ナチス・ドイツの超兵器

原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha650.html
第1章  V1飛行爆弾 、V2ロケット 、ドーラ砲、V3高圧ポンプ砲
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの科学技術力は世界随一であった。 当時、ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアは次のように書いた。「1944年の段階では、ジェット戦闘機『メッサーシュミット Me262』だけが奇跡の兵器であるというわけではなかった。 リモコンで飛ぶ爆弾、ジェット機よりも速いロケット弾、熱線により敵機に命中するロケット弾、ジグザグコースで逃げていく船の音を探知し追跡し命中する魚雷を我々は持っていた。 地対空ロケットの開発も終わっていた。 リピッシュ博士は無尾翼の原理によって設計された戦闘機を開発した。 それは当時の飛行機製造の標準を遥かに超えたものであった」。
世界初の実用ジェット戦闘機「メッサーシュミット Me262」

   V2ロケットの実物大の模型
アメリカ政府もイギリス政府も、通信とレーダー以外の殆ど全ての戦争関連技術においてドイツの技術が連合国の技術を上回っているという認識を持っていた。 1944年9月以降、V2ロケットがロンドン(イギリス)やアントワープ(ベルギー)に落とされるようになって、武器技術におけるドイツ側の優越がいよいよ明らかになった。 イギリス人をどん底に叩き込んだV2ロケットは約1トンの爆薬を弾頭につけ、マッハ4で飛び、自動制御装置で誘導される世界初の弾道ミサイルで、当時の世界にはこれに対する防御手段は無かった。 このロケットは、ペーネミュンデ陸軍兵器実験場(ドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島にあるロケット開発基地)に勤務するフォン・ブラウンを初めとする開発スタッフが作ったものである。 このV2ロケットの本来の名称は「A4」であったが、ナチスの幹部は「A4」を勝手に「V2」と命名した。「V」は「Vergeltungswaffe(報復兵器)」の頭文字である。 V2ロケットはドイツの敗戦時までに約6000発が生産され、約3170発が実戦で発射された。 その内、1610発がアントワープに撃ち込まれ、1358発がロンドンに撃ち込まれた。 V2ロケットが初めてイギリス本土を襲ったのは1944年9月8日であった。 因みに、当時のアントワープにはユダヤ人の経営するダイヤモンド研磨工場やダイヤモンド取引所が多数あった。 そして、現在でもそうである。 現在、アントワープはダイヤモンドの取引量で世界一を誇っている。

   V1飛行爆弾
    
V2ロケットより先にロンドンを襲った兵器があった。 それはV1飛行爆弾である。 V1飛行爆弾が初めてロンドンを襲ったのは1944年6月である。 V1飛行爆弾は小型機の背中後部に筒状のパルスジェットという特殊なエンジンを乗せた飛行爆弾で、現在の巡航ミサイルの先駆である。 V1飛行爆弾は凄まじい騒音を発して飛ぶので、「バズ・ボム」とも呼ばれたが、落下する際には騒音が停止し、誘導装置が外れて、地上のどこに落ちてくるかが分からなかった。 その為、V1飛行爆弾は人々に大きな恐怖感を与えた。 しかし、V1飛行爆弾はスピードが時速600kmと遅く、対空砲や戦闘機でも迎撃可能だった為、多くのV1飛行爆弾が撃墜された。 また、V1飛行爆弾はその機能不全で墜落するものが多かった。 V1飛行爆弾が初めてイギリス本土を襲ったのは1944年6月13日であった。 因みに、V2ロケットの開発はドイツ陸軍が担当したが、V1飛行爆弾の開発はドイツ空軍が担当した。

   ドーラ砲
第一次世界大戦でのドイツ製の「パリ砲」は有名だが、第二次世界大戦でもドイツ軍は「パリ砲」を超える「ドーラ砲」を開発した。 この「ドーラ砲」は史上最大の列車砲で、ドラム缶大の砲弾をぶっ放した。 ドーラ砲を使うには、少将以下1420名の兵士が必要だった。 ドーラ砲の重量は1000トン強であり、その砲身の口径は80cmで、その砲身の長さは27mもあり、その最大射程距離は50kmであった。 この怪物のような列車砲は、1942年6月、クリミア半島のセバストポリ要塞攻撃に用いられ、直径80cmの砲弾は、地下30mに設けられていた弾薬庫まで貫徹して大爆発を起こさせ、ソ連軍を降伏させた。 ドイツ軍はドーラ砲の他にも、「28cm列車砲」「60cmカール自走砲」など、桁外れの巨砲を揃え、第二次世界大戦を戦った。

