戦後も生き続けたマルティン・ボルマン

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● 初めに
1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及する為に連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」では、起訴されたA級罪の被疑者22名のうち、半数の11名が「A級罪を犯した」との有罪判決を受け、絞首刑を宣告された。「A級罪を犯した」との有罪判決を受け、絞首刑を宣告された者の中で、ただ1人逮捕を免れた大物がいる。 その人物はマルティン・ボルマンである。 マルティン・ボルマンは1945年5月1日に、ソ連軍に包囲されていたベルリンから忽然と姿を消した。 彼が残した最後の日記には「5月1日 逃亡の試み」と記されていた。 マルティン・ボルマンはヒトラー側近のナンバーワンであり、ドイツの敗北直前まで総統秘書長、且つ、副総統、且つ、ナチ党官房長として絶大な権力を振るっていた。 マルティン・ボルマンが握っていた権力は、ニュルンベルク裁判でA級罪の被疑者として起訴された22名が握っていた権力の中で最高のものだった。 戦後、彼はあちこちから賞金を掛けられ、ヨーロッパの至る所で彼を捜索する動きがあり、ベルリンで死んだとか、南アメリカに逃げて匿われているとか、ソ連に連行されたとか、様々な情報が飛び交い、謎が謎を呼んだ。 新聞で何度か「マルティン・ボルマン逮捕」の記事が出たが、警察が逮捕した人物はいずれも別人だった。 南アメリカにおける誤認逮捕だけでも16回に上る。
マルティン・ボルマン

第二次世界大戦中にナチスによる迫害を逃れてイスラエルで育ったユダヤ人作家のマイケル・バー・ゾウハーは著書『復讐者たち ナチ戦犯を追うユダヤ人たちの戦後』の中で、ユダヤ人による「ナチ狩り」を克明に記録し、マルティン・ボルマンの逃亡について次のように記している。「ベルリンでの戦いが終わった時、ソ連軍第5師団の兵士たちはスパンダウまで来て、一台の破壊された戦車に行き当たった。 その戦車のそばに長い革ジャケットを着た一人の男が死んでいた。 その男のポケットの中に一冊の小さな本があった。 それはヒトラーの片腕でありナチ党のリーダーの中でも最も抜け目がないと言われていたマルティン・ボルマンの日記帳だった。 しかし、その死体はマルティン・ボルマンではなかった。 これはすぐに判明した。 しかし、日記の初めには確実にボルマンの字で『5月1日、逃亡の試み』と書かれてあった。 後にマルティン・ボルマンのオフィスで、明らかに彼が焼却を怠った電報が見つかった。 『1945年4月22日。 海の向こうの南地帯に分散することに同意、署名ボルマン』 これら2つの文は明確にボルマンの南アメリカへの逃亡の意向を表わしており、その計画を5月1日、実行に移したことを示している」。

『ナチスを売った男』という本が1997年に出版され、大きな話題を呼んだ。 この本を書いた人は元イギリス諜報部員のクリストファー・クライトンである。 正直に言って、驚くべき内容の本である。 クリストファー・クライトンは「マルティン・ボルマンは戦後も生き続けた」と断言する。 ここから下はこの本の要約である。 登場人物の説明や前後の流れ、出来事、細かい部分などはどんどん飛ばして、ポイントとなる部分だけを大雑把にピックアップしたので、読みにくいかも知れないが、ご了承いただきたい。

元イギリス諜報部員クリストファー・クライトンの告白
● ジェームズ・ボンド作戦
連合軍がナチスの生き残りを探索する中、イギリスのチャーチル首相の関心は、ナチスがヨーロッパ諸国から略奪した莫大な資産にあった。 最大の問題は、ナチスの指導者たちが隠匿した現金・ゴールド・宝石・美術品・不動産証書を連合国が如何にして奪還するかであった。 ヒトラーの腹心たちはこれらの財産をドイツ降伏後の自らの生活資金として隠匿しようとしていると、チャーチル首相は信じていた。 チャーチル首相から「ナチスの資産隠匿計画を阻止し、資産のありかを突き止めて、可能な限り奪還せよ」という指示を受けたイギリス情報局のデズモンド・モートン長官は1945年1月21日に「ジェームズ・ボンド作戦」を立案した。 この作戦の総指揮者はイアン・フレミング中佐で、現場指揮者はこの本の著者であるクリストファー・クライトンである。

イアン・フレミングは第二次世界大戦中、イギリス海軍諜報部に中佐として勤務し、スパイ活動に従事し、戦後は、新聞社の外信部長を務めた後、それまでのスパイ活動の経験をもとに作家に転じた。 彼は「007/ジェームズ・ボンド」シリーズの生みの親である。

