ナチス・ドイツとスイスとの協力関係

原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb500.html
第1章  ユダヤ難民に冷淡だったスイス
ナチスがユダヤ人を迫害していた頃、ユダヤ人の資産はスイスの銀行に歓迎されたが、ユダヤ人自身がスイスに逃げ込んでくることは歓迎されなかった。 1938年7月、32ヶ国の代表者がユダヤ難民問題を話し合うための会議を開こうとしたとき、スイス政府はこの会議の主催国になることを拒んだ。 そのため、この会議はフランスのエビアンで開かれた。 この会議(エビアン会議)では、スイスに限らず大半の国がユダヤ難民に門戸を開くことに消極的で、結局、エビアン会議は具体的な政策を打ち出せないまま幕を閉じた。 エビアン会議が不発に終わって4ヶ月が経つか経たない頃、ドイツではユダヤ教会焼き打ちの狼煙(のろし)が上がり、次いで1938年11月9日、「水晶の夜」と呼ばれる事件が起き、これを切っ掛けにドイツ民衆によるユダヤ人迫害が始まった。 エビアン会議で西側諸国がユダヤ難民の保護に二の足を踏んだことが、ユダヤ人追放を急ぐナチスにゴーサインを送ることになったと見る歴史家は少なくない。

ユダヤ難民の大量流入を恐れていたスイス政府は1938年10月にナチス・ドイツと共に「J」スタンプを緊急導入した。「J」スタンプとは、ドイツ国内に居住するユダヤ人のパスポートに「ユダヤ人」を意味する単語の頭文字「J」を強制的にスタンプするというものであった。 これによってユダヤ人の識別が容易になった。「J」スタンプについて、歴史家グイード・コラーは次のように語る。「スイスはナチス・ドイツに対して、ドイツ人全員にビザ取得を義務づける策をちらつかせながら、ユダヤ人の流入を抑えるための措置を打診していた。 それで、ドイツ当局が考え出したのが「J」スタンプだった。 だから、一応ドイツのアイデアであるが、スイス側の要請に基づいたものなのである。 スイスがドイツに何らかの手を打つよう求め、ドイツが対応策を考えたわけである。 人種差別であることは明らかで、国際法にも抵触する。 スイスとしては汚点を残したことになる」。

しかし、スイス政府は「J」スタンプだけでは満足しなかった。 第二次世界大戦が始まってから3年後の1942年8月、ユダヤ難民に対して国境を事実上完全に閉鎖する法律案を可決した。 この立法は単独措置ではなく、第二次世界大戦が始まる前から始まっていたユダヤ人追放政策の総仕上げとも言うべきものであった。 そして、ユダヤ難民の発生は政治的よりも人種的理由によるものとするこの法律に対して、ユダヤ教会やユダヤ難民や人道主義的団体から即座に非難の声が上がった。 激しい反対世論の高まりで、この法律はすぐさま改正へと追い込まれた。 しかし、スイス政府はその代わりに「収容所制度」を制定した。 収容所第1号はジュネーブ近くの国境付近に建設され、ユダヤ難民は全員ここに収容されてから、スイス国内に点在する収容所に振り分けられた。

歴史家グイード・コラーは「第二次世界大戦中のスイスが人道主義を貫いたという説は今や崩壊した」と言う。彼は言う、「我々が調査したところによれば、スイスは、大戦中に保護を求めて押し寄せた3万人の難民の入国を拒んだのである。 彼らの大多数はユダヤ人だったが、それ以外の人種も含まれていた。 強制収容所を脱出してきたポーランド人やロシア人、更に、イタリアやフランスの若者などもいた。 スイスの歴史は神話と伝説に満ちている。 そのひとつが、スイスは難民政策において積極的かつ人道的であり、中立政策はそこに根拠を置いているというものであった。 しかし、この伝説がいまや崩れ去り、国民は現実を直視すべきときに来ている」。

