ナチス・ドイツの優生政策
第1章 ドイツ優生学の成立
1883年、イギリスの科学者フランシス・ゴルトンが「優生学(eugenics)」という言葉を作り出した。 優生学とは、劣等な子孫の誕生を抑制し優等な子孫の誕生を促進することにより、国家全体あるいは民族全体の健康を図ろうとする学問である。 それゆえ、優生学は「民族衛生学」とも呼ばれる。 1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツ博士が『民族衛生学の基本指針』を出版し、ここで「民族衛生学」という言葉が初めて用いられた。 この著書はドイツ優生学の出発点となった。
1905年、ドイツに世界最初の優生学会「民族衛生学協会」が作られた。 イギリスやアメリカにも同様の優生学会が相次いで作られた。 この民族衛生学について、お茶の水女子大学教授の山本秀行氏は、著書『ナチズムの時代』(山川出版社)の中で次のように述べている。「アーリア(ゲルマン)人の優秀さなどを主張する人種主義は今では非科学的にみえる。 しかし、当時、人種と遺伝学と医学との結びつきは新鮮なものであった。 ドイツ版の優生学である『民族衛生学』の講座は、1923年にミュンヘン大学で開設されたばかりの最先端の科学であった。 生殖や生命を社会的にコントロールし、社会問題を生物学的・医学的に解決しようとする考え方は多くの知識人や若い学生たちを引き付けたのである。 〈中略〉 この時代は科学主義の時代であった。 科学が人々を説得する有力な武器となったのである。 ユダヤ人についての伝統的な偏見も、この時代には生物学や人類学などの科学と結びつき、人種的な要素が前面に出てきた」。
1927年9月、「ドイツのオックスフォード」と呼ばれたベルリン・ダーレム地区に「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」が設立された。 研究所長は1942年までオイゲン・フィッシャー博士であった。 彼は1908年にドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)で、ブーア人(南アフリカに移住したオランダ系白人とその子孫)とホッテントットとの混血であるレーオボートと呼ばれる種族を調査した。 1913年の彼の研究報告書の最後の章には『混血の政治的意味』というタイトルの下に次のように書かれていた。「私たちは人種の混血についてまだ余り多くを知らないが、はっきり分かっているのは次の点である。 劣等人種の血を受け入れたヨーロッパ民族は──黒人やホッテントットなどは劣等人種であり、このことを否定するのは空想家だけである──この劣等要素を受け入れたことによって精神的・文化的衰退をこうむったということである。 こういう劣等人種には保護を与えてはならない。 せいぜい彼らが我々の役に立つ間、与えられていいだけだ。 さもないと、ここで没落が始まるからだ」。
カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所は設立当初、3部門に分かれ、のちには4部門に分かれ、初めから研究成果の政治的転換を意図していた。
◎人類学部門……オイゲン・フィッシャー博士(初代所長)
◎人類遺伝学部門……オトマール・フォン・フェアシュアー博士(2代目所長)
◎優生学部門……ムッカーマン博士、レンツ博士
◎実験遺伝病理学部門……ナハッハイム博士
第2章 ナチス政権が行なった「強制断種政策」と「障害者安楽死政策」
欧米では1920年代後半から、劣等な子孫の誕生を抑制し優等な子孫の誕生を促進することにより、国家全体あるいは民族全体の健康を図ろうとする思想(優生思想)が支配的となってきた。 こうした思想背景の中で、1933年7月、ナチス政権下のドイツにおいて、先天性精神薄弱者、精神分裂病患者、躁鬱病患者、遺伝性てんかん患者、遺伝性舞踏病患者、遺伝性全盲者、遺伝性聾唖者、重度の遺伝性身体奇形者、重度のアルコール依存症患者に対する強制断種を可能とする法律(断種法)が制定された。 この法律に従って、地域の医師や精神疾患施設の責任者は、断種法の適用候補者をリストアップして当局に提出した。 これに基づいて「遺伝衛生判定所」が候補者を断種するかどうかを決定した。 