ナチスとバチカンとの関係

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第1章  初めに
ヒトラーが政権を取ってから数年間、ヒトラーには国際的に高い評価が下されていた。
「ドイツ元首ヒトラーが共産主義ならびに虚無主義とあくまで戦う決意の人であることを認め、喜びにたえない」(ローマ教皇ピオ11世)
「ヒトラーの成功はボルシェビズムに対する防衛の強化である」(イギリス『デイリーメール』)
「結局、ヒトラーの善意は保証できる」(アメリカ『ニューヨークタイムズ』)
アメリカの雑誌『タイム』は1923年に創刊されたアメリカの週刊誌であり、世界初の「ニュース雑誌」としても知られている。 この雑誌が毎年決定する「パーソン・オブ・ザ・イヤー」の第12回目(1938年)の受賞者はヒトラーだった。
こうした評価の裏には当然理由があった。 バチカンはナチス政権を承認し支持した。 また、ナチス政権はその反共主義によりソ連に敵対することが期待された。

第2章  ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を黙認したローマ教皇ピウス12世
キリスト教会は「ユダヤ人がイエス・キリストを殺した」として、「神殺し」の汚名をユダヤ人に着せてきた。 そして、キリスト教誕生以来、ユダヤ人はキリスト教徒からの激しい迫害に曝されてきた。 中世ヨーロッパでの異端審問・強制改宗や、近世ヨーロッパでのゲットー(ユダヤ人集団隔離居住区)などの基となった反ユダヤ感情はキリスト教会によるところが大きいとされる。 バチカン(ローマ教皇庁)はナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に対しても積極的な反対行動を起こさず、当時のローマ教皇ピウス12世(在位 1939年〜1958年)はナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に目をつぶった。 正統派ユダヤ教指導者のナフム・ラコーバー師はローマ教皇ピウス12世の責任を追及して、次のように言った。「ただ『するな』、それを言うだけでよかった。 それだけで数十万人、否、数百万人のユダヤ人が死を免れただろう」。 ローマ教皇ピウス12世の対応によりユダヤ人迫害の犠牲者が増えたと考えるユダヤ人は多い。

つい最近、バチカン(ローマ教皇庁)は、カトリック教会がナチス・ドイツによるユダヤ人迫害からユダヤ人を救えなかったことを遺憾とする文書を発表した。「われわれは忘れない、ホロコーストへの反省」と題された文書は過去の反ユダヤ主義に対する謝罪を含んでいたものの、ローマ教皇ピウス12世を擁護した部分もあり、イスラエルのユダヤ教指導者から反発の声が上がった。

第3章  ナチス政権とバチカンとの間で結ばれた「政教条約」
カトリック教会の総本山バチカン(ローマ教皇庁)は世界中に10億人の信者を持つ。 ナチスとバチカンとが結びついた理由は複数ある。 その理由の1つ目はナチスとバチカンとが共に反ユダヤ主義を有していたという点である。 ナチスが唱えた反ユダヤ主義というものはナチスの専売特許ではないし、突然ヨーロッパで吹き荒れたものでもない。 反ユダヤ主義は西欧キリスト教文明の核(中心部)である。

16世紀のベネチアに世界で初めて「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人集団隔離居住区域が設置された。 ローマ教皇パウルス4世がセム系ユダヤ人にゲットー内への居住を強制した。 その後、ゲットーは急速にヨーロッパ各地へ広まり、約300年間存続した。 ゲットーは高い塀で囲まれ、ゲットーの内と外との行き来はただ1つの門を通して行なわれた。 そして、その門が閉められるときには、門の扉はゲットーの外から施錠され、その鍵はキリスト教徒の門番が保管した。 ゲットー内にはシナゴーグや学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と高い宗教文化が保たれた。 『ヴェニスの商人』は1597年頃に書かれた戯曲である。 この戯曲はシェイクスピアの作品の中では「喜劇」のカテゴリーに入っているが、驚くほどユダヤ人を差別している表現が多く、反ユダヤ感情を煽る内容になっている。 そして、当時の芝居では、こういうユダヤ人の扱いは普通だった。

