヒトラーとその顧問の幻想から生まれた怪物」と述べた。
第10章 戦後の「国民車」
ナチス・ドイツは戦いに敗れた。 幾度か空爆され殆ど廃墟と化したKdFワーゲン市にアメリカ軍・イギリス軍が進駐してきた。 協定の結果、「国民車」生産工場のある地区はイギリス軍の占領地区となった。 イギリスのアイヴァン・ハースト陸軍少佐が「国民車」生産工場再開の任を帯びて、半ば無秩序状態にあった「国民車」生産工場を立て直し始めた。 イギリス占領軍によって市議会が召集され、町の恒久的な名前を、近くにある城の名前にちなんで「ヴォルフスブルク」と決定した。 また、ヒトラーが命名した「KdF-Wagen」という車名は「Volkswagen・Type1」に変更され、イギリス占領軍の技師と復帰した元工員たちによって小規模ながら、Volkswagen・Type1 の生産が開始された。 しばらくしてから、イギリスの自動車専門家の一団が「国民車」生産工場にやってきた。 この一団は何日も掛けて、Volkswagen・Type1 を乗り回し、あらゆる角度からつぶさに点検し、次のような結論を下した。「この車には技術的にも工業的にもイギリスの専門家が驚くべき点は何もない。 第一に、ボディのスタイルはむしろ醜く、世界の自動車ファンの前に出したら、1、2年で飽きられてしまうだろう。 リアエンジン方式も空冷式エンジンも、むしろ騒音を立てるだけでマイナスである」。 このように、イギリスの自動車専門家は Volkswagen・Type1 の将来性を高く評価しなかった。 その為、フォルクスワーゲン社はイギリスに吸収されずに済んだのだが、もし、イギリスに吸収されていたら、フォルクスワーゲン社の戦後の道は大きく変わっていただろう。
1946年3月には1000台目の、そして、同年10月には1万台目の Volkswagen・Type1 が完成した。 翌1947年には、56台のVolkswagen・Type1 が初めて海外に輸出された。 その輸出はオランダ向けから始まり、デンマーク・ルクセンブルク・ベルギー・スウェーデン・スイスにまで及び、1948年の輸出台数は4464台を数えた。 この数字は1948年の生産台数の23%に相当し、この年のVolkswagen・Type1 の年間生産台数はドイツ製乗用車生産の64%を占めた。
ドイツ敗戦から3年後の1948年、イギリス占領軍はフォルクスワーゲン工場の管理運営をドイツ人の手に戻し、ハインリッヒ・ノルトホフ博士をフォルクスワーゲン社の社長とした。 ノルトホフ博士は戦前にはBMWで航空機エンジンの設計に携わり、さらにオペル社とアメリカのGMで生産管理や販売に携わり、その能力の高さは既に知られていた。 彼はオペル社の人間としてポルシェ博士の「国民車」に激しい対抗意識を持っていた。 ノルトホフ博士が社長に就任した時、フォルクスワーゲン工場には山積みの問題があり、工場本体すらまだ骨組みだけの部分が多かった。 そこで、ノルトホフ社長はまず、Volkswagen・Type1 を念入りに点検した。 そして、この車がただものでないことに気づいた。 彼は技術者に命じて Volkswagen・Type1 を徹底的に分解し、2800種におよぶ部品を1つ1つ検査にかけた。 すり減った部品は取り替え、改良し、そして、再び組み立てると、その車で猛烈なロードテストを行なった。 そして、彼は天才ポルシェ博士の設計に頭を下げた。 ノルトホフ社長はまた、常に生産ラインや現場に出向き、現場の様子を知ることで改善すべき点を見つけ出し、生産効率を上げる方法を様々な角度から研究し尽くした。 さらに、彼は早くから輸出志向を持っており、輸出によって得た利益を新しい生産設備の導入に充てるなど、積極的な復興政策を推進させ、フォルクスワーゲン社の発展に大きく寄与した。