もし、断種が決定されれば、本人の同意が無くても強制的に断種された。 この法律により強制断種された人の総数は20万人〜35万人と言われている。 念の為に述べておくと、 当時、強制断種政策を実施していた国はドイツだけではない。 当時の欧米諸国、例えば、アメリカ、カナダ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、エストニア、アイスランド、スイス、オーストラリアでは強制断種が行なわれていた。 日本でも1940年(昭和15年)に遺伝性精神病などの断種手術などを定めた「国民優生法」が制定された。
ナチスが学校教育で用いた図「劣等分子の重荷」
この図には次のように書かれている。 「遺伝病患者は国家に1日あたり5.50マルクの負担をかけている。 5.50マルクあれば遺伝的に健康な家族が1日暮らすことができる」と。
第一次世界大戦後のドイツは大不況の中にあった。 当時のドイツでは、精神障害者や身体障害者は、ヒトラーの主張する「優等民族であるアーリア(ゲルマン)民族」をけがす存在であり、「穀潰し」「お荷物」であるとするナチスの宣伝が行き渡り、こうした宣伝はかなり広くドイツ国民に受容されていた。 こうした状況の中で、ナチス政権はポーランド侵攻の開始とほぼ同じ時期に、障害者を安楽死させる政策に取り掛かり、障害者を安楽死させる為の『帝国委員会』を設置した。 ヒトラーはこの委員会の責任者を総統官房長官フィリップ・ボウラーとナチス親衛隊軍医カール・ブラント博士の2人とした。 この2人を中心として、障害者の運命を決める鑑定の細目の作成など、障害者を安楽死させる為の計画が練り上げられていった。 ベルリンのティアガルデン4番地の個人邸宅が接収されて、そこに安楽死作戦本部が置かれた。 このことから、この計画は「T4作戦」と呼ばれるようになった。 この邸宅の持ち主であったユダヤ人は一文の補償金もなく追い出された。 T4作戦本部では少なくとも60人の専任鑑定医師と300人のスタッフが働いていた。 ハダマーなど6ヶ所の精神病院に一酸化炭素ガスを使う安楽死施設(ガス室)が設けられ、1939年から1941年8月までに7万人の障害者が「生きるに値しない命」として、一酸化炭素ガスで殺された。 障害者のガス殺は極秘に行なわれたが、精神病院から立ち昇る死体焼却の煙などにより世間に広く知られるところとなり、ナチス政権はキリスト教会などから激しい非難を浴びた。 そこで、ナチス政権は1941年8月にT4作戦中止の命令を出した。
ナチスが作った宣伝用ポスター
椅子に腰かけた脳性マヒと思われる男性障害者の後ろに、健康でハンサムなドイツ青年が立ち、かばうように障害者の肩に手を置いている。 そして、「この立派な人間が、こんな、我々の社会を脅かす病んだ人間の世話に専念している。 我々はこの図を恥ずべきではないのか」という説明文が付けられている。 ナチス・ドイツでは遺伝性疾患を持つ人が如何に「民族共同体」に負担をかけているか、彼らが如何に意味も無く国民の大事なお金を使う存在であるかが強調された。
T4作戦本部は幾つかの特別重点部門を組織した。 その一つが「公共患者輸送会社」だった。 この部門の責任者であるラインホルト・フォアベルクは、郵政省からバスを借り受け、それを灰色に塗り直し、そのバスを使って各地の精神病院の障害者を安楽死施設に移送した。
『灰色のバスがやってきた』(草思社)を書いたジャーナリストのフランツ・ルツィウスによれば、T4作戦中止の命令が出された1941年8月以降も、障害者は殺され続けていた。 T4作戦の公式中止後も、幾つかの精神病院では障害者の殺害が行なわれていたが、その主たる殺害方法は薬殺(毒薬投与)や飢餓殺であり、こうした方法で障害者の殺害が1945年の終戦時まで行なわれた。 そして、ニュルンベルク裁判の検察側による推定では、T4作戦での殺害数7万人を含めて合計27万5千人の障害者が殺されたとされる。
当時、ドイツの医者の半分近くはナチ党員だった。 これほどナチ党員の割合の高い職業は他になかった。 T4作戦には著名な医学教授や医者が参加していた。 ドイツの医学界は上も下も安楽死計画に対して語るに値する反対を行なわなかった。 一般市民から、障害者の殺害に抗議する手紙や嘆願書が多くあった中で、ゴットフリード・エヴァルト教授からの手紙を唯一の例外として、精神病医からの抗議は無かった。