なぜ作戦名が「ジェームズ・ボンド作戦」なのか。 その理由についてクリストファー・クライトンは次のように説明している。「『ジェームズ・ボンド』という名前は、フレミングが実在の人物から無断で借用した名前だった。 1944年11月にカリブ海に旅行したおり、フレミングが見つけた古典的な鳥類学の本『西インド諸島の鳥類のフィールドガイド』の著者の名前だった。 戦後、フレミングが創作した主人公をジェームズ・ボンドと名付けたとき、「その名前は自分が考えつくもっとも平凡で退屈な名前だ」と彼は主張したが、実際にはそれより前の1945年の時点で、彼の心にはこの名前しかなかったのである。 我々の間では、その名前は直ちに短縮され、「JB」と呼ばれた。 その瞬間から身内でジェームズ・ボンド作戦について話すときや文書の公印にこの暗号文字だけが刻まれることとなった」。

クリストファー・クライトンらは身分を偽って、ドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップに会い、次にマルティン・ボルマンと会見した(1945年3月13日)。 その後、1945年4月下旬、クライトンらはマルティン・ボルマンに再び接触した。 場所はベルリンのドイツ外務省庁舎の裏手にある地下壕だった。 しかし、数日後(正確には4月30日)、クライトンらの正体はマルティン・ボルマンにばれてしまい、ナチス親衛隊将校2人を従えたボルマンと、非常に緊迫したやりとりがあった。 クライトンは、この時の緊迫したやりとりについて、次のように語っている。
ついに必要な書類が手に入った」と、ボルマンは手にした書類をこれ見よがしに振り回した。 それは私に関するデータだった。 そこには、私がイギリス側の二重スパイとして活動していること、ドイツ側に寝返った脱走兵なんかではなく、イギリス海軍士官であることが明記されていた。「で、この男はどうなんだ」と、ボルマンはさらに詰め寄った。「この君の友人は? ボンド卿と呼ばれているようだが、この男も海軍士官かね」。 ナチス親衛隊将校2人が持つ2丁の拳銃は、どちらかと言うと私に向けられていた。 少しずらすだけでフレミングも射程に入る。 しかし、バーバラ・ブラビノフはノーマークだった。 どうやら敵は彼女を単なる通訳としか見なしていないようだった。 これがナチス親衛隊将校2人の命取りとなった。 質問に答える代わりに私は再度鼻を鳴らした。 瞬く間に、バーバラ・ブラビノフが38口径スミス&ウェッソンを抜き、左手で撃鉄を起こすと、腰の位置から2発撃った。 彼女の撃った弾はナチス親衛隊将校2人の利き腕を打ち抜いた。 狭い部屋の中に轟く2発の銃声は耳をつんざき、硝煙の臭いが充満した。 私も敵に体勢を立て直す間を与えずに拳銃を抜き、ボルマンに照準を合わせた。 相手はすぐにうなずき、敗北を認めた。 怪我をしたナチス親衛隊将校2人は腕を押さえてうめいていたが、ブラビノフの早わざと正確さに度肝を抜かれているようだった。 フレミングと私には意外な展開ではなかった。 彼女の腕前はバーダムで幾度も目にしていたからだ。 ここで、フレミングが突然、流暢なドイツ語で話し始め、我々3人が海軍士官であることを明かした。 次いで、自分が、マルティン・ボルマンをベルリンから脱出させイギリスに移送するという作戦の指揮官であり、イギリスに渡った暁には、完全に身の安全が保証され、余生を快適に暮らせるだけの金が与えられると説明した。 答えは2つに1つ、この場で死ぬか、それとも我々と一緒に来るか。 少しの間、ボルマンは我々の方をじっと見ていた。 フレミング、私、後ろの壁。 もちろん、我々にはボルマンを殺す気はさらさらなかったが、相手はそんなことを知る由もない。 ボルマンは生死の瀬戸際に立たされていたのだ。 マルティン・ボルマンが口を開いた。 それは挑むような口調だった。「交換条件は何だね」。 フレミングがこの質問に答えた。 ナチスはドイツ国外において、現金・ゴールド・宝石・美術品・不動産証書などを奪ってきた。 そして、それらは今マルティン・ボルマンの管理下にある。 こうした財産すべての割り出しと移譲にマルティン・ボルマンが全力を挙げて協力し、加えて自身の生活やナチス政権の統治について、イギリス側が尋問することに詳しく答え、その実態を明らかにする事に手を貸すことが交換条件であった。 今度は何のためらいもなく返事が返ってきた。「わかった。 協力しよう」。 そこで我々は銃をホルスターにしまい、ボルマンは入口に歩み寄って、ドアを開けると廊下に向かって大声で部下を呼んだ。 すぐに彼直属の将校が2人やってきて、直立不動でナチ流の敬礼をした。 ボルマンが1人に何やらささやくと、彼ら2人は撃たれたナチス親衛隊将校2人を部屋の外へと急き立てた。 傷を負ったナチス親衛隊将校2人の運命は誰の目にも明白であった。 生かしておくには、多くを知りすぎていた。