ノルトホフ社長はアメリカで Volkswagen・Type1 の販売を成功させようと考えていた。 1949年に2台の Volkswagen・Type1 がアメリカに輸出された。 ヒトラーの恐怖が記憶に生々しい人々の目に、この「ドイツの車」は幾分かの嫌悪を持って迎えられた。 デトロイトのボスたちも、かつてヴォルフスブルクにやってきたイギリスの自動車専門家たちのように「およそ問題にもならぬ車だ」と、一蹴した。 ノルトホフ社長は Volkswagen・Type1 をアメリカに輸出すると同時に、サービス網を全土に張りめぐらし、本社で訓練を受けた技術者を派遣した。 Volkswagen・Type1 のオーナーたちはどこへ行っても、そのサービスを受けることができ、どんな小さな部品をも即座に取り替えることができた。 1950年にはアメリカで157台の Volkswagen・Type1 が売れた。 1951年にはアメリカで390台が売れた。 1952年には601台、1953年には980台、1954年には6343台、1955年には2万8907台、1956年には実に5万457台がアメリカで売れた。 西ドイツ政府はホイス大統領の名でノルトホフ社長に「星十字大勲章」を贈った。 また、ヴォルフスブルク市は市会の決議でノルトホフ社長を同市の名誉市民に推薦した。 1949年から1958年の10年間に、23万1678人のアメリカ人が Volkswagen・Type1 を買った。 Volkswagen・Type1 の累計生産台数が100万台を突破したのは1955年で、以後、累計生産台数は1967年に1000万台を突破し、1972年にはアメリカの「T型フォード」が持っていた世界記録1500万7033台を突破し、1992年には2100万台を超えた。
ある自動車評論家は次のように述べている。「驚くべきことに、アメリカへの輸出が始まった1949年から1958年の10年間、フォルクスワーゲン社はアメリカで一行の広告もしていないのである。 日本の現状とだけ比較しても、これがかなり異常であることがおわかりであろう。 まして広告の王国アメリカにおいて、一片の広告もせず、これだけの『熱狂』をつくりだしたカブト虫は、妖怪そのものである。 『あの車はすごいぞ』という噂がどんどん広がり、人から人への『クチコミ』だけで、なじみの薄いフォルクスワーゲンは地道に浸透していったのである。 〈中略〉 1959年後半になって、フォルクスワーゲンの広告の第一弾が米誌『ライフ』に出るまで、ノルトホフ社長はどんな新聞にも雑誌にも広告しなかったのである。 『カブト虫』というニックネームは、最初は嘲笑のタネに使われ、次第に『親愛』の情を込めた言葉に変わっていったのである」。
1960年10月24日号の『ライフ誌』は次のように書いた。「フォルクスワーゲンは世界中どこへ行っても見られる車となった。 大都会の大通りだけでなく、小国の小路にもフォルクスワーゲンの姿が見られる。 その売り上げを追い越しているのは、フォードとシボレーだけである。 フォルクスワーゲンのデザインを見て、デトロイトの巨人たちはその信念を変えなければならなかった。 アメリカの自動車メーカーたちは、海外からやってきたこの小さいカブト虫に多年、軽蔑の念を抱いていた。 しかし、このカブト虫を打ち負かすことのできる小型で経済的な車を製造せざるを得なくなった。 彼らの作り出した “アメリカのコンパクトカー” は、アメリカのハイウェイに侵入してくる欧州車の一部を食い止めえたが、フォルクスワーゲンだけはダメだった。 この車は1年たった中古車でさえ、新車同様な価格でヤミ商人の手から買われている」。
Volkswagen・Type1 はアメリカを征したが、同時に世界を征しつつあった。 1962年に乗用車輸出の第1位となった西ドイツは第2位のイギリスに40万台の大差をつけた。 西ドイツが乗用車輸出のトップに立ったのは、言うまでもなく、フォルクスワーゲンの活躍に支えられてのものだった。 ある人は皮肉を込めて言う。「数々の悪行を重ねたヒトラーも、ただ1つだけ善行をやった。 それはフォルクスワーゲンを残したことだ」と。