1988年、ペンシルベニア大学のロバート・プロクター教授は、ナチスの医学犯罪の実態を描いた本『人種衛生〈ナチスの医学〉』を出版した。 彼はこの本の中で、最も野蛮な保健措置の多くが医者の発案によるものであったこと、その医者たちは無理やりナチスに協力させられたのではないこと、医者たちはヒトラーに利用されたのではなく、むしろ率先して事に当たっていたことを指摘している。 また、アメリカのロバート・リフトン医学博士も次のように述べている。「ナチスの精神医学者は医学的理想主義を追求した。 その姿勢は真摯とも言えた。 ナチス・ドイツの強制断種手術の基となる理論を唱えたのは、エルンスト・リュディンという有名な精神医学者だった。 悪い遺伝子を取り除く強制断種手術は精神病を根絶するという夢の成就に一役買ってくれるとリュディンは信じていた。 一方、精神病患者を殺すための理論的根拠は、1920年、ドイツの著名な精神医学者アルフレッド・ホッヘと著名な法律家カール・ビルディングとによって書かれたプレ・ナチ的な本の中で示された。 それによれば、精神医学的見地から“生きるに値しない命”と判断された人々は、これを殺害してもよいという。 〈中略〉 私がインタビューしたあるナチスの医師によれば、ナチスのプロジェクト全体が『応用生物学に他ならない』とみなされ、広い意味で生物学的真理を追究するものとされたのだ」。
第3章 レーベンスボルン(生命の泉)
アーリア人(ゲルマン人)の人種的特徴(金髪・青い目・長身)を持つナチス親衛隊員と、同じくアーリア人(ゲルマン人)の人種的特徴(金髪・青い目・長身)を持つ女性とを結びつけ、できるだけ多くの子供を生ませ、それを将来のエリートとすることを目的として作られた「交配牧場」なるものがあった。 それは「レーベンスボルン(生命の泉)」と言われていたものである。「レーベンスボルン」は1936年に試験的に創立され、1938年にナチス親衛隊の一部署として正式に裁判所に登録され、ナチス親衛隊の長官ヒムラーに直属するものになり、1万人の会員を擁するまでになった。 ナチス親衛隊の将校はドイツ国民の模範として、24歳までに純血アーリア人女性と結婚し、少なくとも4人の子供をもうける義務を持ち、それがうまくいかない場合はレーベンスボルンから養子を迎えるべきであるとされた。 レーベンスボルンは寄付で運営されることになっており、独身のナチス親衛隊将校は必ず寄付をしなければならなかった。 レーベンスボルンでは、女性は子供を孕むと、出産するまで手厚い保護を受け、子供は生まれると同時に母親から引き離され、「子供の家」に送られ、国家により養育された。 両親の最良の遺伝子を受け継ぐ子供たちは、7歳になると、レーベンスボルンと緊密に協力する国民学校に入学した。 1944年になると、レーベンスボルンの産院は13ヶ所に増えた。 レーベンスボルンで生産された子供たちは4万人と推定されている。 その子供たちの大部分は私生児であった。 なお、レーベンスボルンには専用の戸籍登録所があり、私生児を出産する場合でも秘密が守られたという。
ナチス親衛隊の長官ヒムラーは、ナチス親衛隊員の結婚について「できるだけ早く結婚して多くの子をつくるべきであり、数が増えれば育種失敗作も増えるであろうが、人数が少ないよりは良い」と述べていた。 彼は出産を奨励するために「母親十字章」を制定した。 4人の子供を出産すると銅章、6人の出産で銀章、8人の出産で金章が授与された。 金章受章者は自由にヒトラーに面会できたという。
ナチス親衛隊の長官ヒムラーは東部進出への熱意がヒトラーに認められて、1939年にドイツ民族強化全国委員に任命された。 これを受けて「ドイツ民族強化全国委員本部」と「海外同胞福祉本部」が設立された。 これらの機関は「ナチス親衛隊人種移住本部」と連携して植民活動に当たった。 具体的には、「ナチス親衛隊人種移住本部」が東部植民に関する人種的・遺伝学的調査を担当し、「ドイツ民族強化全国委員本部」が植民者の配置・募集を、「海外同胞福祉本部」が交通・運輸を担当した。「ドイツ国内ではレーベンスボルンを運営し、国外では植民を推進し、人種的エリートであるナチス親衛隊を中心にして、ヨーロッパ全体を支配する」というのがヒムラーの目指すところであった。