また、特殊利益団体である「スイス・ユダヤ人連盟」の副会長トーマス・リシーも、戦前および戦中のスイスの難民政策は恥ずべきものだと語る。 彼は語る、「スイスはその綺麗で華やかな化けの皮をはがされたわけであるが、それでよかったと私は思っている。 その筆頭が「J」スタンプだった。 スイス当局はいま、当時の我々の思いがわかったと思われる。 3万人の難民が追い返されたわけで、彼らが主張していたたった1万人ではなかった。 私の考えでは、スイスは彼らを受け入れられたはずである。 そんなことをしたら、ヒトラーの侵略を招いただろうと言う人たちもいるが、それは机上の空論にすぎない。 全員を受け入れられるだけの余地はあった。 スイス以外に逃げ込める場所はないというのに、入国を拒んだのである。 どんな運命が難民たちを待ち受けているか知りながら、追い返したのである。 この難民問題はスイスの歴史のなかの非常に暗い部分である。 その暗さは今日の銀行をめぐる問題以上である」。

第2章  ナチス御用達だったスイスの銀行
「スイスの銀行によるナチス政権への財政的援助がなかったら、第二次世界大戦は数年早く終結したであろう」と指摘する人がいる。 ナチスの戦争遂行能力の維持にスイスほど大きな貢献をした中立国はなかった。 第一次世界大戦で敗れたドイツ帝国の戦争賠償処理を主目的として、1930年にアメリカ連邦準備銀行を初めとする世界中の中央銀行が集まって、スイスのバーゼルに「国際決済銀行」(略号:BIS)を設立した。 しかし、この国際決済銀行は、ヒトラーの政権掌握以降、アメリカとイギリスの資金がヒトラーの金庫に流入する窓口の役目を果たすようになり、本来の役目とは正反対の機能を持つ銀行になった。 国際決済銀行は積極的にドイツへの融資を仲介し、その再軍備を大いに支え、ヒトラーの戦争経済に協力した。

第二次世界大戦中、ヨーロッパ諸国間の金融取引は金とスイスの通貨であるスイスフランだけを使って行なわれた為、ナチス・ドイツは、征服した国々から金を略奪し、スイス国立銀行にある国際決済銀行名義の口座に送り込んだ。 国際決済銀行やスイス国立銀行にとっても、ドイツとの金取引は魅力があり、取り引きは盛んに行なわれた。 戦場では敵味方に分かれて戦っているにもかかわらず、各国の中央銀行の代表たちは、国際決済銀行がドイツとの取り引きを続けることを容認し続けた。 国際決済銀行の初代総裁には、ロックフェラー財閥系の「チェース・ナショナル銀行」の元頭取で、「連邦準備銀行」総裁のマッギャラーが就任した。 その後、1938年に国際決済銀行総裁に就任したモルガン財閥のマッキトリックは1940年に「ドイツ国立銀行」を訪れ、国際決済銀行の役員兼ゲシュタポ高級将校のシュローダー男爵と会談し、たとえ、アメリカとドイツが交戦しても制約なしに国際決済銀行を存続させ、機能させることに合意した。 イギリスはドイツと交戦状態に入った後でさえ、国際決済銀行の存続を承認し、イギリス側役員のニーマイアー卿とイングランド銀行総裁ノーマンは戦争が終わるまでその地位に留まっていた。 国際決済銀行の理事の何人かはナチスの人間だったが、スイスは1942年の夏以降、保護を求めて流入するユダヤ難民に対してほぼ完全に門戸を閉ざしておきながら、ドイツ国立銀行副総裁兼国際決済銀行理事だったエミール・プールなどのナチス財務高官たちにはフリーパスを与えていた。

ニューヨークタイムズは1943年5月19日に次のような記事を載せた。「スイスのバーゼルにある国際決済銀行では、連合国のスイス・スウェーデン・アメリカの銀行家たちと、枢軸国のドイツ・イタリアの銀行家たちとが机を並べて、仕事をしている。 この戦争の中で敵味方が共同事業を行なっているのは筋の通らぬことではないか。 一体どのような暗黙の協定があるのか」。 ナチス御用達の銀行だった国際決済銀行は、「ブレトンウッズ会議(1944年)」で解散が決議されていたにもかかわらず解散せず、戦後になっても、しぶとく生き残った。 ナチス政権時代に国際決済銀行の理事を務めた面々は、イングランド銀行総裁を初めとして、そのまま名誉ある人生を送った。 戦犯に問われたドイツ経済相シャハトらも、連合国の“政策一変”で早期に釈放され、西ドイツ経済界の要職を務めたり、アメリカのチェース・ナショナル銀行幹部に迎え入れられたりした。 一説には、このシャハトは、第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判に引き出されたとき、「自分は国際決済銀行に代表される、国際金融体制の一員として行動していたに過ぎない。 もしも自分が裁判に掛けられるようなことがあれば、自分は国際金融陣営がヒトラーを背後で操っていたことを示す証拠を公開するであろう」と言って、ニュルンベルク法廷を脅迫したので、アメリカとソ連の裁判官の強い反対を押し切って、無罪放免とされたとも言われている。