● ベルリンからの脱出
ベルリンからの脱出は1945年5月1日火曜日の夕刻に決行された。 この作戦には、イギリス海兵隊コマンド部隊員、イギリス海軍婦人部隊員、ドイツ自由戦士軍の男女工作員、アメリカ海軍と戦略情報局(OSS)とに所属するの婦人大尉が参加した。 クライトンは次のように語っている。
移動手段はカヤックまたは軍用カヌーが最適である為、この作戦の立案段階から、ベルリンからの脱出は水上を中心に行なうことに決まっていた。 マルティン・ボルマンと拉致グループの一行はシュプレー川とハーフェル川を密かに下り、更に、エルベ川を下り、前進中の連合国軍と合流する。 我々には、こうした作業をこなすことの出来る人材も機材も経験もあった。 フレミングとブラビノフと私は脱出の際の服装として防水ジャケットと防水ズボンとを着用し、ソビエトの特殊諜報部の記章を付けた。 ただし、帽子と外套はナチス親衛隊のものにした。 地下壕の周辺では、正体がばれる可能性をこの身なりで最小限に食い止められる。 一旦カヌーに乗り込んだら、もしくは、ソ連軍に遭遇したら、外套を脱ぎ捨てればよい。 雑嚢の中には兵卒に変装するときの為に、イギリス海軍やアメリカ海軍やドイツ国防軍の制服が入っていた。 ボルマンの替え玉としてオットー・ギュンターという男が連れて来られた。 彼は頭に包帯をしていたが、ドイツ国防軍の兵卒用制服を着て、黒の革コートを肩から掛けていた。  〈中略〉  偽造した身分証明書をフレミングがボルマンに渡した。 これには偽名とナチスの下級職員である旨が記されていた。 ボルマンはフレミングから身分証明書を受け取ると、満足した様子であった。 本物の身分証明書と遺言状の扱いについては、無事、連合軍の手に渡るまで我々が預かり、水や火や爆発にも耐える頑丈なケースに入れておくと説明した。 地下壕からの脱出に際してはボルマンが先導した。 彼は小ぶりのサングラスをかけ、帽子を目深にかぶっていた。 ブラビノフがその横に並び、続いてフレミング、その後ろに巨体のルートヴィヒ・シュトゥンプフェッガー医師が続いた。 彼はヒトラーのお抱え医師であるが、ひょんなことから我々と一緒に脱出することになった。 シュトゥンプフェッガーの後ろにはオットー・ギュンターが続いた。 彼は頭に包帯をして私に腕を抱えられている。 我々の一行は総勢20名だ。 周囲には包帯をしている者が多いので、我々の変装も目立たずに済む。 我々の一行は地下壕を出て、ドイツ外務省庁舎の庭を通り、北へ向かい、破壊された建物の横を抜けた。 そして、地下道に通じる階段を降りた。 地下道の中を10分ほど歩いて行くと、目指すフリードリヒ通り駅に着くはずだった。 だが、ボルマンが道を間違え、駅だと思ったのは、単に街の中心から少し離れて行き止まりになっているところであった。 来た道をしばらく戻り、別のところで曲がって、ようやくフリードリヒ通り駅にたどり着き、地上に出た。 外は月夜で、結構明るかったが、あちこちで火の手が上がり、砲弾が飛び交い、曳光弾(えいこうだん)が閃いて、超現実的な輝きを放っていた。

このあと、クライトンの一行はヴァイデンダム橋の近くでソ連軍の戦車に遭遇し、このソ連軍戦車の直撃弾にやられたドイツ軍戦車が大爆発し、この爆風をもろに受けたオットー・ギュンターとシュトゥンプフェッガー医師とが即死した。 2人の死体はそのまま放置された。 そして、このあと、クライトンの一行は銃撃戦を避けながら、シュプレー川の土手になんとか辿り着き、小さな船に乗り込んだ。 クリストファー・クライトンは、この時の様子について次のように語っている。
キャロライン・ソーンダーズがモーターボートで川を下ってきた。 フレミングはさっと縄梯子を下り、乗船した。 ボートが離岸する際、私は「気を付けて」と声をかけた。 フレミングはいつもの調子で「クリストファー、今までの苦労を水の泡にするんじゃないぞ」と言った。  彼はそう言い残すと、川上に消え、橋をくぐって東に向かった。 上空では曳光弾が断続的に閃いていた。 次いで、ボルマンを縄梯子で下ろした。 彼の胸の周りに綱を回して、脇の下に引っかけ、上から2人に支えさせて彼を下ろした。 ボルマンがカヤックの前席に座ると、私がその後ろに乗り込んだ。 先頭を行くのはスーザンとSBSのデビッド・ジョーンズ軍曹で、二番手はブラビノフと海兵隊のジョン・ローリンズ軍曹で、三番手はボルマンと私で、四番手はペニー・ウィレルと無線電信技師のジョアン・マーシャル伍長であった。 このカヤックには短波無線機材が積まれていた。 更に、軍医のジェニー・ライト大尉とCOPPのビル・ウェブ中尉が続き、最後尾がジョン・モーガンで、フレミングが乗るはずだった席が空いていた。

この後、クライトンの一行は何度か死の危険に遭遇しながら、シュプレー川を慎重に下っていき、更に、ハーフェル川を下り、ボルマンを無事にエルベ川まで護送し、1945年5月11日、エルベ川の岸に駐屯していたイギリス軍にボルマンを引き渡した。