子供を組織的に生産することには多くの時間が掛かるので、ナチス幹部たちはもどかしさを感じていた。 その為、ナチス親衛隊の長官ヒムラーはもっと手っ取り早い方法を考えるようになった。 ヒムラーは1940年5月に東方の子供たちの選別計画を立て、それに基づいて、占領地区でアーリア的な子供を探して誘拐することを1941年の後半に始めた。 その初めがルーマニア・バナトゥ地方の25人の子供たちで、この子供たちは「人種的ドイツ人移住センター」を経由し、ドイツのランゲンツェル城に連れて来られ、着いてすぐ詳しい身体検査をされ、その後、優秀と見なされた子供(レーベンスボルンが引き受ける子供)と、労働に回される子供(レーベンスボルンが引き受けない子供)とに分けられた。 戦争中、ドイツに占領されたポーランド西部の町々ではナチスにより2歳から14歳までの少年少女が大勢さらわれた。 その数は20万人強と言われている。 その子供たちに共通の特徴は金髪で青い目であったことである。 彼らは名前をドイツ名に変えられ、修正された出生証明書と共に、選ばれた家族の元に送られた。 さらわれた子供の多くは本来の家族の元に帰されることはなく、彼らは自らがポーランド人であることも知らなかった。 その為、戦後になると両親とも不明の孤児が多数出現するという悲惨な事態になった。
このような悲劇を体験した1人に、ポーランド生まれのアロイズィ・トヴァルデツキがいる。 彼はポーランドに帰国したあと、ワルシャワ大学を卒業し、大学の助手や通訳などを経て、現在、会社社長である。 彼が自らの体験を記した本『ぼくはナチにさらわれた』によれば、彼はポーランドで4歳の時にナチスにさらわれ、ドイツの孤児院を経て、子供のいないドイツ人の家庭に養子にもらわれたという。 そして、そこでドイツ人として育てられ、ナチス礼賛の少年として成長したという。 しかし、戦後11歳になった時に、自分がポーランド人のさらわれてきた子供だったと知り、大きなショックを受けたという。 彼はその当時の気持ちを次のように記している。「『僕がドイツ人じゃない。 ドイツ人じゃないだって。 僕はポラッケ(ポーランド人の蔑称)だっていうのか。 馬鹿馬鹿しい。 ふざけた話だ。 あり得ないじゃないか、僕がポーランド人だなんて、はっはっはっ』。 〈中略〉 私はポーランド人を他のどんな民族よりも下等なものと考えていました。 第一、我が英雄的な兵士たち(ドイツ軍人)によって、彼らはたちどころに叩きのめされた負け犬です。 〈中略〉 とにかく、この忘れがたい瞬間を私は深い衝撃で受け止め、言いようのない嫌悪を感じながら、その一方でなぜか、この写真の女性(実の母親)の顔に引き付けられ、心臓が苦しいように打つのでした」。
この本を翻訳した足達和子さんは、レーベンスボルンの実態について次のように記している。「レーベンスボルンの会員になれるのは、男は親衛隊員などの高級将校、女はアーリア人としての特徴が祖父母の代まで認められた遺伝的資質の優れた者で、のちに枠が拡げられ、ドイツ人でなくてもナチの基準に合えば入れるようになります。 大切なのは目の色、髪の毛の色、そして、ことに頭の形で、例えば丸い頭の者は全くチャンスがないのでした。 〈中略〉 レーベンスボルンで生まれた子供たちはエリートになるはず。 国の将来を担う人に育つ予定でした。 二親の最も優れた遺伝子を受け継ぎ、生まれたときにすでにスーパー人種であるはずです。 実際にそうなったでしょうか。 戦後の調査では驚いたことに、そのほとんどに知能や体力の点で後退が見られる。 3歳でまだ歩けない子、まだしゃべれない子、かなりの損傷を持った子供もいるのでした。 ドイツがたとえ戦争に勝っていたとしても、この、子供の『生産』ないしは『飼育』は間もなく中止されたことでしょう。 ナチの目論見(もくろみ)がこんなに外れるのでは、子供たちを結局どこかの『収容所』で抹殺しなくてはならなくなるのです。 母胎はこの上なく異常な状況に置かれました。 そして、出生後も“ヒトラーの子供たち”は『愛』のない養育を受けたのです。 一方、さらってきた子供たちはどうだったでしょうか。 小さいとき青い目で金髪で典型的な北欧タイプの顔立ちをしていた子供たちでも、その後、全然違うタイプの顔になり、目や髪の毛の色も濃くなった人が随分います。 また、幼いときドイツ語に無理矢理変えられ、そのために思考に困難を生ずることがありました。 大きくなり、ドイツ人ではなかったと分かった子供たちはまた母国語の勉強のし直しで、結局、本書の著者のように大学まで行けた子供は数としては少数です。 心に深い傷を負った例はことに多いのでした」。