第3章  ナチス・ドイツ経済とスイス経済とは密接に結びついていた
第二次世界大戦中、高度技術を駆使したスイスの輸出品はドイツ軍需産業にとっての必需品であり、そのことが、ナチス政権がスイスとの関係を良好に保とうとした理由のひとつになっていた。 スイス産業界は軽砲兵器から爆弾の時限装置に至るまで軍事用品を各種生産し、ナチス・ドイツに輸出していた。 スイスの誇る高度技術がナチス・ドイツの戦時体制を支えていたと語るのは、スイス人歴史家で『スイスとナチス犠牲者の資産』の著者ジャーク・ピカールだ。「実際のところ、スイスはナチス・ドイツの軍需産業に貢献していた。 具体的には、ドイツの兵器に利用できるような高度技術製品を輸出して利益を得ていたのである。 時計がその一例である。 時計というのは陸海空を問わず爆弾の時限装置として、さまざまなものに利用できるのだ」。

ナチス・ドイツ経済がスイス経済と密接に結びつき、スイスの各種企業・法律家に依存しながら運営されていたことは、ナチス・ドイツとスイスとの経済協力関係を解明した『セーフヘイブン報告書』によっても明らかにされている。 この報告書はスイスにあるアメリカ公使館がアメリカ国務長官に送った6ページから成る文書で、この報告書には、スイスがナチス・ドイツの戦争経済に資金を供給した経緯が事細かに記されている。 この報告書によると、ナチス・ドイツはスイス企業358社に資本参加していたという。 そのうちの263社に対して、4億7272万スイスフラン(1949万ライヒスマルク、500万金マルク)を投資していたという。 ナチス・ドイツはスイスの卸売業・小売業・製造業・保険業など、スイス経済全体に投資の手を拡げていた。

アメリカ上院銀行委員会の下で働く歴史家マーク・マスロフスキーは次のように指摘する。「スイスはナチスにとって必要不可欠な存在だったのである。 いわば通貨の倉庫みたいなものだった。 ナチスはごく初期から、スイスの銀行と取引をしていた。 ドイツ経済の担い手であった銀行・ブローカー・保険会社はスイスの企業と手を結んでいた。 要するに、ドイツが必要としていたものはたったひとつ、強い通貨だったわけである。 そして、それを提供できるのはスイス以外にはなく、スイスに手出しさえしなければ、それが得られると、彼らは考えていたのである。 ドイツはスイスを取り引き関係のなかにずるずると引きずり込むことによって、スイスにノーと言えなくさせたのである。 その責任はどちらの側にあるだろうか。 スイスの側である」。

第4章  ユダヤ人団体から訴えられたスイスの銀行
第二次世界大戦中にスイスがドイツから買ったり預かったりした金(gold)の殆ど全ては、ドイツが占領地の銀行やユダヤ人から略奪したものだった。 この金の中には強制収容所で死んだユダヤ人の金歯から取り出されたものも含まれていた。 スイスの銀行は、強制収容所に送られたユダヤ人顧客の口座をヒトラーの要求で凍結し、その事を戦後50年間も黙っていた。

ドイツ軍の攻撃を受けたベルギー政府は、当時ヨーロッパ随一と言われた保有金塊をフランスへ移送した。 ドイツ軍がパリに迫ると、フランス政府はこの金塊を自国所有の西アフリカのダカールへ送った。 フランス降伏後に成立したヴィシー政権の対ドイツ協力によって、この金塊はラクダに積まれサハラ砂漠を縦断し、航空機でマルセイユへ運ばれ、そこからベルリンへ送られ、その大半はスイスの首都ベルンの銀行へ運ばれた。