V3高圧ポンプ砲という多薬室砲もあった。 このV3高圧ポンプ砲は50m〜140mという非常に長い砲身に数mごとに火薬燃焼室が付いていて、その形状から「ムカデ砲」とも呼ばれた。 これらの火薬燃焼室にそれぞれ火薬を詰め、それらの火薬を次々に爆発させて砲弾のスピードを増していくという仕掛けであった。 この増速装置により、発射速度は秒速1500mという物凄いものであった。 V3高圧ポンプ砲の最大射程距離は130kmで、その標的はロンドンであった。 V3高圧ポンプ砲は全部で3門作られ、フランス・カレーの近郊に設置されたものが一番大型で、これは砲身の長さが140mもあり、直径15cmの砲弾を発射することが出来た。 しかし、V3高圧ポンプ砲は実戦で使用する直前にレジスタンスの通報で爆撃・破壊された。

第2章  Vシリーズ以外のロケット誘導弾 、Uボートの「シュノーケル」
ナチス・ドイツでは、V2ロケットを基に色々なロケット誘導弾(ミサイル)が設計された。 (“ミサイル”は戦後の英米による呼称である)。 これらのロケット誘導弾開発の為に各種の誘導装置が研究され、その中には音響誘導装置とか赤外線反応誘導装置も含まれていた。「ヘンシェルHs293」というミサイルは空対地または空対艦の誘導弾(グライダー爆弾)で、遠隔操縦によって1943年8月、イギリス海軍のスループ艦「イーグレット」を撃沈して、最初の戦果を上げた。 この「ヘンシェルHs293」から発展したのが、「ヘンシェルHs117シュメッターリンク」という飛行機型の地対空ロケット誘導弾であるが、このロケット誘導弾は実戦には使用されなかった。「ライントホターR1」というミサイルは2段式の地対空ミサイルで、レーダーステーションから無線で遠隔操縦された。 また、「ヘンシェルHs298」というミサイルは空対空ミサイルで、戦闘機のコントロールシステムによって無線誘導されるミサイルだったが、実戦で使用される前に戦争が終わった。

「ヴァッサーファル」というミサイルは、あらゆる点でV2ロケットを小型にしたような地対空ミサイルで、但し、胴体の中央部にも4枚の安定板を付けていた。 この地対空ミサイルは赤外線追尾装置を持ち、完全な自動システムで飛んだ。 この地対空ミサイルは戦後のアメリカ製の地対空ミサイル「ナイキ・エイジャックス(1953年から1963年まで配備・運用されていた)」をすら性能的に凌いでいて、第二次世界大戦中、この地対空ミサイルの存在はナチス・ドイツのミサイルシリーズの中で最高機密にされていた。 ヴァッサーファルは実戦では使用されなかったが、1945年2月26日までに全部で50発が生産され、35発が実験用に発射されたという。

ナチス・ドイツはミサイルの先端にテレビカメラを搭載して、カメラ映像によって攻撃目標を映し出す実験もしていた。 この実験は1943年秋、バルト海南岸のシュタガードで行なわれ、成功した。 このテレビジョン誘導装置を付けたミサイルは、その後、改良が重ねられ、量産されたが、母機となる航空機不足の為、実戦で使用されることはなかった。 ナチス・ドイツは1935年3月に世界初の一般向けテレビジョン放送を始めており、ナチス・ドイツのテレビジョン技術は世界最先端を行っていた。

   ルールシュタール X-4
世界初の実用ジェット戦闘機「メッサーシュミット Me262」の主力兵装として開発されたのが、マックス・クラマー博士考案の空対空ミサイル「ルールシュタール X-4」である。 この空対空ミサイルは安定翼・操縦翼を合わせて4枚持ち、その動力は小型の液体ロケットエンジンであり、このミサイルとジェット戦闘機「メッサーシュミット Me262」とを繋ぐ2本の電線で誘導信号を送り誘導するという先進的な兵器だった。 この空対空ミサイルは敗戦までに約1300発製造されたが、ロケットエンジンの生産が連合軍の空襲で途絶した為、実戦では一度も使われなかった。