第11章 ヒトラーと自動車レース 「Pワーゲン」の活躍
この章では、ポルシェ博士とヒトラーが深く関与した戦前の自動車レースについて紹介しておく。
イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニは早くから自動車レースの宣伝の重要性に注目し、1927年、北イタリアのブレシアを起点に、イタリア半島の北半分を舞台にした千マイルレースを企画し、1930年、イタリアの自動車レース活動の主役を務めていたアルファ・ロメオ社に国から資金を与え、1933年、アルファ・ロメオ社を完全に国営化した。 アルファ・ロメオ社は自動車レースの世界でイタリアそのものとなった。 ムッソリーニは「イタリアの為にレースに勝て!」という激励電報をチーム監督のエンツォ・フェラーリにたびたび打ったほどだった。 タツィオ・ヌヴォラーリ、アキレ・ヴァルツィ、ルイジ・ファジオーリといった名手をそろえたイタリアチームは少なくとも1930年代前半までヨーロッパの自動車レースを制覇し、イタリアの国威発揚に大いに貢献した。 速い車が大好きなヒトラーは自動車レースにおけるイタリア勢の優位を羨んでいた。
1932年、ドイツのホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKW、の4つの自動車メーカーが「アウトウニオン(自動車連合)」を形成した。 1933年にドイツの政権を握ったヒトラーは1934年から始まった750kgフォーミュラによるドイツGPレースに注目した。 ヒトラーはダイムラー・ベンツ社とアウトウニオン社に対して新規にレーシングカーを製造するよう打診し、ドイツの技術をフルに使った「最強の車」を造るよう命令した。 ドイツの自動車工業は、1933年にヒトラーが政権を握ると同時にドイツ政府に保護されることとなり、突如として、自動車レースまでもが奨励されることになった。
ダイムラー・ベンツ社は、W25型エンジンを搭載した「メルセデス・ベンツW25」を開発し、アウトウニオン社はポルシェ博士に「Pワーゲン」を開発させた。 この2つの車はレーシングカーとしては史上初の4輪独立懸架で、構造の面でも性能の面でもライバルのアルファ・ロメオを凌駕し、当時のレーシングカーの最高峰と見られていた。 ヒトラーはダイムラー・ベンツ社とアウトウニオン社のうち、より優れたレーシングカーを開発したほうに多額の報奨金の授与を約束したが、2社は報奨金を仲良く分け合った。 1934年以降、ドイツGPレースにおけるメルセデス・ベンツの活躍は事実上国策に基づいたものであった。
ドイツ製レーシングカーは年ごとに改良され、1936年には、メルセデス・ベンツの4740cc(494馬力)、Pワーゲンの6010cc(520馬力)と、そのエンジンパワーはアルファ・ロメオの3160cc(265馬力)を大幅に上回り、イタリア勢はドイツ勢と対等に戦うことは難しくなった。 1937年に登場したメルセデス・ベンツのレーシングカーは600馬力を超える出力のエンジンを持ち、最高速度は現代のF1と遜色ない時速340kmに達した。