1996年、アメリカのユダヤ人団体が、ナチスによる被害者の休眠口座の金(gold)の返却を求める集団訴訟をスイスの民間銀行に対して起こした。 その休眠口座には少なくとも3200万ドル相当があると言われた。 ユダヤ人団体の非難はスイスの民間銀行への批判にとどまらず、金塊を買うことでナチス・ドイツに協力したスイス国立銀行への批判、更に、スイスの中立への批判へと、どんどん拡大していった。 この動きに慌てた「スイス・ユニオン銀行」はユダヤ人迫害関係の資料を密かに処分しようとしたが、その事を警備員クリストフ・マイリに告発された。 しかも、ロベルト・ステューダー会長がテレビでこの警備員を非難したので、「スイス・ユニオン銀行の反ユダヤ的な性格が明らかにされた」と見なされ、この銀行は轟々たる批判にさらされた。 因みに、「スイス・ユニオン銀行」はナチスを支援した I・G・ファルベン社の遺産で大きくなった銀行である。

スイスのドラミュラ大統領は任期切れ直前の1996年12月末、「かかる非難は脅迫であり、一種の身代金要求に等しい。 ユダヤ人の要求に屈するな。 スイスに罪はなかったし、我々はサバイバルの正当な権利を持っていた」と言い放った。 この発言をスイスの本音と受け取ったユダヤ諸団体は猛反発して、スイスの銀行に対するボイコットを開始した。 米国の20の州や30の自治体は「スイス銀行制裁決議」をし、ボイコットはスイスの銀行に対してだけでなく、スイスの企業全体に及んだ。 この影響で、1997年1月初旬には「スイス・ユニオン銀行」など主要銀行の株価が急落した。 この動きに驚いたスイス金融界は、3億スイスフランの「ホロコースト基金」を設立し、ナチスによる被害者に慰謝料の支払いを決めた。 一方、スイス政府(新大統領コラー)は戦時中にナチス政権と協力関係にあったことを認め、スイス国立銀行の所有する金塊500トンを売却し、その売却資金で戦争・紛争・自然災害の被害者を援助する「連帯基金」の設立案を発表した(1997年3月)。 そして、スイスの銀行はユダヤ人団体および連帯訴訟弁護団との交渉に公式に応じ、スイスの銀行が12億5000万ドルの賠償金を支払うことで、今後一切この問題を取り上げないことを条件に両者は合意した。

この一連の騒動について、スイス国民の多くは強い不満を抱いた。 1997年に行なわれた『ブリック』紙によるアンケート調査によると、ユダヤ人の要求を「正しい」と受け止めた人が29%だったのに対し、ユダヤ人の要求を「不当だ」と答えた人が44%に上った。 残りの人は「分からない」と答えた。 大方のスイス国民の反応は、謝罪を余儀なくされたドラミュラ大統領の放言についてはスイス人の無邪気さだと受け流す反面、50年以上前の問題を蒸し返すユダヤ人の賠償要求のほうが無理なのであって、多数派社会をいらだたせる分、かえって「反ユダヤ主義」を挑発・強化するだけだと憂慮する声のほうがずっと強かった。