このように、レーベンスボルンの目指す理想と現実との間には大きな隔たりがあった。 ヒムラーが作成した計画によると、1980年までにドイツは1億2000万人の “純血アーリア人” の国になるはずであったという。
足達和子さんによると、戦後のドイツでは、レーベンスボルンの擁護者と糾弾者との間で、かなり長く激烈な闘いが展開されたという。 擁護者たちが「あれこそ理想的な福祉施設だった。 それを非難するとはドイツの顔に泥を塗る気か」と主張するのに対して、糾弾者たちは「事実を明らかにしてこそ今後の平和のためになる」とし、本や雑誌や映画も作ったという。
第4章 ヨーゼフ・メンゲレ博士
ナチス・ドイツには「生理学・病理学実験研究所」という遺伝学の研究機関があった。 この研究所は「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」の指導のもとに、1943年5月、アウシュヴィッツ収容所内に設置された。 所長のオトマール・フォン・フェアシュアー博士は一流の遺伝学者であり、かつ、ヒトラーの人種理論の熱烈な信奉者でもあり、「わがドイツの抜きんでた統率力、これまで築き上げた国力は、人種や遺伝に関する理念の重要性を十分に自覚しているからこそ達成できたものである」と力説していた。 フェアシュアー博士は双生児の遺伝的特性を研究テーマとしていた。 彼はカイザー・ヴィルヘルム研究所の人類遺伝学部門の部長であったとき、双生児研究によって国際的名声を獲得した。 彼はフランクフルト大学の「遺伝病理学研究所」の所長を1936年から1942年まで務め、その後、オイゲン・フィッシャー博士の後を継いでカイザー・ヴィルヘルム研究所の2代目所長に就任した。 このフェアシュアー博士がアウシュヴィッツの「生理学・病理学実験研究所」に送り込んだ弟子がヨーゼフ・メンゲレ博士である。 ヨーゼフ・メンゲレ博士はアウシュヴィッツ収容所の専属医師として、次々と移送されてくるユダヤ人を駅頭に出迎え、穏やかな笑みをたたえながらユダヤ人を選別した。 ヨーゼフ・メンゲレ博士は人々から「死の天使」と呼ばれて恐れられた。 ヨーゼフ・メンゲレ博士はフェアシュアー博士の教えに従って、「双生児こそが遺伝や人種の優劣の秘密を解く鍵だ」と考え、彼の双生児実験は実に様々な方面に及んだ。 手や足などの切断手術、腎臓などの除去手術、脊椎や腰椎の穿刺(せんし)、性器の手術、傷口からのチフス菌等の注入などを行ない、その反応を比較した。
アウシュヴィッツの「生理学・病理学実験研究所」が遺伝学の分野でどれだけの成果を上げたのかは、一切分かっていない。 ソ連軍が迫ってきた1945年1月、ヨーゼフ・メンゲレ博士の実験室は解体され、ダイナマイトで跡形もなく爆破された。 個人的な文書や医学論文は注意深く選択され、梱包され、残りは焼却された。 ソ連軍の大砲が遠く轟く中、ヨーゼフ・メンゲレはアウシュヴィッツをあとにした。 そして、戦後、ヨーゼフ・メンゲレは連合国側から「第一級戦犯」として指名手配を受けていたにもかかわらず、4年間をアメリカ軍占領地域内で過ごし、ナチスの逃亡ネットワークの助けでスイスからイタリアに入国し、船でアルゼンチンに渡った。 彼は340万ドルの賞金を懸けられ、西ドイツの捜査機関とイスラエルの諜報機関に追われるが、「蜘蛛(くも)」と呼ばれるナチス共鳴者の蜘蛛の巣が33年間、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルでヨーゼフ・メンゲレを守った。 彼は南米で実業家として成功し、終に1979年2月、ブラジルの海岸で海水浴中に心臓発作で死んだ。