キリスト教会はユダヤ人について「イエス・キリストを裏切った所為で永遠に国家を持てずにさまようように罰せられたユダヤ人に同情するのは誤りだ」と主張し、カトリックもプロテスタントも反ユダヤ的であった。 キリスト教という厚い土壌があったからこそ、ヒトラーの反ユダヤ主義は枯れ野に火を放ったように爆発的に広がったのである。 しかし、バチカン(ローマ教皇庁)は最初からナチスを支持していたわけではなかった。 当時、両者は互いに一定の距離を保ちながら、牽制し合っていた。 1918年からヒトラーが政権を取るまで、ドイツのカトリック政党「中央党」は全ての内閣で重きを成していた。 当時のドイツ国内のカトリックはドイツ国民の約3分の1を占めており、ドイツ・カトリック司教団は信者たちに選挙で「中央党」を選ぶように勧め、ドイツ・カトリック司教団の司教たちは「中央党」の役職に就いていた。 ナチスは1928年頃まで弱小であったが、 ナチスは「中央党」のライバルであったので、この当時のドイツ・カトリック司教団は「ナチス党員にはカトリック教会の秘蹟を授けてはならない」と決定するなど、反ナチス的であった。 しかし、1931年にバチカンで出された回勅(ローマ教皇ピオ11世が1931年に全世界の司教に出した通達)『クワドラジェジモ・アンノ』で説かれた「国家有機体思想(国家を1つの生物のように見なし、その成員である個人は全体の機能を分担するものであるとする国家観)」がドイツ国民に大きな影響を与えた。 この回勅を機にナチスとドイツ国内のカトリックとは互いに接近し始めた。 1932年6月にドイツの首相になったフランツ・フォン・パーペンはこの回勅で説かれた「国家有機体思想」に強く感銘した。 ヒトラーが1933年1月30日にドイツの政権を握った背景には、このパーペンの助けがあったとされる。 そして、2ヶ月後の1933年3月、ローマ教皇ピオ11世(在位 1922年〜1939年)は枢機卿会議でナチス政権を承認する見解を表明した。 これと同じ日に、「中央党」は悪名高い「授権法法案」に賛成し、その結果として、ワイマール憲法は無力化した。 そして、数日後、ドイツ・カトリック司教団はドイツ国内のカトリックにナチス党員になることを禁じていた指示を撤回した。 こうして、カトリックという最大の支持層を獲得したナチス政権は、労働組合禁止(1933年5月)、ドイツ社会民主党の活動禁止(1933年6月)、ナチスを除く全政党の解散(1933年6月)、新政党設立禁止令(1933年7月)と、驚くべきスピードで独裁を完成させた。 更に、1933年7月20日、ナチス政権とバチカンとの間で歴史的な「政教条約」が結ばれた。 これにより、ナチス政権はドイツ国内のカトリックを弾圧しないことを保証し、カトリック教会側は、聖職者と宗教とを政治から分離することに同意した。 そして、バチカンはナチス政権を祝福すると同時に、ナチス政権に忠誠を誓うことを聖職者に命じた。 ナチス政権がバチカンとの間で「政教条約」を結んだことはナチス政権の評価を国際的に大きく高めた。「政教条約」成立から2日後の7月22日、ヒトラーはナチス宛の書簡において、次のように述べた。「バチカンが新しいドイツと条約を結ぶということは、カトリック教会による国家社会主義国家(ナチス政権)の承認を意味する。 この条約によって、ナチズムが反宗教的であるという主張が正に偽りであることが全世界の前に明らかになったのである」。

