ナチス・ドイツの原爆開発

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ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアは、オットー・ハーンとヴェルナー・ハイゼンベルクという原爆開発の基礎理論を作ったノーベル賞物理学者に原爆開発の質問をした。 すると、「生産技術的には遅くとも2年後には製造可能だろう」 という返事を得たという。 アルベルト・シュペーアがそれをヒトラーに報告すると、ヒトラーは 「それは既に別の研究機関に任せてある」 と答えたきり、二度と触れようとはしなかったという。 「2200種類にも上るヒトラーとの会談のテーマのうち、たった1回だけ核分裂が話題に上った」 と、アルベルト・シュペーアは書き残している。 ヒトラーは原子爆弾に全く関心がなかったという。

1939年12月に日本からドイツに留学し、ナチス・ドイツの崩壊をつぶさに実見した哲学者・篠原正瑛氏(彼は当時、ギムナジウムで少年たちに日本語を教えていた)は『ドイツにヒトラーがいたとき』(誠文堂新光社)の中で次のように書いている。 「戦後の見方では、『ドイツは原爆の研究を進めてはいたが、技術的にはまだ完成の段階には達していなかった』という意見が大勢を占めているようだ。 しかし、私自身は、あの当時ベルリンで耳にした噂や情報などを総合的に考えてみると、どうもドイツは原爆完成の直前にあったのではなかろうかという気がする」。

なぜ、ヒトラーは原爆に積極的な関心を示さなかったのか。 アルベルト・シュペーアはその手記『ナチス狂気の内幕』の中で、彼が軍需大臣になってから、ヒトラーが新兵器の開発や量産を故意に遅らせ、無意味な失敗を繰り返させたと何度も書いている。 純粋にドイツの勝利の為に全力を注いでいたアルベルト・シュペーアにとって、ヒトラーの態度は全く理解できないものだったという。 また、ヒトラーが原子核物理学をユダヤ的物理学として忌み嫌うようになったのは、ヒトラー崇拝者の一人である物理学者フィリップ・レナード博士が 「ユダヤ人は核物理学と相対性理論で破壊的な影響力を持っている」 と、ヒトラーに教え込んだ所為だという。

ウラン235の核分裂は1938年12月、ナチス政権下のカイザー・ヴィルヘルム研究所のオットー・ハーンにより発見された。 その衝撃的なニュースは、翌1939年1月に学会参加のため渡米したデンマークの原子核物理学者ニールス・ボーアによってアメリカの関係者に伝えられた。 そのニュースは直ちにアメリカ国内に広まり、各地の大学で 「核分裂」 に関する研究が一斉に開始された。 一方、ナチス・ドイツは1939年4月末に原子核分裂の研究を本格化させた。 カイザー・ヴィルヘルム研究所に大型の原子炉が作られた。

ドイツの著名な歴史研究家であるセバスチャン・ハフナー(ユダヤ人)は著書『ヒトラー注釈』の中で次のように述べている。 「ヒトラーの反ユダヤ主義によって、ドイツの科学が被った頭脳の流失は相当のものだった。 アインシュタインを初めとして、ユダヤ人科学者が亡命しただけでなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の同僚や教師のあとについて行った。 そして、それまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科学者も来なくなった。 ヒトラー以前には原子核物理学の研究では世界の中心はゲッティンゲンだった。 それが1933年にアメリカに移った。 ヒトラーの反ユダヤ主義がなかったら、アメリカではなく、ドイツが最初に原子爆弾を開発する国になったかもしれないというのはなかなか興味をそそる推測である」。

結局のところ、ナチスの原爆開発がどの程度まで進んでいたかは不明である。 しかし、戦後、連合国軍が捕らえた科学者たちの証言では、「最も難解な過程」 は乗り越えていたらしい。 イギリス情報局もこの証言を裏付けるような情報を得ていたという。 例えば、次のような情報がある。 「カイザー・ヴィルヘルム研究所で原爆研究を行なっていたドイツ人科学者たちは、戦後イギリスへ連れて行かれ、『ファーム・ホール刑務所』へ一時的に拘留された。 その時、イギリス情報局は当然これらのドイツ人科学者の監房に盗聴器を仕掛けておいた。 1945年8月6日に広島に原爆が落とされた時、そのニュースはラジオを通じて、これらのドイツ人科学者たちにも知らされた。 彼らの反応が興味深かった。 彼らは盗聴されていることを知らず、広島に落とされた原爆について色々な反応を示したが、ひとつだけ一致した反応があった。 それは 『なぜ、ドイツが作った原爆が日本に落とされたのか』 という驚きの反応だった。 これによってイギリス側はドイツの原爆開発が如何に進んでいたかをつかんだのである」。