ここではバッサリ省略してしまうが、何日もかけて川を下る脱出行の話がとても面白い。 クライトンの一行はソ連軍の包囲網を巧みに切り抜けていくのだが、レイプ魔と化したソ連兵が登場したり、ソ連軍の検問に引っかかって仲間が機関銃で殺されたり、色々なことが起きて、ハラハラドキドキの連続である。 クライトンによれば、ジェームズ・ボンド作戦実行中に合計14名の仲間が死亡した。 この脱出行の間、ボルマンの行動はまったく理性的であり、協力的、友好的かつ積極的で、凶暴な傾向があり邪悪な考えを持っている人物のようにはとても見えなかったという。 クライトンたちとボルマンとは脱出行の過程で互いに感情的な絆を深め、一行の皆がボルマンのことを好きになったという。 クライトンはボルマンについて次のように語っている。
先へ進むにつれ、我々の旅はだんだんと学校の遠足といった様相を呈してきた。 身分や地位・性別にかかわらず、全員が同じ釜の飯を食い、一つ屋根の下で寝て、お互いに面倒を見ていた。 しかし、なんと言っても主役は囚われの身のボルマンであった。 水の上では他の者と同等か、もしくは、それ以上に働いてくれたが、陸上ではさまざまな拘束を受けていた。 いまだに暑くてかさばる包帯を顔に巻いているのみならず、食事の時や寝る時、用を足す時も含めて、たえず手錠で監視の者に繋がれていた。  〈中略〉  その頃にはみんな、我々の囚人がとても親しみやすく頼り甲斐のある人物であることに気づいていた。 ボルマンも積極的にみんなに溶け込んでいた。 本名を知らないので、女性たちはフリードリヒとかフレッドと呼んでいたが、ボルマンのほうも喜んでそれに答えていた。 彼がこんなにも好人物であることには私自身が驚いていた。 事前の打ち合わせでは、ボルマンは屈強で冷徹な謀略家に見えたが、今ここで敵の手中にいる一個人としてのボルマンは非の打ちどころのない振舞いをしていた。 不服を漏らさないし、癇癪を起こすこともない。 私は彼と一緒のカヤックに乗っているので、彼に接する機会が一番多くあるが、彼は従順なだけでなく、協力的で勇ましく、かつ、強靭な肉体の持ち主であった。 彼は驚くほどの腕力を持っている。 彼の腕力は私の二倍近くあるかも知れない。 私が覚えている限り、イギリス海軍の新兵で、ボルマンほど速くカヤックをこげる者はいなかった。 障害物を越えての強行軍でもへこたれなかったし、判断力も確かだった。 これなら、いかに海兵隊の鬼軍曹でもケチのつけようがない。 いつしか我々は彼にも何かと仕事を任すようになった。 更に、ボルマンは大抵の者より20歳近く年上であったので、女性たち、特にドイツ自由戦士軍の者たちは彼を父親と見るかのように彼に接していた。 我々は愛情と尊敬を込めてニックネームで彼を呼び、作戦以外のことに関しては、まず彼のアドバイスを求めた。

● 『バーダム文書』 とボルマンの整形手術
イギリスに連行されたマルティン・ボルマンはポーツマス近郊の訓練基地「バーダム」の隔離棟の贅沢な部屋に収容された。 そして、ここで 『バーダム文書』 が作成された。 クライトンは次のように語っている。
ボルマンはバーダムで数ヶ月に渡り、秘密情報について集中的に尋問を受けた。 800枚にも及ぶ報告書の各ページには、ボルマン本人と尋問担当官の頭文字が署名されている。 この貴重な歴史的文書(バーダム文書)にはボルマンの1920年代から1945年までの個人史とナチ党についての供述が記録されている。 この供述により、彼とヒトラーとの関係について興味深い事が明らかになった。 尋問開始当初、ボルマンはヒトラーを“総統”と呼び、それ相応の敬意を払っていた。 ところが、尋問が進むに連れて、“あの馬鹿じじい”というような酷い言い方をするようになった。 ボルマンは1945年3月の時点で、この戦争に勝ち目はないことに気づいていた。 その事実に直面しようとしないのは、権力を掌握しているあの男だけだ。 冷静で計算高いボルマンは、いつそのような事態になっても、最後までヒトラーを利用しようと決心していた。