第4章  ナチス政権とバチカンとの対立
バチカンは国際社会の中で最初にナチス政権を承認した。 しかし、ヒトラーはバチカンとの間で結ばれた「政教条約」をいい加減にしか守らなかった。 ヒトラーはベルリンオリンピックが開かれた1936年にカトリック教会の青年運動と労働運動を禁止した。 更に、ナチスのイデオロギー面での責任者アルフレート・ローゼンベルクの指揮のもとに本格的なカトリック狩りが始まった。 このナチスの動きに対してローマ教皇ピオ11世は1937年に2つの重大な回勅を相次いで出した。 1つ目は『ディヴィニ・レデムプトリス』(天主たるあがない主)で、これは無神論共産主義に対する有罪宣告である。 2つ目は『ミット・ブレンダー・ゾルゲ』(身を焼かれる憂いをもって)である。 2つ目はドイツにおけるカトリック教会の悲惨な状況を述べ、ナチズムを“新興邪教”として非難するものであり、特に人種・民族・国家の神聖化は最もひどい退行であるとし、更に、ゲルマン民族主義的ドイツ風キリスト教の教義は全て野蛮な邪説であると断定した。 ナチス・ドイツは2つ目の回勅に対し、弾圧を強めて応じた。 回勅を印刷したドイツ国内の印刷所は接収され、カトリックの聖職者や修道士は次々に裁判に掛けられ、高位のカトリック聖職者は強制収容所に投げ込まれた。 しかし、ヒトラーとバチカンとの対立は第二次世界大戦が始まると同時に中断した。 1941年6月、ナチス・ドイツ軍がソ連に侵攻すると、ローマ教皇ピウス12世はこれを全面的に支持はしないものの、「キリスト教文化の基盤を守る高潔で勇気ある行為」と論評した。 (ローマ教皇は1939年3月にピオ11世からピウス12世に替わった)。 ドイツのカトリック教会の中には、この侵略を「ヨーロッパ十字軍」として支持するものまであった。

ヒトラーの妻であったエバ・ブラウンは、1942年の冬に書いた日記に次のような興味深い記述を残している。 この日記の内容から、ヒトラーやナチス幹部がバチカンについて、どのように考えていたかが分かる。 簡単に紹介しておく。
「あの人(ヒトラー)は、あのときはまさに烈火のごとく怒った。 あれはローゼンベルク相手にカトリック教会の問題について話していたときだった。 ローゼンベルクが『カトリック教会の聖職者たちを牢獄に送り、ローマ教皇を幽閉すべきではないでしょうか』と進言したとたん、あの人は『おまえは教皇の座を狙っているのか』と言って、突然、怒りだした。 何の前触れもなかった。 本当に激しかった。 『おまえのような男が東方地域を担当するから、経済が悪化するのだ。 おまえは敗戦から何を学んだのだ』と叱りつけた。 ローゼンベルクは青ざめていた。 一言も発しなかった。 あの人の怒りは収まらなかった。 『ゲーリングはバチカンヘの爆撃を言い出し、おまえは教皇の逮捕を言い出す。 なんとも役に立たない連中ばかりそろっている』と罵った。 ローゼンベルクが『総統…』と言って口をはさもうとすると、あの人は『いま必要なことは教会を排撃することではなく、争わずして従わせることだ。 今後、教会の問題はヒムラー(SS長官)に任せる。 聖職者を監視下におき、必要とあれば、監禁する、あるいは利用する』と言った。 あの人の怒りは本当に激しい怒りだった」。

また、ヒトラーはソ連とボルシェビズム(レーニン流の共産主義)をひどく嫌っており、死の直前まで次のように述べていたという。「イギリスはドイツを攻撃しドイツの破滅を謀っている。 自分はボルシェビズムの最後の防衛壁である。 もし、自分がいなかったら、誰がボルシェビズムの脅威を防ぎ、ヨーロッパの文化を守ることができるか。 イギリスは必ず後悔するだろう」。 ヒトラーはロシア革命を「ユダヤ・ボルシェビキ」による革命だと見なしていた。