追加情報1:  ウィキペディア(Wikipedia)に 「リトルボーイ」 について次のように書かれている。
リトルボーイ (Little Boy) は、第二次世界大戦においてアメリカ軍が広島市に投下した原子爆弾のコードネームである。 これは人類史上初めて実戦で使用された核兵器である。
■概要
全長3.12m、最大直径0.75m、総重量約5t。 番号はMk.1。 ウラン235を用いており、パイプの両端に置かれたウラン235の塊の一方を火薬の爆発力でもう一方のウラン塊にぶつけ、臨界量を超過させて核爆発させるというガンバレル型である。 (ガンバレルとは銃身のこと)。 積載されたウラン50kgのうち1kgが核分裂反応を起こしたと推定されている。 核出力はTNT換算で約15ktである。
■開発
ガンバレル型の原子爆弾がどのように設計されたのかはいまだに機密扱いであり、公表されていない。 リトルボーイはナチス・ドイツ製、もしくはそのコピーであったのではないかという噂がある。
■実験
1945年当時、この方式を検証する為の大気圏内での核実験は行なわれなかった。 大気圏内での核実験による検証を経たのは、プルトニウムを使った爆縮方式のものが1945年7月16日、アメリカ・ニューメキシコ州アラモゴード近郊のアラモゴード爆撃試験場(現:ホワイトサンズ・ミサイル実験場内 「トリニティ・サイト」)で行なわれたのみである。 これは一般には、既にウラン235を使った核分裂実験が原子炉内で行なわれていた為、大気圏内での核実験による検証が不要であったとされているが、実際は大気圏内での核実験を行なうことで高濃縮ウランが不足し、この方式の原子爆弾の戦線への投入に遅れが生じることをアメリカ軍が嫌ったというのが真相のようである。
■安全性
ガンバレル型の原子爆弾は安全性に大きな問題を持つ為、作られなくなったと言われている。 完成したガンバレル型の原子爆弾は、推進爆薬が点火されると必ず核爆発を起こしてしまう構造になっており、安全装置がない。 その為、ガンバレル型の 「リトルボーイ」 を搭載したB-29が墜落したり、何かのミスで 「リトルボーイ」 投下前に推進爆薬が点火されるなど、万が一の場合に備え、「リトルボーイ」 を搭載したB-29に原爆の技術者を同乗させ、その者が 「リトルボーイ」 投下の直前に手作業で爆弾内に推進爆薬を詰めこむという安全対策が採られたほどである。

ガンバレル型の原子爆弾は、たとえ推進爆薬が無くても、弾頭部が標的に突入すれば、そのときの衝撃によって、2つのウラン塊が合体し、核爆発の起きる可能性が十分に高く、海中に落下すれば、爆弾内に流入した水が変調装置として働き、臨界状態になる可能性があり、周囲一帯を危険地域として閉鎖せざるを得なくなる。 これらの危険性を排除する為の安全装置の開発は不可能であるとされ、ガンバレル型の原子爆弾は製造されなくなった。

追加情報2:  2005年3月16日の東京新聞朝刊に興味深い記事が掲載された。
「ナチスが核実験」 独歴史家が新説【ベルリン=熊倉逸男】(東京新聞 2005年3月16日)
ナチス・ドイツが核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施していた──との新説を紹介した本『ヒトラーの爆弾』が14日、ドイツで出版され、信憑性をめぐり論議を呼んでいる。 著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナー・カールシュ氏によると、ナチスは1944年から45年にかけてベルリン近郊に原子炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。 1945年3月3日、ドイツ東部チューリンゲンで核実験を行なった。 被害は半径約500mにわたり、近くの強制収容所の収容者ら約500人が犠牲になった。 開発は、ヒトラーらナチス指導層も承知していたという。 新たに発見された旧ソ連軍の史料や証言記録、実験場所とされる土壌から放射能が検出されたことなどを 「核実験説」 の根拠としている。 ドイツでは1930年代から核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチスの核兵器保有を懸念した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した──というのがこれまでの定説だった。 独メディアは新史料発見を評価する一方、「核実験説」 の説得力不足を指摘している。

ライナー・カールシュは主にロシア・旧東ドイツ・西側などの公文書館で発見した 「新史料」 に基づいて、この本を書いたとのことである。 ナチス・ドイツが核兵器を実戦に投入しなかった理由は、量産が困難だった為と、起爆装置と運搬手段に重大な問題が残されていた為であるという。

追加情報3:  2005年6月3日の東京新聞に再び興味深い記事が掲載された。
「ナチスの核兵器 図面あった」 独の歴史家らが発表【ロンドン=岡安大助】(東京新聞 2005年6月3日)
第二次大戦中にナチス・ドイツが開発した核兵器の図面を発見したと、ドイツの歴史家らが1日発表した。 実際に組み立てられたかは不明。 実用化の段階に達していたとは言えないが、これまで考えられていたよりナチスの研究は進んでいたとしている。 発表したのは、ベルリンに拠点を置く歴史家ライナー・カールシュ氏ら。 英科学誌『フィジックス・ワールド』6月号に掲載された論文によると、図面はドイツかオーストリアの科学者が1945年5月のドイツ降伏後、個人的に書いたとみられる文書の中から見つかった。 この文書は核開発に関するリポートだが、タイトルや執筆した日付は記載されていない。 カールシュ氏らは『水爆研究に取り組んでいたことは明らかだ』と指摘している。 同氏は今年3月、旧ソ連軍の史料などを基に著書『ヒトラーの爆弾』を出版。 ナチス・ドイツが核実験をしていたという新説を主張し、信憑性をめぐって論議を巻き起こした。 これまでは、ドイツの核開発は1930年代から進められたが、ナチスは兵器化に熱心でなく、米国が先んじて原爆を開発したとされている。