一方、ヨーゼフ・メンゲレが師と仰いでいたフェアシュアー博士は、戦後、その役割が問題となり、戦争犯罪調査局の尋問を受けた。 しかし、彼は帝国学術研究評議会の命令によって合法的な医学研究だけに携わったと主張し、ヨーゼフ・メンゲレの研究に関連した書類や標本は全てナチスによって焼却されたと証言した。 結局、フェアシュアー博士はいっさい罰せられることなく教職に戻り、カイザー・ヴィルヘルム研究所の戦時中の膨大な研究成果は闇の中に消えた。 (アメリカが研究成果を奪い取ったとも言われている)。
第5章 ナチス・ドイツの医学者たちの戦後
戦後、裁判の場に引き出された医者たちは口をそろえて、「我々は医学の進歩に貢献しただけだ」と主張した。 そして、多くの医学者たちが罪を問われることもなく、東西ドイツの医療や教育や研究の第一線の場で活躍し続けた。 医師である小俣和一郎氏は、著書『精神医学とナチズム』(講談社)の中で次のように述べている。「T4作戦に直接関与した大学教授の大多数が戦後何らの裁きを受けることもなく『社会復帰』を果たしている。 ナチ国家における『最初の安楽死』となったクナウアー事件で犠牲者の主治医を務め、障害者安楽死機関『帝国委員会』のメンバーの一人であったT4鑑定医兼ライプツィヒ大学小児科教授ヴェルナー・カーテル博士は戦後いちはやく西側占領地域へ脱出した。 1947年、彼は中部ドイツのタウヌス山中にあるマモルスハイン州立障害児療養所で院長の地位を獲得した。 1954年、カーテル博士はついにキール大学小児科教授に就任した。 彼に対する起訴状は1964年に最終的に取り下げられた。 彼はそのまま平穏な老後生活を楽しみ、1980年、86歳の長寿を全うして他界した。 カーテル博士と同じく、障害者安楽死作戦に参加しT4鑑定医を務めたベルリン大学小児科教授ハンス・ハインツェ博士も戦後西側に脱出し、1954年、かつて入院患者の多くがさかんに移送されていたヴンストルフ州立精神病院で児童精神科の医長の座におさまった。 彼に対する起訴状も1966年に最終的に取り下げられた。 ハインツェ博士は1983年、87歳でこの世を去っている。 T4作戦を自らの研究活動にも利用していたボン大学精神科教授兼T4鑑定医クルト・ポーリッシュ博士は1948年に無罪判決を受け、1952年、再びボン大学教授に返り咲いた。 1955年、彼は教授の地位についたまま世を去っている。 T4鑑定医兼ケーニヒスベルク大学教授フリードリヒ・マウツ博士は1953年から15年間の長きにわたってミュンスター大学精神科教授の地位にあった。 彼はガウプやクレッチマーらと並んで、いわゆるチュービンゲン学派を代表する精神病理学者として広くその名を知られている。 T4鑑定医兼ブレスラウ大学精神科教授ヴェルナー・ヴィリンガー博士も1946年から13年間にわたってマールブルク大学で精神科教授を務めた。 彼はその間に精神薄弱児の、ある全国的な支援団体の発起人の一人に名を連ねている。 T4作戦で、臨床上興味ある患者を安楽死施設に移送して、その脳を解剖していたユリウス・ドイセン博士は、戦後再建された西ドイツ連邦軍の顧問精神科医となり、戦争心理学の教科書を執筆している。 同様に、犠牲者の内分泌臓器を専門に取り出して研究していた助手カール・フリードリヒ・ヴェントは戦後もハイデルベルク大学にとどまり、教授称号を授与された。 同じく助手だったフリードリヒ・シュミーダーも1980年、教授称号を授与された。 戦後、シュミーダーは頭部外傷患者専門の私立病院を開いたが、この病院はのちにその分野で西ドイツ最大の医療機関に成長した。 1973年には、彼に対して『連邦功労十字章』が贈られた」。
1987年に『灰色のバスがやってきた』(草思社)を書いたジャーナリストのフランツ・ルツィウスも次のように述べている。「戦争の後、身体障害者および精神障害者の安楽死に携わっていたおよそ350人の医師のうち、自らの関与を認めた者は皆無である。 司法の手で責任を追及された者の数もごくわずかでしかない。 その極端な例が『ハイデ事件』である。 大量殺人の罪で公開指名手配されていた、かつての障害者安楽死機関『帝国委員会』のメンバーであったヴェルナー・ハイデ博士は、1945年以降、“ゾーヴァーダー博士”と名を変えて、1960年代にいたるまで、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州の州保健会社の委託司法医として働いていた。 相当数の教授仲間や高位の裁判官もそれを承知していた」。