第5章  反ナチズムより反共主義を優先したバチカン
ナチスとバチカンとが結びついた理由の2つ目はボルシェビズムがキリスト教を初めとする宗教を公然と迫害し消滅させようとした点である。 バチカンでは反ナチズムより反共主義が優先された。 尤も、バチカンがナチスに近づいたのは、ドイツ国内のカトリック聖職者がユダヤ人と同じ境遇に落とされるのを憂慮したからだという見方も成り立つ。 バチカン自体が破壊される恐れも十分にあった。 しかし、権謀術数の府の最高権威者であるローマ教皇は、ナチズムよりも共産主義のほうが遥かに危険で有罪だと見なしていたに違いない。 このことに関して、教会史に詳しいK・V・アーレティンは著書『カトリシズム・教皇と近代世界』の中で次のように語っている。「ローマ教皇は、ナチスのユダヤ人迫害に抗議することは無意味で、むしろ、ナチスに抗議することはドイツ国内のカトリックを更に苦しい立場に追いやる、と考えていた。 外交官出身のローマ教皇ピオ11世は、そのような抗議によってローマ教皇庁の中立性が失われることも恐れていた。 保守的なローマ教皇ピオ11世が最後までヨーロッパ最大の危険と見ていたのはソ連の共産主義であり、外交交渉による西欧での和平の確立によって、東欧が共産主義化しないように出来ると考えていた。 従って、彼はナチス・ドイツとの外交関係が断絶されないように全力を尽くしたのである」。

第二次世界大戦中、カトリック聖職者の全てがナチスに無批判だったというわけではない。 ユダヤ人を救助したカトリック聖職者は沢山いた。 彼らの必死の救助活動のお陰で助かったユダヤ人は沢山いた。 しかし、バチカンの上級幹部が公然とナチスを非難することはなかった。 『ユダヤ教民族史』の著者S・エティンガーは次のように語っている。「諸国の修道院において、かなりの数のカトリック聖職者がユダヤ人を救助した。 一般的に言って、ナチスの政策に抵抗したカトリック聖職者はカトリック教会の下級層に集中しており、救助活動は個人的であった。 これと対照的に上級のカトリック聖職者は沈黙を守り、このレベルにおいてユダヤ人全体のために介入しようという試みはほとんどなされなかった。 ローマ教皇庁の態度はよく知られている。 この時期を通じてユダヤ人迫害に対してローマ教皇庁は何の反応も示さなかった」。

第6章  戦後、ナチス逃亡者を助けたバチカン
第二次世界大戦後、ナチスとバチカンとの関係は良好であった。 バチカンは戦犯ナチ党員の逃亡を助け、彼らをアメリカや南アメリカ諸国に送った。 戦犯ナチ党員の南アメリカ逃亡ルートは、16世紀に結成されたカトリック組織「イエズス会」が切り開いたものだった。 大航海時代、スペイン軍とともに南アメリカ大陸にたどり着いたイエズス会士たちは原住民への教化・洗脳によって勢力を拡張し、原住民たちのキリスト教信仰を確立する為の「原住民教化集落」を次々と建設していった。 それはさながらキリスト教的理想郷「神の王国」を実現しようとする壮大な社会実験のようであった。

ナチス幹部の1人はカトリック宣教師ファン・ヘルナンデス名義のパスポートで南アメリカに逃れたことが確認されている。 パラグアイにはナチスの落人部落が沢山ある。 それは、イエズス会がパラグアイで「原住民教化集落」建設を大々的に進めたことによっている。 また、当時のアルゼンチンのペロン政権はナチス支持を公式に表明していた為、ナチスの逃亡先として南アメリカが選ばれたのは自然の成り行きだった。

1947年5月のアメリカ国務省の機密情報報告には次のように述べられている。「ローマ教皇庁は、出国者の非合法な動きに関与する唯一最大の機関である。 この非合法な通行にカトリック教会が関与したことを正当化するには、布教活動と称するだけでよい。 カトリックであることを示しさえすれば、国籍や政治的信条に関わりなく、いかなる人間でも助けるというのがローマ教皇庁の方針なのだ。 カトリック教会が力を持っている南アメリカ諸国の政府はローマ教皇庁の意向を受け、元ナチ党員であれ、ファッショ的な政治団体に属していた者であれ、反共産主義者であれば、喜んで入国を受け入れるようになった。 現時点のローマ教皇庁はローマ駐在の南アメリカ諸国の領事館の業務を行なっている」。