おまけ情報1: 国際決済銀行(BIS)に関する本
第2章で紹介した、ナチスに協力した国際決済銀行(BIS)の戦争責任について、もっと詳しく知りたい方は、ジャン・トレップ著『国際決済銀行の戦争責任 ナチスと手を組んだセントラルバンカーたち』(日本経済評論社)を読まれるとよいだろう。
この本の内容紹介文
<第一次世界大戦の敗戦国ドイツの戦争賠償処理を目的として設立されたBIS(国際決済銀行 Bank for International Settlements)は、第二次世界大戦中、ドイツの戦争経済に協力し、必要な財源確保に加担した。 ルーズベルトは国際決済銀行の解体になぜ最後まで同意しなかったのか。 チャーチルはドイツ打倒の旗を掲げながら、なぜ国際決済銀行の存続を望んだのか。 国際決済銀行が公開した報告文書を基に戦時中の金取引の全容を解明する。 >
現在、国際決済銀行は、各国の中央銀行間での重要な国際金融問題に関する政策協議の場となっている。 また中央銀行からの預金の受け入れなどの銀行業務も行なっており、「中央銀行の中央銀行」とさえ呼ばれている。 国際決済銀行は、日本では1988年に始まった「国際決済銀行規制」でその名が広く知られている。 国際決済銀行規制とは、簡単に言ってしまえば、バブル経済に乗って急速に資産を増やした日本の銀行を標的にした規制で、「日本の金融機関の弱体化」を念頭に入れたアメリカ中心の日本叩きである。 日本の金融機関は、この国際決済銀行規制に縛られて貸し渋りすることになり、ついには日本の経済システムが崩壊する結果となった。 国際決済銀行規制の実態については、『BIS規制の嘘 アメリカの金融戦略と日本の転落』(東谷暁著、日刊工業新聞社)が詳しい。
この本の内容紹介文
<BIS規制は、アメリカのアメリカによるアメリカのための規制だった。 そして、この規制を受け入れた日本が行き着いた先は……。 日本の金融界を地獄の底へと導いた、自己資本比率規制の「実像」を鋭くあばく、注目の1冊。 >

おまけ情報2: 『黒いスイス』(新潮社)
毎日新聞外信部ブリュッセル支局長の福原直樹氏が書いた『黒いスイス』(新潮社)という本は、興味深い情報が詰まった本である。 表紙の裏には、次のような文が書かれてある。「永世中立国、世界有数の治安のよさ。 米国などを抜き、常に『住んでみたい国』の上位に名を連ねる国スイス。 しかし、その実態は──。 『優生学』的立場からジプシー(ロマ族)を殲滅しようと画策、映画『サウンド・オブ・ミュージック』とは裏腹にユダヤ難民をナチスに追い返していた過去、永世中立の名の下に核配備計画が進行、“銀行の国”でまかり通るマネーロンダリング。 独自の視点と取材で次々と驚くべき真相を明かす」。
参考までにこの本の「目次」を載せておく。
第1章: ロマ(ジプシー)の子供を誘拐せよ (ロマの子供1000人以上を誘拐)
第2章:「悪魔」のスタンプ (ユダヤ難民の旅券に押された「J」スタンプ)
第3章: それぞれの戦い──「祖国」と「人道」の狭間
第4章: 中立国の核武装 (核弾頭400個もの配備計画)
第5章: 理想の国というウソ1──「相互監視」社会 (政府が堂々と監視・盗聴)
第6章: 理想の国というウソ2──民主主義社会 (政府公認の麻薬配付施設が20ヶ所以上)
第7章: 理想の国というウソ3──ある政治家との対話
第8章: マネーロンダリング (外国人の税金逃れ預金は約150兆円)

おまけ情報3: 次の2冊もお勧めである。 平和呆けしている日本人にとって、目から鱗が落ちる内容であろう。
『スイスと日本  国を守るということ』 松村劭著(祥伝社)
この本の内容紹介
強国に囲まれたスイスが平和でいられた理由とは。 スイスが守ってきた2つの国是「永世中立」と「民間防衛」について、スイスの国防観と日本の自衛観の違いなど、スイス人が教える「平和の常識」を解説。
第1章: 「永世中立」と「民間防衛」:スイスが守ってきた2つの国是 なぜ戦争がなくならないのか。
第2章: スイスの国防観、日本の自衛観 なぜ日本人の「和の精神」が非民主的なのか。
第3章: スイスが具現化した真の民主主義 なぜスイス兵は最強なのか。
第4章: したたかなスイス人 なぜ「国境が国防線」であってはいけないのか。
第5章: 「海洋国家」と「大陸国家」…それぞれの「国防線」

『民間防衛 あらゆる危険から身をまもる』 スイス政府編(原書房)
この本の内容紹介
この本はスイスの独立と平和を守れるように、スイス政府が編集し、全スイス国民に配布したマニュアル本である。 内容は、戦時中の避難方法から、占領された後のレジスタンス活動方法まで非常に多岐に渡っている。