ニーチェの妹がパラグアイに建設した「新ゲルマニア」

原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc400.html

1933年1月30日、ナチス政権が合法的に成立した。 その年の秋、ヒトラーはワイマールの「ニーチェ資料館」を訪れ、フリードリッヒ・ニーチェの妹で87歳のエリーザベト・ニーチェと会談した。 この時、彼女はヒトラーの「すばらしい、まさしく非凡な人格」について歓喜して語った。 兄も必ずや自分と同じ意見でしょうと、老婦人エリーザベト・ニーチェは語った。 ヒトラーとエリーザベト・ニーチェとの関係に関しては、イギリス人ジャーナリストのベン・マッキンタイアーが書いた『エリーザベト・ニーチェ  ニーチェをナチに売り渡した女』(白水社)が詳しいが、この本には南アメリカに関して興味深いことが書かれている。 ベン・マッキンタイアーによれば、エリーザベト・ニーチェは1886年にドイツ人の集団を率いて南アメリカのパラグアイに純粋ゲルマン人の新しき村「新ゲルマニア」を作った。 エリーザベト・ニーチェはパラグアイから帰国後、兄の著作を改竄し、ナチスの思想的バックボーンとなるニーチェ神話を作り上げたという。

この本の中で、ベン・マッキンタイアーは次のように述べている。「1886年2月25日、ニーチェの妹エリーザベト率いるゲルマン人開拓団一行はハンブルクで蒸気船ウルグアイ号に乗り込み、南アメリカ・パラグアイの真ん中に入植した。 彼らは自分たちの植民地を『新ゲルマニア』と呼んだ。 この『新ゲルマニア』はパラグアイの首都アスンシオンから北150マイルほどのところにあり、2つの川に挟まれている。 土地の人々から『カンポ・カサッシア』と呼ばれていたその地域は、戦争の所為でほとんど無人地帯になっていた。 エリーザベト・ニーチェは『新ゲルマニア』に『フェルスターホーフ』と名付けた大きな家を建てた。 植民地で一番豪華な家だった。 最初の2年間で40家族が『新ゲルマニア』へ向けて旅立った。 そのうちの4分の1は1888年7月までに断念し、100の分譲地のうち70が売れ残った」。

この「新ゲルマニア」とナチスとの関係について、ベン・マッキンタイアーは次のように書いている。「故国を離れた膨大な数のドイツ人を国家社会主義の信奉者にすることはナチス思想の中心的な信条だった。 ドイツ国外での最初のナチ党はパラグアイに設立され(1932年)、半世紀前にエリーザベト・ニーチェの夫が自ら命を絶った『ホテル・デル・ラーゴ』がナチスの主要な集会場所になった。 ナチ党員たちはドイツ国内にも負けないほど精力的に、そして、ドイツ大使館の公然たる後押しのもとに、支持者を求めて南アメリカ各地を回った。 パラグアイの首都アスンシオンにいたドイツ人牧師カルロス・リッヒェルトは、ベルリンの福音派教会の指示により、ナチスの宣伝に努めながらパラグアイ国内を巡回した。 彼が『新ゲルマニア』に現れ、持ってきた映写機でナチスの宣伝フィルムを見せたとき、植民者たちは、初めはびっくりし、やがて熱狂した。 エリーザベト・ニーチェは、ナチスの主義主張が植民者たちに十分に受け入れられたことを知り、喜んだ。 『いつか彼らはみな国家社会主義者になるだろう。 我らが素晴らしいアドルフ・ヒトラー総統は正に天からの有り難い贈り物であり、ドイツ人はどんなに感謝しても足りないくらいなのだ』と彼女は書いている」。

1991年3月、ベン・マッキンタイアーは「新ゲルマニア」を訪問した。 彼はこの時の様子を次のように書いている。「村の入り口に大きな家があった。 外にラバと荷車が留めてある。 赤と黄のペンキで大きく念入りに書かれた看板は英語で『ジャーマニー・ポップ・ディスコテク』とあった。  〈中略〉  エリーザベト・ニーチェの人種実験の子孫たちは親切だが、よそよそしく、一風変わった人たちだ。 初めはためらいを見せるが、大抵の場合は、警戒しつつも受け入れてくれた。 もっとも、私がたくさん質問すると、口を閉ざして緊張の様子を見せる人もいた」。

現在、ここのドイツ人共同体を脅かしているのは、山賊ではなく、彼らの理想がもたらした思いがけない“生物学的遺産”であるという。「新ゲルマニア」の医師シューベルト博士は次のように語ったそうだ。「近親交配が繰り返され、事態はどんどん悪くなっている。 子供の死亡率が上昇しつつある。 精神的・肉体的に問題のある人々がかなりいて、明らかに遺伝的な障害も見られる。 牧師は今では親類同士の結婚を拒否しているが、ここのドイツ人の家族はすでに生物学的に余りにも複雑に絡み合っており、誰と誰とが親類なのか分からなくなっている。 遺伝的な障害は一番若い世代の子供たちに最も顕著に現れている。 よだれを垂らしている締まりのない顎、生気のない目。 明らかに知能の遅れた子もいるが、大多数はのろまなだけだ。 いとこ同士が結婚し、ひと握りの年老いた“純粋な”ドイツ人家族が先細りの遺伝的財産にすがって生きていく限り、遺伝の歯車は磨り減っていく」。

「新ゲルマニア」の取材を終えたベン・マッキンタイアーは、自著の最後で次のような感想を書いている。「これがエリーザベト・ニーチェの純粋ゲルマン人植民地の目的だったのだろうか。 世代を重ねる度に益々ブロンドと青い目が際立つようになっていくが、同時に退化もしていく一族。 最初の入植者が到来してから4、5世代のうちに、各家族は近親結婚を繰り返した為、みんなそっくりになった。 それは恐らく、創設者たちの多くがドイツの同じ地方からやってきていた事と環境と栄養の影響であろう。 背が高く、頬骨が高く、目が青く、髪が金色といった型が優勢になっているようだった。 最初の移住者の大部分がもってきたザクセン地方なまりがドイツの他の地方のなまりを飲み込んでしまったように。 新ゲルマニアの年配の人々は今も隣人のパラグアイ人を見下さなければ生きていくことが出来ないと感じているようだった。 ここの若い人たちにとっては、人種的複合感情を克服するのは容易なことであり、彼らはパラグアイ人とも簡単に交わった。 住民の一人であるシューベルト博士は言った、『古い世代には気に入らないことですが、ホルヘ・ハルケをごらんなさい。 彼こそ未来です』。 ホルヘ・ハルケは25歳くらいの背が高くて有能な青年で、ドイツ人とパラグアイ人との間に生まれ、青い目と褐色の肌をしている。 私はホルヘ・ハルケに尋ねてみた。 『どの人種が一番好きかね。 ドイツ人、スペイン人、それともインディアンかい。』 『忘れちゃったよ、そんなこと。』 彼は笑いながら、そう言って、グアビラフルーツの皮をむき始めた」。