イギリスの『ガーディアン』紙のアルゼンチン通信員であるウキ・ゴーニは、ナチス逃亡者とカトリック教会との関係について次のように述べている。「のちにローマ教皇パウロ6世となったジョバニ・バッティスタ・モンティーニ、その他多くの枢機卿がその影響力を行使してナチス逃亡者に対する援助活動に道を開き、ときには病的なまでの反共姿勢によって、少なくともそれを道徳的に正当化した。  〈中略〉  アロイス・フーダルやシリのような司教・大司教が最終的に必要な事柄を進めた。 ドラゴノヴィッチ、ハイネマン、デメーテルといった神父がパスポートの申請に署名した。 こうしたことが明白に証明されているからには、ローマ教皇ピウス12世がそれらの事を知っていたかどうかなどという問題は取るに足らないものであるばかりか、馬鹿馬鹿しい問題である」。

大戦中にナチスによるユダヤ迫害を逃れてイスラエルで育ったユダヤ人作家のマイケル・バー・ゾウハーは著書『復讐者たち ナチス戦犯を追うユダヤ人たちの戦後』の中でナチス逃亡者とバチカンについて次のように述べている。「1948年から1953年にかけて、ドイツにはかなりの数の地下組織が存在していた。 シュピネ、オデッサ、シュティレ・ヒルフェ、ルーデル・クラブ、ブルーダーシャフト、HIAGなどで、その全てが多少なりとも秘密組織の形態をとり、逮捕されるのはいつかと恐れている者たちに大々的な支援を与える体制を整えていた。 産業資本家を初めとして、銀行家、元陸軍将校、詳しいことは何も知らない一般大衆も、これらの組織の運営に必要な資金の調達に巻きこまれた。 偽名を使ってドイツ国内に潜伏中の何千というナチス戦争犯罪人は、終に庇護を求められる場所が出来たことを知った。 裁判に掛けられる者がでると、地下組織は最高の弁護士による弁護を依頼し、裁判官たちに圧力をかけ、ときには、不都合な証人を消すことさえあった。 そして、裁判結果が被告にとって不利なものとなった場合には、国外逃亡の準備を整えた。 バイエルンやイタリアの赤十字の職員の一部はナチス逃亡者の不法越境に手を貸した。 それ以上に驚くべき事実は、“カリタス”などの宗教団体に所属する者や、フランシスコ会やイエズス会などがナチス逃亡者を助けたことである。 ナチス逃亡者は抜け目なくカトリック僧侶たちの慈愛の精神に訴えた。 ローマ教皇としてピウス12世が選出されて以来、勢力を拡張した“バチカンのドイツ派閥”とナチスとの間には常に最良の関係が保たれていた。 このドイツ派閥の指導者の一人が大司教アロイス・フーダルだった。  〈中略〉  1947年から1953年までの間、“バチカン援助ルート(修道院ルート)”が、ドイツから他国へ逃亡する為のルートの中で、最も安全、かつ、最もよく組織されたルートだった」。

アロイス・フーダル大司教は1885年生まれのドイツ人で、ナチス体制の擁護者として名高い存在だった。 戦争が終わると、アロイス・フーダル大司教はカトリック教会をナチス逃亡者の隠れ家として提供するようにローマ教皇庁を動かした。 アロイス・フーダル大司教の援助活動の対象はナチス逃亡者だけではなかった。 スターリンの容赦ない弾圧にあえぐクロアチアの民族主義者たちにもアロイス・フーダル大司教は支援の手を差し伸べた。 ナチス逃亡者やクロアチアからの逃亡者はカトリック教会を頼ってイタリアへ落ち延びた。 ローマ教皇庁は彼らに偽名の難民パスポートを発行するなどして、主に南アメリカへの逃亡を支援した。