バーダム文書を作成している間、ボルマンは発見されるのを防ぐ為に整形手術を受けた。 クライトンは次のように語っている。
ボルマンがイギリス情報局の担当官から尋問を受けている間、ヨーロッパの至る所で彼を捜索する活動が展開していた。  〈中略〉  彼が発見されることを阻止する為には、外見や態度から声までも可能な限り変えなければならない。 この問題について何回か話し合った後、モートンは再び整形外科医のアーチー・マッキンドーに依頼することにした。 しかし、今回は秘密厳守が至上命題である。 アーチー・マッキンドーにはバーダムで手術を行なうように要請した。 そこで、バーダムの施設の中の一棟が一時的に病院に仕立てられ、イギリス情報局やドイツ自由戦士軍から看護婦が集められた。 何回も手術を重ねた結果、ボルマンの容姿には微妙ではあるが見事な変化が生じた。 耳の形は変えられ、唇は厚みを増した。 手の甲は皮膚を移植され体毛が薄くなり、指紋も変えられた。 鼻は少し削られて低くなり、額の傷は長く延長された。 ボルマンは回復を待って社会復帰の為の訓練を受けた。 訓練が完了した時には、歩き方も話し方も別人のようになった。 彼は吃り(どもり)までをも身に着けようと思って訓練し、その結果、吃りをしっかり習得し、有り難くない質問を避けるときなどには、彼の吃りは有効な武器となった。 彼は舌が回らなくなって話せなくなった振りをすることも出来るようになった。  〈中略〉  私が彼と最後に会ったのは、手術後の回復期間中の7月のことだった。 私はスペシャリスト訓練コースを受ける為にバーダムを去ることになった。 スイートルームに彼を訪ねると、彼の他には誰も居なかった。 その頃には彼の英語もかなり上達していた。 私は「お別れを言いに来た」と彼に話した。 我々は立ったままじっと見つめ合った。 それはずいぶん長い時間のように思えた。 やがて彼と私とが握手すると、彼はいきなり私を抱き締めた。 私にとっては、なんとも奇妙な瞬間であった。 私の肩を抱いている男はかつての敵であり、普通に考えれば、悪質な戦争犯罪者である。 こうしている瞬間にも、彼のかつての仲間たちはニュルンベルクで裁かれており、全世界の半分に及ぶ地域で彼の捜索が進められている。 しかし、この瞬間はそうした一切を超越していた。 彼は私と一緒に筆舌に尽くしがたい危険をくぐり抜け、ベルリン脱出の際には人一倍の勇気を示し、我々に協力してくれた。 私の頭にはそのことしかなかった。 そして、私も彼を抱きしめ、最後にマスクを頭の上からかぶせて戻してやった。

● パラグアイで死んだマルティン・ボルマン
クリストファー・クライトンは、マルティン・ボルマンがその後にたどった軌跡について、次のような驚くべき事を語っている。
1945年から1956年にかけて、ボルマンはイギリスで暮らした。 しかし、彼はその間にブラジルやアルゼンチンなどの南アメリカ諸国や他の地域に出かけた。 そのときは必ずイギリス情報局やCIAの監視付きであった。 CIAの南アメリカでのボルマン管理保護チームのリーダーは何とバーバラ・ブラビノフであった。 スーザンの報告によると、ボルマンも彼女も再会した途端に熱い思いが込み上げてきた。 CIAのタフな工作員たちは、自分たちのスター的存在の工作員が世界の誰よりも執拗に追い掛けられている戦犯と抱き合っている光景を呆気にとられて眺めた。 スーザンによると、2人の協力のお陰で目覚ましい成果が得られた。 手配中のナチ党員たちの行方が明らかになり、膨大な現金や宝石や金が回収されるなど、大きな収穫が得られた。 自由世界の金融や経済を支配して第三帝国亡命政府を樹立しようという企みを阻止することができた。 それでも相変わらず、イギリス政府はニュルンベルク裁判で絞首刑を宣告されたナチス戦犯がイギリス国内に留まっていることに神経をとがらせていた。 1956年4月初め、ソ連の指導者ブルガーニンとフルシチョフの公式訪問の直前、スーザンはアンソニー・イーデン首相に呼びつけられ、イギリス政府がマルティン・ボルマンを匿っているという疑惑の所為で厄介なことになっていると、強い調子で叱責された。 彼女が何か言う間もなく、イーデン首相は最後に怒りを爆発させ、机を思いっきり叩きつけると、書くのもはばかられるような卑猥な言葉で毒づいた。「我々はあのファ××野郎をVIPなみに甘やかしている。 ロシア人どもが来ないうちに追い出しちまえ。 あの馬鹿野郎の頭をちょんぎって、海に放り投げてやれ」。 しかし、いつものことだが、癇癪の嵐が過ぎ去ってしまうと、イーデン首相は別人のようになり、満面に笑みを浮かべ、たいそう礼儀正しくスーザンに語りかけた。「ミス・ケンプ、どうか彼を4月25日までに国外に退去させてくれ」。 スーザンはイーデン首相の命令をほぼその通り実行した。 1956年4月29日、マルティン・ボルマンは護衛付きでアルゼンチンに空輸され、そこで再びバーバラ・ブラビノフと会った。 しかし、その頃、彼の体調は悪化していた。 彼はまだ55歳であったが、世間に知られること無く、どこかで落ち着いて暮らしたいと願った。 結局、パラグアイを安住の地と定めて、ひっそりと暮らし、長い闘病生活の末、1959年2月にこの世を去った。 マルティン・ボルマンは地元の墓地に埋葬されたが、CIAとパラグアイ政府とドイツ諜報機関との密約により、彼の遺体は掘り起こされ、しばらくしてベルリンに送り返され、ユラップ・フェアグラウンドの砂に埋葬され、それが1972年にうまい具合に発見されたというわけである。「しばらくしてベルリンに送り返され」と書いたが、それはスーザンもこの作戦については人づてに聞いただけなので、具体的な日付が分からなかったからである。 しかし、マルティン・ボルマンの晩年についての彼女の証言は、丹念に調査を積み重ねたヒュー・トーマスの結論と酷似している。