T4作戦に加担していたヴィクトア・フォン・ヴァイツゼッカー博士は、戦後(1947年)に著わした書物の中で、「全体の為には個人を犠牲にすべき」だと主張し、安楽死も人体実験も、それが全体の利益にかなう限り認められるべきものだと弁明していた。 彼は次のように述べている。「生命全体を救済するために、ヤケドを負った下肢だけを切断する場合があるのと同様に、民族全体を救うためには、一部の病んだ人間を殺害することが必要な場合もある。 どちらの場合も犠牲は正当であり、医療行為として必要性と意味を持つものと言えるだろう。 このような考え方に賛成できない者は人間性や人権に捕われるあまり、医師の責務を個人の治療だけに限定して、集団の治療をおろそかにする可能性すらある」。
ヴィクトア・フォン・ヴァイツゼッカー博士はドイツの神経内科医であり、独自の哲学的心身一元論を提唱した学者として、戦後のドイツ精神医学界で広くその名を知られ、その著作の一部は日本でも紹介されている。 因みに、「終戦40年記念演説」で有名な第6代西独大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーはヴィクトア・フォン・ヴァイツゼッカー博士の甥であり、ヴァイツゼッカー家はドイツの名門である。
第6章 アメリカの優生学者とナチスとの親密な関係
アメリカの優生学者とナチスとは親密な関係にあった。 ドイツの歴史学者シュテファン・キュールが書いた『ナチ・コネクション』(明石書店)という本がある。 この本では、アメリカの優生学者とナチスとの親密な関係が紹介されている。 この本を読むと、人種改良のイデオロギーは決してナチス・ドイツの科学者だけのものではなかったことが分かる。 アメリカの優生政策こそがナチスの優生政策のお手本であった。 この本の中で次のように述べられている。「アメリカの優生学者たちはナチスの人種政策を最も強力に支持した外国人だった。 アメリカ以外の国の優生学運動はどちらかといえばナチス・ドイツに批判的だった。 ナチスの人種政策に対する諸外国の姿勢の中心的監視者だったドイツの『人種政策外信』は、アメリカ内の優生学運動について11の報告を掲載したが、そのうちの4つはアメリカの優生学運動がナチスの政策を支持していることについての報告である。 ナチスのプロパガンダで、アメリカほど目立った役割を演じた国は他に無かった。 1934年2月、ナチスから特別な庇護を受けていた人種人類学者のハンス・ギュンターは、ミュンヘン大学の講堂に詰めかけた聴衆を前に「アメリカは世界でもっとも寛大な国だと思われているが、アメリカの移民法が圧倒的多数で可決されたことは注目に値する。 〈中略〉 グラントとストダードがこの移民法制定の精神的な父親たちであり、この法律を手本にすべきだ」と述べた。 ナチスの人種衛生学者たちは、アメリカの移民政策が優生学と民族選別を結合させたその方法に特に強い感銘を受けた。 アメリカの優生学者たちは、自分たちがナチス・ドイツの断種法制定に影響を与えたことを自覚していたし、誇りを感じてもいた。 彼らはドイツの「遺伝病の子孫の出生を予防するための法律」がカリフォルニア州の断種法の影響を受けており、1922年にハリー・ローリンが考案した「優生学的断種のモデル法」にならって立案されたものであることを知っていた。 〈中略〉 ナチスが政権の座についてから僅か6ヶ月のうちにドイツで断種法を可決させることができた理由のひとつとして、ナチスがアメリカの断種の法的・医学的側面に関する情報を握っていたことがあげられる。 〈中略〉 ナチスはアメリカにおける断種の実際的・法的経験に学んだだけではなく、1870年代以降にアメリカで行なわれてきた研究も参考にしていた」。 因みに、戦前のヨーロッパにはドイツの他にも優生政策を推進した国があり、福祉国家スウェーデンは戦後も根強く優生政策を存続させていた。