   主翼下面に装着された「R4M」(片側12個ずつ計24発)
「ルールシュタール X-4」の代わりに、1945年4月からドイツ敗戦までの約1ヶ月間、ジェット戦闘機「メッサーシュミット Me262」に装備され大きな戦果を収めたのが「オルカン(暴風)」の愛称で呼ばれた空対空ロケット弾「R4M」である。 元アメリカ陸軍少将レスリー・サイモンは著書『第三帝国の秘密兵器』の中で、ドイツが開発していたジェット戦闘機・超音速爆撃機・ミサイルなどについて詳細に述べている。 彼が特に感心したのが「R4M」であった。 戦争終結1ヶ月前からジェット戦闘機「メッサーシュミット Me262」に装備された「R4M」は、その破壊力の凄さをまざまざと見せつけた。 連合国側は、わずか1ヶ月のうちに、「R4M」によって撃墜された爆撃機の数を500機としている。 レスリー・サイモンは次のように書いている。「6機のメッサーシュミット Me262が空飛ぶ砦といわれるB-17を14機撃墜した。 もし、R4Mがあと数ヶ月使われていたら、どのような結果になっていたか、考えるだけでも恐ろしい」。

ナチス・ドイツは「ロケット魚雷」の開発や、エンジン音を追尾して敵艦に命中する「ホーミング魚雷」の開発もしていた。 また、ナチス・ドイツは、潜航中の潜水艦「Uボート」からロケット弾を発射し、沿岸を奇襲攻撃するアイデアもテストしていた。 また、ナチス・ドイツは、潜航中のUボートからロケット弾を発射する実験に成功していた。

また、「ウルセル計画」というのがあった。 これはUボートを追跡してくる敵艦に対してUボートから誘導弾を発射しようという計画であった。 また、「UボートV2計画」というのもあった。 これはV2ロケットを防水格納筒に入れて、Uボートで牽引し、沿岸から都市を攻撃するという計画であった。 この計画は、のちにV2ロケットによるニューヨーク攻撃計画へ発展していった。

Uボートは多くの最新装備を持っていたが、中でも、戦後、連合国側を驚かせたのはドイツ製「シュノーケル」である。「シュノーケル」は潜水艦が潜航中にディーゼルエンジンを動かす為の空気を取り入れる装置である。「シュノーケル」はドイツの発明品ではなかったが、完全に実用化したのはドイツ海軍である。 当時、潜水艦の最大の欠点は、たびたび浮上して空気を取り入れなければ、エンジンを動かせないことだった。 だが、このドイツ製「シュノーケル」のお陰でナチス・ドイツの潜水艦は海上に浮上することなく長時間に渡って潜航を続けることが世界で初めて出来るようなった。 そして、ナチス・ドイツの潜水艦は、潜水艦基地を全て封鎖されたあとも、連合軍に探知されることなく潜水艦基地に自由に出入できた。 因みに、ドイツ製「シュノーケル」の詳細な設計図はドイツ海軍から日本海軍に譲渡されていたが、日本海軍の選りすぐりの技術者をして「とても頭が痛くなる」と言わしめ、匙(さじ)を投げさせたほど、実に込み入った設計であったという。

また、驚くべきことに、ナチス・ドイツは「ステルス技術」をも研究開発していた。 最新型のドイツ製「シュノーケル」の頭部は、連合軍のレーダー探知を防ぐ為に「タルンマッテ」と呼ばれる「レーダー波吸収剤」でコーティングされていた。 このレーダー波吸収剤は合成ゴムと酸化鉄粉の化合物で、連合国の最新型レーダーに対して最も効果を発揮するように作られており、90%の電波を吸収すると考えられていた。

第3章  世界初の ICBM構想
第二次世界大戦中、フォン・ブラウンらのグループが最終的に到達したのが「A9・A10」構想であった。 この構想は「A4(V2ロケット)」にほんの少し改造を施し、これを「A9」とし、「A9」より更に大きい液体燃料ロケット「A10」に「A9」を載せて2段式とし、射程は何と5000kmという、当時としては法外な長射程の弾道ミサイルを実現しようというものであった。 この2段式ロケット「A9・A10」(重さ100トン)は、その発想において世界初の ICBM(大陸間弾道ミサイル)と言うことが出来る。 また、ロケットの複数段化という発想も世界初である。 この2段式ロケットの試作中にドイツが降伏した為、この2段式ロケットは完成しなかったが、もし、この2段式ロケットが完成していたら、ドイツからアメリカ本土を直接攻撃することが出来た。 この2段式ロケットとは別に「A11」という更に大きいロケットに「A9・A10」を載せて3段式とし「A9」を更に遠くに飛ばすという3段式ロケット「A9・A10・A11」構想もあったという。