以上で『ナチスを売った男』の要約は終わりです。
因みに、この本には、今回ここで取り上げた話以外にも、「替え玉作戦」「リッベントロップの紳士協定」「ドイツ自由戦士軍のユダヤ兵によるナチ狩り」「ニュルンベルク裁判の傍聴席にいたボルマン」など、面白い話が載っている。

■ 公式に宣告されたマルティン・ボルマンの死
クライトンによれば、マルティン・ボルマンの死体はパラグアイで埋葬された後、掘り起こされて、ベルリンで埋葬されたが、「マルティン・ボルマンの死」は公式の歴史では次のように説明されている。
マルティン・ボルマンは1945年5月2日に総統官邸の地下壕から脱出する際に青酸カリを飲んで自殺した。 マルティン・ボルマンの捜索を正式に委託されているフランクフルト地検は1972年12月にベルリンの墓地で遺骸を発見した。 生前マルティン・ボルマンの歯を治療した歯科医による検査や元ナチ党員らの証言などを総合的に検討して、フランクフルト地検は翌1973年3月11日、「その遺骸はマルティン・ボルマンのものである」と判断した。 そして、西ドイツの法廷でマルティン・ボルマンの死が公式に宣告された。 そして1998年、家族の要請でDNA鑑定が行なわれ、その遺骸はマルティン・ボルマンのものであることが科学的に証明され、その遺骸は荼毘に付され、バルト海に散骨された。

クライトンによれば、このDNA鑑定は、彼がボルマンの家族たちと会見したときに提案された。 クライトンは次のように語っている。
1996年の初め、私はバヴァリアを訪れ、マルティン・ボルマンの息子のひとりゲルハルト・ボルマンと会見した。 家族の弁護士であるフロリアン・ベゾルト博士と優秀な通訳G・K・キンゲルマン博士が同席した。 会見場所はミュンヘンに近いフライジンク郊外のボルマンの自宅と決められた。 ゲルハルト・ボルマンの妻と息子も同席し、会見はとても和やかな雰囲気であった。 マルティン・ボルマンは1945年に死亡したと信じていた家族は、ジェームズ・ボンド作戦について聞かされて、キツネにつままれたような表情であった。 それでも、ピグレット(=ボルマンのコード名)救出が実際に行なわれたことを確認したイアン・フレミングの手紙とマウントバッテン卿のメモを見せられたときには動揺したようであった。  〈中略〉  私が書こうとしている本は、マルティン・ボルマンの戦争中の記録を根掘り葉掘り暴露するものではない。 私はそう強調するのを忘れなかった。 それどころか、1945年にベルリンの水路を共に脱出する過程で一行のみんなが彼のナチスにおける過去を知らないまま彼と感情的な絆を深め、一行のみんなが彼のことを好きになった過程を描く作品になるだろうと語った。 ゲルハルト・ボルマンの家族は私の話について考える時間が欲しいと言った。 ゲルハルト・ボルマンは、ベルリンで掘り起こされ現在はヴィースパーデンの地下納骨所に安置されている頭蓋骨を含む遺骨は父親のものに違いないと確信していると、繰り返し強調した。 別れぎわ、弁護士のベゾルト博士は、この問題をすっきり解決させるには、DNA鑑定を行ない、遺骨のサンプルと遺族の毛髪や血液を照合するしかないと指摘した。 私も、そのような鑑定が実施されるよう強く望んでいる。 そうすれば、遺骨が本物かどうか確認され、それがパラグアイから運ばれたものであることが、必ずや明らかになるであろう。