ポルシェ博士が設計した「Pワーゲン」は戦前の自動車レース界にセンセーションを巻き起こしたレーシングカーである。 スーパーチャージャー付きV型16気筒エンジンを運転席の後ろに搭載する先進のレイアウトをもっていた。 このPワーゲンに盛られた多くの独創的なデザインは、以後のポルシェ自身の設計だけでなく、世界中の自動車設計者に多大な影響を与えた。 驚くべきことに、この車は現代のF1カーが持つ基本レイアウトをすでに1930年代の初頭に確立していた。 1938年、ポルシェ博士は、Pワーゲンの開発とそれまでの功績によって「ドイツ国家賞」を受賞し、同時に名誉教授の称号が贈られた。 PワーゲンのPはポルシェ博士の頭文字からきている。 Pワーゲンはハンス・シュトウックとベルント・ローゼマイヤーによって64レース中32レースを制覇し、世界記録を樹立した。 Pワーゲンの素晴らしさについて、ポルシェ博士の息子フェリーは次のように語っている。「我々の努力の結果、何年間も他の追随を許さないほど実に画期的な、しかも時代を先取りした、斬新な自動車が誕生することになった。 この車には独創的なアイデアが随所に見られたが、なんといっても、その圧巻はこれまでの“伝統”を根本的に打破したレース専用車だったことだ。 16気筒のスーパーチャージャー付きエンジン。 ユニークな方式のバルブ作動。 トーションビーム・サスペンション。 その他多くの特徴ゆえに、多数の著者がいろいろな角度から研究したにもかかわらず、今なお、この車は名車としての話題がつきない。 一口でその名車ぶりを紹介するならば、ボディを小型に簡潔にまとめ、全体のシルエットを見事な流線型にし、巨大なパワーを産出するエンジンを搭載しているということになろうか。 当時としてはもちろん、未曾有の車種だったし、それ以後も何十年にわたって他の追従を許さなかった」。
アルファ・ロメオはイタリアの面子を保つ為に、レーシングカーの改良に努めたが、どう工夫しても360馬力ぐらいしか出せず、最高時速300kmを超えるドイツ勢に屈するほかなかった。 しかし、ヨーロッパの自動車レースを制覇したドイツのレーシングチームの活躍は、1939年9月1日の第二次世界大戦の勃発と同時にほぼ完全に停止した(1940年のイタリアの参戦までは、わずかながらレースは行なわれた)。 ヒトラー自身は一度もレース場に姿を見せなかったが、1937年7月26日に一度だけその年のドイツGPレースの勝者をバイロイトに招いたことがあった。
1939年、ポルシェ博士は KdF-Wagen を基に小型スポーツ・クーペを開発した。 それは「タイプ64」である。 この車はチューンアップされたエンジンを搭載し、そのボディはアルミ製で、その最高速度は180キロを超えた。 このスポーツクーペは3台製作された。 このスポーツクーペはドイツ労働戦線の発注によるもので、ベルリン・ローマ間の長距離レースに参加し、KdF-Wagen の高性能を大いに宣伝する予定であった。 しかし、この長距離レースは第二次世界大戦の影響で中止された。
ポルシェ博士はダイムラー・ベンツ社の為に巨大な6輪車「T80」を設計した。 この「T80」の使用目的は、地上最高速度の世界新記録樹立を狙ったものであった。 この「T80」は44リッター(3000馬力)の航空機用エンジンを搭載し、6個の車輪を付け、時速650kmが出るように設計されていた。 しかし、「T80」開発計画は第二次世界大戦の影響で中止された。
第12章 戦後のポルシェ博士 「ポルシェ社」の誕生
フェルディナント・ポルシェ博士(1875〜1951年)は戦車の設計でもナチスに協力した為、戦後、戦争犯罪人に近い扱いを受けて、フランスの収容所に2年間幽閉された。 既に70歳を超えていたポルシェ博士は軟禁生活で衰え、1947年に100万フランの保釈金を払って、ようやく保釈されたときには、半ば病人の状態であった。 ポルシェ博士はやや短気な性格だったが、親しみやすく、誰でも気楽に話しかけられる、実に話し好きの人間だったという。 また、ポルシェ博士は根っからの技術屋で政治には全く興味を持たなかったという。