1937年、ドイツ陸軍のロケット研究班は、手狭になったクンマースドルフ実験場とボルクム島の発射場から、両方の機能が併設された総合的な研究施設「ペーネミュンデ・ロケット研究施設」へ移転した。 その研究施設は、ベルリンの北方約160km、バルト海ポメラニア湾に面したウゼドム島西端のペーネミュンデに在った。 ペーネミュンデ・ロケット研究施設には、ドイツ空軍が担当するV1飛行爆弾の研究班と試験発射場も置かれ、そこで働く科学者や技術者の総数は1943年には2000名をかなり上回るほどだったという。 1943年8月、ペーネミュンデ・ロケット研究施設はイギリス軍による大規模な空襲を受け、約730名もの科学者や技術者が死んだ。 この空襲以降、ドイツはV1飛行爆弾・V2ロケットの研究開発施設と生産施設とを分割し、風洞施設はコッヘルに置き、研究開発施設はガルミッシュ・バルテンキルヘンに置き、生産施設はノルトハウゼンとブリーヘローデとに置いた。

V1飛行爆弾・V2ロケットの研究開発計画と並行して「ゼンガー計画」というものがあった。 これは「ロケット推進で飛ぶ宇宙爆撃機」の研究開発計画で、オーストリア生まれのロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士が考案したものである。 この「ロケット推進で飛ぶ宇宙爆撃機」は、全長3kmのモノレール上を滑走し、一気にマッハ1.5まで加速し、大気圏外に出たのち、大気との摩擦を利用してスキップしながら飛行距離を伸ばし、途中でアメリカ本土に爆弾を投下し、ドイツ本国に帰還するというものであった。 もちろん、この計画は構想のままで終わったが、第二次世界大戦後、この資料を入手した米ソ両国はこの計画に大変な興味を持ったと言われている。 因みに、ドイツ宇宙開発機関は1988年に「宇宙往還機」の研究開発を始めたが、ゼンガー博士の研究に因んで、その機体は「ゼンガー2」と呼ばれた。

第4章  風変わりな兵器
第二次世界大戦下のドイツで開発された秘密兵器の中には風変わりなものがあった。 例えば、人工的に「つむじ風」を作り出して相手を攻撃する大砲があった。 この大砲は「渦巻き砲」と呼ばれ、オーストリアのアルプス山中にあるローファ研究所で、チッパーマイヤー博士によって作られた。 これは地中に埋めたコンクリート製の大砲を使用するもので、発射される弾丸には、石炭の粉とゆっくり燃焼する爆薬が入っていた。 これで人工的につむじ風を作り、その上空に乱気流を起こし、飛行機のコントロールを狂わせて、飛行機を撃墜しようというものだった。 この「渦巻き砲」は実験では、かなり大規模なつむじ風を起こすことに成功し、数百mの範囲まで効果を上げたが、実戦では一度も使用されなかったという。 これに似た構造で、強力なメタンガス爆発を引き起こす大砲もあった。 原理は炭鉱のガス爆発と同じで、この大砲は対空砲の一部として作られた。 しかし、対空よりも地上の物体に対する破壊力の方が遥かに大きかったので、この大砲は戦争の終わり頃に、ポーランドの自由の戦士たちに対して使われたという。

水素と酸素をギリギリの比率に近づけて混ぜ、その爆発力によって飛行機を撃ち落とす「風力砲」も開発された。 この奇妙な装置はシュタットガルトのある会社が考案したもので、ヒラースレーベンの試験場で実際にテストされた。 その際、極めて強力な圧搾空気の塊が飛んでいって、約180m離れたところに置いた厚さ2.5cmの木の板を破壊できることが証明された。 この「風力砲」は、チェコとドイツを流れるエルベ川にかかる橋の上に作られ、目に見えない“空気の砲弾”で連合軍機を撃ち落とす予定だったが、実用には失敗したといわれている。