■ 『ナチスを売った男』の序文から
ここまで読まれた方の大多数が次のように思っているだろう。「この本の内容はどこまで真実なのか」「信憑性はどれ位あるのか」「著者クライトンによる虚構という可能性はないのか」「もし、真実ならば、ナチスの大物戦犯を結果的に救出し、ニュルンベルク裁判の場から隠したことなるが、これは社会正義に大きく反する行為ではないのか」など。 クライトンは読者が抱くであろう疑問に対して序文の中で次のように述べている。
本書に記された物語は、多くの読者にとって信じ難いものであろう。 私に言えるのは、半世紀以上も前に起き、ほとんど記録の残されていない作戦について真実を書き残すために、全力を尽くしたということだけである。 私の文学的な創作力は限られていることもお断わりしておく。 ストーリーを作り上げることなどできはしなかった。 また、私には、ここに含まれた詳細な技術的情報の収集能力もなかった。 それどころか、私は自分自身の記憶や、本書で語られている出来事の直後に私と私の同僚が作成した公式記録に頼らざるを得なかった。 諜報担当士官としての私の仕事は、第二次世界大戦中はもちろん、その後も最高度の機密保持が要求された。 この物語を公表することについて、私はサー・ウィンストン・チャーチルからもマウントバッテン卿からも書面による許可をもらっている。 ただし、両人からは、それは自分の死後にしてほしいと念を押された。 また、同時に、私のかつての同僚たちの命を危険にさらすようなことをしてはならないとも命じられた。 その後、イアン・フレミングからも私に、この物語の公表を促す手紙をもらったが、その中で彼は、大成功を収めたジェームズ・ボンド小説の発想の源は実はこの共同作戦にあったことを明かしている。 半世紀が過ぎ、時の流れとともに機密の必要性も薄れ、ついに私はマルティン・ボルマンに関する顛末を人々に知らせるべき時が来たと決心した。 だが、彼をベルリンから連れ出したチームのメンバーたちへの脅威は依然として存在する。 彼の巨大な個人財産の行方は今もって不明であり、また、それらの金を自分たちのものと信じ、それを手に入れる為には人殺しも厭わないという、欲望や怒りに取りつかれた人間も大勢いる。 (2つだけ挙げれば、KGBとオデッサ[ナチス親衛隊の退役軍人団体]である)。 従って、私は、私自身を含めて、生き残っているチームのメンバー全員について変名を使用した。 最新の調査によれば、生存者は33名である。  〈中略〉  ナチスの高官を誘拐し、ニュルンベルク裁判の場から隠すということの道義的問題については、我々は関心がなかった。 それは政治家の仕事であり、我々の仕事ではない。 我々の仕事はベルリンの廃墟からボルマンを連れ出すことであった。 そして、訓練の成果と幸運にも助けられて、我々は成功した。 私が今、この話を語る主な目的は、私と共に危険を冒してベルリンの水路を下っていった男女の戦友や若者たち(その多くがドイツ人)に敬意を表わす為である。 作戦実行中に、そのうちの14名が死亡し、全員が何度も死の危険に直面した。 我々の作戦が大成功を収めたのも、彼らの勇気と決断のお陰だった。 特に、我々が困難を切り抜けることができたのは、女性たち(イギリス海軍婦人部隊員、ドイツ自由戦士軍、そして、1人の優れたアメリカ人の婦人大尉)の大きな勇気と才能によるところが大きい。 最近になってようやく国防省は敵に対する作戦行動に女性の参加を認めると発表した。 だが、我々のチームの女性たちは50年も前に正にそのようなことを行ない、そして、成功したのだ。 ここで是非、言っておきたいことは、ジェームズ・ボンド作戦の配役をしたのは私ではないということだ。 私は単に参加しただけである。 1945年の時点では、どの参加者も国際的には知られていなかった。 イアン・フレミングはイギリス海軍の無名の諜報担当士官であったし、架空のスパイ:ジェームズ・ボンドは彼の頭の中でもまだ生まれていなかった。 イギリスやアメリカでマルティン・ボルマンの名を知っていた人は稀であり、彼の顔を知っている市民は1人もいなかった。 フレミングはすでに36歳だったものの、残りの我々はまだ20代だった。 危険な戦時使命を与えられ、それを能力の限界まで実行した血気盛んな若き海軍士官、水兵、その他だったのである。 繰り返すが、この話は私の個人的な話である。 歴史ではなく、私が何かを求めた結果でもない。 それを受け入れるか否かは読む方の自由である。 アリストテレスではないが、私に関心があるのは真実だけであり、人々がどう考えるかではない。

追加情報: ルーズベルト大統領とチャーチル首相は間近に迫った真珠湾攻撃を事前に知っていた。
クリストファー・クライトン著『ナチスを売った男』には極めて興味深い記述がある。 それは真珠湾攻撃に関する記述である。 クライトンは次のように述べている。
1941年12月、私(クライトン)は、太平洋を航行するオランダ潜水艦K-17号(艦長はブザンソン少佐)に乗り込んでいた。 私はこの潜水艦の酸素供給装置に2本の小さな青酸ガスボンベを仕掛け、更に、この潜水艦にウイスキー瓶を装った高性能爆弾を仕掛け、更に、青酸ガスボンベと高性能爆弾とが適時に作動する為の時限装置をセットした。 その後、私はこの潜水艦から離脱した。 こうして、私はこの潜水艦の乗組員全員を殺害した。 このオランダ潜水艦は、真珠湾へ向かう日本の空母艦隊を発見し、その情報をイギリス海軍の司令長官に報告した。 ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、日本の奇襲先制攻撃をアメリカ参戦の口実とする為に、その報告を握り潰した。 そして、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、日本の空母艦隊が真珠湾に向かっているという情報がこの潜水艦から漏れないように、この潜水艦とその乗組員には消えてもらうことが必要である、と考えたのである。