1947年、ポルシェ博士は息子フェリーと共に「ポルシェ社」を創設し、1930年に設立されたポルシェ設計事務所は自動車メーカーに生まれ変わった。 ポルシェ社はポルシェ博士の息子フェリー・ポルシェが中心となって、現代のポルシェ車の起源とも言うべき「ポルシェ356」を開発した。 ポルシェ356の試作車は1948年に造られ、Volkswagen・Type1 用エンジンを改良した空冷水平対向4気筒エンジン(1100cc)を搭載した市販型が1950年から生産された。 ポルシェ356はフェリー・ポルシェの予想を遥かに超えるヒット商品となり、発売直後からアメリカへの輸出も開始され、今でも高い人気を誇っている。 ポルシェ356は1965年まで17年間に渡って造り続けられ、約7万台が生産された。 ポルシェ356の成功で規模を拡大したポルシェ社は1963年にポルシェ356の後継車種となる「ポルシェ911」を発売した。
1948年秋、フェリー・ポルシェとVW社のノルトホフ社長の間で極めて重要な契約が取り交わされた。 それは、@ ポルシェ社は今後VW社と競合する車種を他メーカーの為に設計することが出来ない、 A VW社はポルシェ社の保有する特許を自由に使うことができ、生産したVW車1台につき一定額の特許使用料をポルシェ社に支払う、 B ポルシェ社はVW社の部品を自由に使ってスポーツカーを製作でき、VW社のサービス網を利用できる、というものであった。 この契約によって、誕生間もないポルシェ社が安定した収入源を得られ、且つ、ヨーロッパ全土に張り巡らされたVWサービス網を利用できたことは実に幸運であった。 (この契約は1974年まで効力をもった)。
1950年9月3日はポルシェ博士の75回目の誕生日であった。 シュツットガルトの自宅で盛大なパーティーが開かれ、沢山のポルシェオーナーたちが参集した。 同じ年の10月、ポルシェ博士はパリ自動車ショーに出かけ、ル・マン24時間レースの主催者チャールズ・ファローと面会した。 チャールズ・ファローはポルシェ博士に次のように言った。「あなたの名前のついた例のすごい奴、ポルシェ356を来年の『ル・マン24時間レース』に出してみないかね」。 ポルシェ博士は笑って答えた。「あのような苛酷な試練に耐えることができるかどうか、まだ自信がないんでね。 でも、なんとか考えてみますよ」。 チャールズ・ファローはここぞとばかり強調して言った。「それにだよ、すごい宣伝になるんじゃないかね。 それだけでも試す価値があると思うがね」。 このとき、ポルシェ博士はちょっと考え込んだようだったが、「ようし、やってみましょう」と参戦を約束し、帰国後、息子フェリー・ポルシェと一緒に準備を始めた。 翌11月、ポルシェ父子はフォルクスワーゲンの街ヴォルフスブルクに旅した。 ポルシェ博士は、沢山の「国民車」が走り回っているのを見て、驚きと感激の涙を流したという。 ポルシェ博士はVW社長ノルトホフの努力によって復興を遂げつつあったフォルクスワーゲン工場と車の出来栄えを見て、大満足で帰路についた。 しかし、シュツットガルトに帰り着いた日の翌日の夜、突然激しい脳卒中の発作に襲われ、重体になってしまった。 彼の半身付随の身は再び回復することはなく、彼はベッドに伏したままとなった。「車だって部品を交換すれば、故障は治る。 なぜ医者はわしを治せないのだ」と老博士は悲しみを訴えたと伝えられている。 その言葉の裏には、フランスでの獄中生活中の耐え難い屈辱に対する精神的苦痛がうかがわれ、その苦しみが発作として現れた感じがすると、息子フェリーは語った。 その年のクリスマスを家族と共に過ごしたポルシェ博士は翌1951年1月、病状が悪化し、1月30日に帰らぬ人となった。 彼の遺体は300年も前に造られた古い礼拝堂の中に葬られた。 ポルシェ博士が亡くなってから5ヶ月後、フランスのル・マン24時間レースで、ポルシェ356が1100ccクラスで優勝を遂げた。 ゴールの瞬間、ポルシェ博士の息子フェリーは大粒の涙を流した。「父がもう少し生きながらえていれば、我々のこの最初のイベントでの大成功を知りえたのにと思うと、涙をどうすることもできなかった。 父は必ず『よくやった』と言ったはずだから」と、彼は述懐した。