前出のローファ研究所では、リヒャルト・ヴァラウシェク博士によって 「音波砲」も開発された。 これは大きな放物面鏡を幾つかのチューブ型燃焼室と直結したもので、メタンガスと酸素ガスとの混合物を燃焼室の中に入れ、燃焼室の中でメタンガスと酸素ガスとが周期的に連続して爆発を起こす仕掛けだった。 チューブ型燃焼室の長さは、連続爆発で生ずる音波の波長のちょうど4分の1で、1つ1つの爆発は共鳴により強い衝撃波となり、次々に爆発を誘発し、非常に増幅された“音波ビーム”となった。 ドイツの秘密兵器に詳しいアメリカの科学者ブライアン・フォードはこの音波砲に関して次のように述べている。「音波砲が発する音波は人の聴覚器官が耐えられないほどの強さだった。 約50m離れた所へも、1000ミリバール強の圧力で伝わり、人はこの音波にとても耐えることが出来なかった。 この範囲(50m)内では、人を殺すには、30秒もあれば十分だった。 もっと遠い所でも、例えば、約230mまでならば、人には耐えられないほどの苦痛を与えた。 音波砲の開発のために、動物を使った幾つかの実験が行なわれたが、実戦テストも、生体テストも実施されなかった。 この音波砲は、意図された目的には一度も使われなかった」。

ナチス・ドイツの科学者たちは赤外線を軍事利用する為の研究を積極的に進めた。 最初に開発された装置は相手方の出す赤外線を探知するものであった。 その後、赤外線の照射を応用した「赤外線照射探知機」が作られ、140kmも離れた銃火を誤差角度1分以内という正確さで探し当てることができた。 各部隊がこの探知機を使うと、目標地点は正確に割り出され、真っ暗闇の中で敵の居場所を見つけ、銃の狙いをつけることが日中と殆ど変わらない位に出来るようになった。

   ナチス・ドイツ製の突撃銃StG44
自動小銃と機関銃の機能を兼ね備えた突撃銃StG44は今日の突撃銃の元祖である。 この突撃銃StG44には赤外線照準器が採用され、ツィールゲレト1229ヴァンパイア(吸血鬼)と呼ばれ、戦争の末期に少数使用された。

第5章  殺人光線
ナチス・ドイツは太陽光線を集めて敵を攻撃する対空兵器の研究もしていたようだが、これは実現しなかったようである。 また、ナチス・ドイツは「殺人光線」の研究をしていたと言われているが、これに関しては専門家の間で意見が大きく分かれている。 前出のブライアン・フォードは「ナチス・ドイツの殺人光線研究」をきっぱり否定している。 しかし、ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアは「ドイツが殺人光線を所有していることを労働大臣ロベルト・ライから聞いた」と、1945年4月に述べている。 『Uボート977』の著者ハインツ・シェファーも「殺人光線のデモンストレーションを見学するようナチス親衛隊から勧められた」と、1945年4月に述べている。 だが、彼は潜水艦の艦長としての業務の都合上、参加することが出来なかったという。

因みに、第二次世界大戦中、日本も殺人光線の研究開発に取り組んでいた。 このことは、ロンドンの帝国戦争博物館付属図書館の資料で証拠づけられる。 『非公開付録I・E:殺人光線』と題された1945年10月3日の記録文書は、下田中将ほかの日本人士官たちを尋問したグリッグス、モアランド、ステェフェンソンの各医師の記録を要約したものである。 この記録文書には次のようにある。「日本軍は5年半に渡り『殺人光線』に携わっていた。 これは強力光線の中に集められた極く短い電磁波が、哺乳類の体に生理学的変化を起こし、死に至らしめるという原理に基づいている。 光線を向けられた人間に麻痺や死をもたらすような兵器を開発することが、この研究の狙いだった」。 この記録文書は更に、この装置の対航空機使用について述べ、日本はこの開発に200万ドルに相当する資金を費やしていたと記している。 また、殺人光線を使った各種の実験、例えば、違った種類の動物を殺すのに要する時間についても述べ、最後に次のように結んでいる。「より強力で短い波長の発振器が開発されていれば、10kmないし15km彼方から人間を殺せるような殺人光線ができよう」。

ナチス・ドイツが降伏すると、連合国側はナチス・ドイツが開発していた諸々の兵器を目の当たりにして、そのレベルの高さに驚嘆した。 ヨーロッパ戦線の連合軍総司令官アイゼンハワー将軍は、第二次世界大戦後、ドイツ軍の新兵器の全貌を知るに及んで、次のように語った。「もし、ドイツ軍がこれらの新兵器の開発をもう6ヶ月早く済ませていたなら、我々のヨーロッパ進攻は不可能になっていただろう」(アイゼンハワー著『ヨーロッパでのクルセード』)。