機上から見えた大爆発。 爆発と共に吐き出された搭載品、人体の破片、そして、おびただしい油。 まるで巨大な水中生物が潜水艦を呑み込み、人と機械とを噛み砕きながら、もがき苦しんでいるようだった。 私は油の帯がフカをどのくらい長く遠ざけてくれるだろうかと見ていた。 この潜水艦の乗組員は真珠湾へ向かう日本の空母艦隊を発見したことを口外しないと誓ったにもかかわらず、アメリカ・イギリスの最高指導者がその誓いを信用しなかった所為で、この潜水艦の乗組員全員が殺害されたのである。 この潜水艦の乗組員の親がこの事を知ったら、この潜水艦の乗組員の親は何と言い、どういう行動に出るであろうか。 私は涙を抑えることが出来なかった。

オランダ潜水艦K-17号(艦長はブザンソン少佐)は、真珠湾へ向かう日本の空母艦隊を1941年11月28日に発見した。 ブザンソン艦長は直ちに、オランダ軍を統括しているイギリス海軍極東司令部の司令長官宛てに「日本の空母艦隊を発見」の暗号電文を送信した。 その暗号電文はシンガポールのイギリス情報局暗号解読部門によって傍受された。 数時間以内に、その暗号電文のコピーはワシントンD.C.のドノヴァン将軍とロンドンのデズモンド・モートン少佐に届けられた。 この2人はそれぞれ上司のルーズベルト大統領とチャーチル首相に報告した。 この4人とも、真珠湾攻撃が間近に迫っていることを既に知っており、それが実行されることを切に願っていた。 当時、アメリカ国民の80%は熱烈な孤立主義者であり、相手が日本であれドイツであれ、開戦に反対していた。 もし、日本によるアメリカ資産への攻撃がなされていない状況でルーズベルト大統領が日本との開戦を宣言したら、彼は弾劾されただろう。 もし、アメリカが参戦しなかったら、日本軍は反撃らしい反撃も受けないまま、インド、オーストラリア、ニュージーランドなど、太平洋・インド洋の多くの国々で略奪を欲しいままにしただろう。 そうなった後で、これらの国を日本軍から解放するのは殆ど不可能である。 更に、イギリスとその同盟国は、対ドイツ戦争でアメリカの支援を喉から手が出るほど必要としていた。 そこで、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は「もし日本が先にアメリカを攻撃すれば、間違いなくアメリカを戦争に引き込める」と考えたのである。 ルーズベルト大統領は間近に迫った真珠湾攻撃を事前に知っていたにもかかわらず、なぜルーズベルト大統領は、真珠湾の軍事基地に駐留していたアメリカ軍に厳重警戒態勢をとらせなかったのか、なぜルーズベルト大統領は、真珠湾の海軍基地に駐留していたアメリカ艦隊に真珠湾から出るように指示しなかったのか、という疑問が生じるだろう。 ルーズベルト大統領は間近に迫った真珠湾攻撃を事前に知っていたにもかかわらず、なぜルーズベルト大統領は、真珠湾の軍事基地に駐留していたアメリカ軍に厳重警戒態勢をとらせなかったのか。 その答えは簡単である。 ハワイには何千人もの日本人移民がいた。 彼ら日本人の大多数はアメリカに忠実であったが、アメリカに忠実でない日本人も沢山いて、アメリカに忠実でない日本人はアメリカへの愛国心が無く、中には祖国日本の為にスパイとして働いている者もいた。 それに加えて、日本のハワイ総領事は極めて目ざとい人物であった。 真珠湾の軍事基地が厳戒態勢下に置かれれば、その事は数時間以内に日本軍最高司令部の知る所となり、「真珠湾攻撃は絶対に奇襲攻撃でなければならぬ」と主張していた天皇裕仁は真珠湾攻撃を中止させ、その結果として、ルーズベルト大統領はアメリカ参戦の口実を失うことになるからである。 ルーズベルト大統領は間近に迫った真珠湾攻撃を事前に知っていたにもかかわらず、なぜルーズベルト大統領は、真珠湾の海軍基地に駐留していたアメリカ艦隊に真珠湾から出るように指示しなかったのか。 その答えも簡単である。 ルーズベルト大統領は日本の空母艦隊をして真珠湾の海軍基地に駐留していたアメリカ艦隊を大破させ、其の事をアメリカ参戦の強力な口実にしたかったからである。 オランダ潜水艦K-17号は、真珠湾へ向かう日本の空母艦隊を発見し、その情報をイギリス海軍の司令長官に報告した。 それは当然の行為であるが、そのような発見者の存在はルーズベルト大統領とチャーチル首相にとっては極めて危険であった。 なぜなら、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が間近に迫った真珠湾攻撃を事前に知っていたにもかかわらず、真珠湾攻撃を阻止する手立てを故意に講じなかった事がオランダ潜水艦K-17号の乗組員からの情報発信によって公になれば、この2人は自分の地位を失い、且つ、アメリカとイギリスとの同盟が機能しなくなってしまうからである。 そこで、アメリカ・イギリスの秘密情報部責任者は「その危険性を排除しなければならない」と決断し、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が間近に迫った真珠湾攻撃を事前に知っていたにもかかわらず、真珠湾攻撃を阻止する手立てを故意に講じなかった事が公にならないように、オランダ潜水艦K-17号の乗組員の口を封じたのである。