この本でも、この本以外でも指摘されている事だが、ナチスの優生学者のスポンサーとなっていたのはアメリカのロックフェラーやハリマンなどの一族である。 彼らはトーマス・マルサス(イギリスの経済学者、1766年〜1834年)の信奉者であった。 トーマス・マルサスは非白色人種や劣等な白色人種を、家畜のように選り分けることを提唱していた。 トーマス・マルサスは、政治哲学者のジョン・スチュアート・ミル(イギリス人)と共に「金髪・青い目のアーリア(ゲルマン)民族はこの世界へ贈られた神からの賜物である」と言った。 彼ら2人は「アーリア(ゲルマン)民族を頂点とする優等な白色人種が有色人種を支配すべきである」と言う。 結局のところ、ナチスも英米の支配階級も言うことは同じである。 彼らは同じ穴のムジナである。
この本の中では次のように述べられている。「アメリカとドイツとの密接な関係を支えていたのは、ドイツの優生学研究を確立させようと考えたアメリカの財団の熱烈な資金援助だった。 最も重要な後ろ盾はニューヨークの「ロックフェラー財団」だった。 1920年代初期にロックフェラー財団はドイツの人種衛生学者アグネス・ブルームの遺伝とアルコール中毒の研究に資金援助を行なった。 1926年12月にロックフェラー財団の職員がヨーロッパへ赴き、その後、ロックフェラー財団はヘルマン・ポール、アルフレート・グロートヤーン、ハンス・ナハツハイムといったドイツの優生学者に資金援助を開始した。「カイザー・ヴィルヘルム精神医学研究所」、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」など、ドイツの重要な優生学研究所の設立と資金援助に関して、ロックフェラー財団は中心的な役割を演じた。 〈中略〉 1928年、研究所を新築するためにロックフェラー財団は32万5000ドルを寄贈した。 ロックフェラー財団がミュンヘンの「精神医学研究所」に資金提供をした為、アメリカの他のスポンサーもあとに続くことになった。 実際、ベルリンにあった「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」の建物の一部もロックフェラー財団の援助金で建設されたものだった。 〈中略〉 世界が大恐慌に陥ってから数年間、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」は深刻な財政問題を抱え、閉鎖の危機に追い込まれたが、ロックフェラー財団は赤字が出ないよう資金援助を続けた。 所長のオトマール・フォン・フェアシュアー男爵は重要な局面で何度かロックフェラー財団の代表者と会見した。 彼が1932年3月、ロックフェラー財団のパリ支部に宛てた手紙のなかで、彼はさらに6つの研究計画に対する資金援助を依頼した。 2ヶ月後、ロックフェラー財団は肯定的な返事をした。 ナチスがドイツ科学を支配した後も、ロックフェラー財団はドイツの優生学者に資金援助を続けた」。
この本を翻訳した麻生九美さんは、「訳者あとがき」の中で次のように書いている。「ドイツのビーレフェルト大学の社会学者兼歴史学者シュテファン・キュール氏が本書で提示したのは、今まで明らかにされていなかったドイツと合衆国の優生学史実の欠落部分を埋める、きわめて重要な事実である。 ドイツの人種衛生学者と合衆国の優生学者は親密な関係にあり、合衆国はナチスの人種政策のモデルとしての役割を果たした。 ドイツ軍によるポーランド電撃作戦が開始され、第二次世界大戦が勃発してからも、合衆国の優生学者はナチス・ドイツを訪問し続け、ヒトラーからの私信を得意げに同僚に見せびらかし、ドイツの大学から名誉博士号を授与されて大感激する。 だが、大戦後にナチスの人種政策の全容が明らかになると彼らは優生学から身を引こうとし、合衆国の歴史家も合衆国の優生学者とナチスとの親交を無視あるいは過小評価する姿勢を取り続けてきた。 しかし、現在、優生思想は復活しつつあるとキュール氏は断言している」。
この本では「パイオニア財団」「人間改良財団」「アメリカ優生学協会」などの実態についても紹介されている。「パイオニア財団」については、次のように書かれている。「民族的少数派と障害者に対するヒトラーの政策を支持した人物たちによって創設され、合衆国にナチスの人種プロパガンダを導入するために資金を提供した『パイオニア財団』は、現在もナチスの措置に科学的根拠を与えた初期の諸研究と酷似した研究に財政援助を行なっている」。