おまけ情報
ヒトラーとポルシェ博士との関係については、1988年に出版された『ポルシェ博士とヒトラー ハプスブルク家の遺産』(グランプリ出版)という本の中で詳しく紹介されている。 この本の著者である折口透氏(モータージャーナリスト、『モーター・マガジン』元編集長)は、ヒトラーの「国民車」製造計画について次のように述べている。
ヒトラーは20世紀の歴史の中でユニークな地位をしめる人物である。 いや、世界史を通じてもヒトラーほど特異な存在はまたとないと言ってよい。 ヒトラーは、スターリンが既存の政治組織を自分の政治勢力の背景にしたのと同じ様なことはせず、自分の意志の力で、言わば、独力でナチ党を作り上げ、自分を独裁者の地位に押し上げた。 ヒトラーは1933年1月に政権を掌握し、ナチ党の一党独裁を成し遂げた。 しかも、ヒトラーの政権掌握は、彼がミュンヘン一揆の罪で刑務所に収監され釈放されてから僅か10年後のことであり、更に、その12年後に彼は自ら命を絶った。 彼の決意と意志がナチス・ドイツの繁栄を可能にし、且つ、ドイツを破滅の運命に押しやったのである。
ポルシェ博士がヒトラーの独裁者としての強大な権力を意識したかどうかは疑わしい。 人々はヒトラーにうやうやしく “マイン・フューラー”(総統閣下)と呼びかけた。 だが、ポルシェ博士だけは、そのような配慮はどこ吹く風と、1925年に初めて紹介された時と同じく、“ヘル・ヒトラー”(ヒトラーさん)と話しかけた。 それはおそらく最後まで変わらなかったらしい。 ヒトラーの怒りっぽい気性に手を焼いていた側近たちはハラハラしていたが、ヒトラーは一向に気にかけなかった。 ヒトラーは “芸術家” を志し、そして、みじめに失敗した。 だから、ヒトラーはポルシェ博士のそうした “ボヘミアン” の態度に寛容さを示すことができたのだろう。 また、ポルシェ博士が政治的に全く無色透明な人物であることをヒトラーがよくわきまえていたからでもあろう。
ところで、『ヒトラーの遺産』という言葉がある。 冒険小説あたりの格好なテーマとしてとり上げられる、この遺産なるものの中にはかなり怪しげなものもあるが、2つだけはその名に値するものがある。 それがアウトバーンとフォルクスワーゲンである。 ただし、アウトバーンの立案者はヒトラーではない。 ただ、ヒトラーは経済活動の活性化・失業救済と更には機械化兵団の迅速な展開の為に、経済恐慌の影響で中止となっていたワイマール時代(1919年〜1933年)のアウトバーン計画の再開を1933年にフリッツ・トート博士に命じて強力に推進した。 そして、『フォルクスワーゲン計画』こそは、ヒトラーの最大にして、彼が最も気に入っていた国家的事業だった。 ヒトラー自身、自動車が大好きであったし、何よりも国民大衆に与える夢としての自動車は独裁者にとって不可欠であった。 ヒトラーはその計画の実現に、またとない適任者であるポルシェ博士を得ることができた。 同じオーストリア=ハンガリー帝国生まれのヒトラーとポルシェ博士がこの計画の立役者になったことは興味深い。 フォルクスワーゲンは、ヒトラーが予言したように、第二次世界大戦後のヨーロッパにおいて陸上交通の主役の一つとなった。 更に、戦後の大衆車は、フォルクスワーゲンに倣った「リアエンジンタイプ」を定石として採用した。 フランスのルノー4CV(これは日本でも組み立てられた)、イタリアのフィアット600、そして日本のスバル360もその流れを汲むものである。 ヒトラーが年間100万台の生産を予想したとき、周囲の人々は眉につばをつけたことだろうが、敗戦から11年後の1956年、フォルクスワーゲンは遂にそのレベルを突破し、109万台の生産台数となった。 フォルクスワーゲンは西ドイツの経済の牽引車として “奇跡の経済復興” を実現したのである。