ヒトラーにユダヤ人の血が混じっているという噂
アドルフ・ヒトラーにユダヤ人の血が混じっているという噂(うわさ)がある。 この噂は、ナチスが一挙にドイツ第2の大政党に躍進した1930年に広まり始めた。 ヒトラー自身も自分の血統に疑惑を抱き、1930年の末、ナチス法律局長のハンス・フランクに自分の血統を念の為に極秘に調べてくれと頼んだという。 ハンス・フランクはヒトラーの側近であり、後にドイツ軍占領下のポーランド総督となり、ニュールンベルク裁判で絞首刑を宣告された。 彼は絞首刑を待つ間に『死に直面して』という本を著わした。 彼はその中で次のように述べている。「多分1930年末のある日だったと思うが、自分はヒトラーのもとに呼ばれた。 ヒトラーは、彼の異母兄であるウィリアム・パトリック・ヒトラーからの手紙や新聞記事に触れつつ、『自分にはユダヤ人の血筋があるという者がいる。 調べてくれ』と言った。 調べてみると、アドルフ・ヒトラーの父アロイス・ヒトラーは私生児であることが判った。 アロイスの母マリア・アンナ・シックルグルーバーは、グラーツ市(オーストリア)のユダヤ人資産家フランケンベルガー家で家政婦として働き、その家の息子レオポルド・フランケンベルガーと肉体関係を持ち、赤子(アロイス)を生んだ。 フランケンベルガー家の戸主は、彼女と当時19歳であった息子レオポルドの為に、その赤子(アロイス)が14歳になるまで、彼女に養育料を支払っていた。 フランケンベルガー家と彼女の間には長年に渡って手紙の交換があった。 その手紙では彼女が養育料をもらう権利があるということが前提となっていた。 私生児は母の姓を名乗るという法律に従って、アロイスは40歳のころまでシックルグルーバー姓を名乗っていた」。 このハンス・フランクの記述は以後、多くの著書や論文のなかで紹介された。
1970年にアントン・アダルベルト・クラインという研究家がハンス・フランクの記述を徹底検証したところ、ヒトラーの祖父とされているレオポルド・フランケンベルガーなる人物は、その人物の住所とされているグラーツ市の住民リストには載っていないことが判明した。 また、グラーツ市自体1848年までユダヤ人の居住が禁止された土地であったということも判明した。 このように、ハンス・フランクが行なった家系調査はかなり信憑性に欠けていることがわかる。 しかし、ヒトラーの父アロイス・ヒトラーが私生児であることには変わりなく、ヒトラーの祖父をめぐって様々な謎が残されている。
アドルフ・ヒトラーにユダヤ人の血が混じっているとしても、それは何ら驚くことではない。 なぜならば、ナチスの幹部の中にはユダヤ人の血筋を引く者が実際に複数いたからである。 その者とは、ボルマン、ヒムラー、ハイドリヒ、ローゼンベルク、などである。 彼らはユダヤ人の血筋を引きながら、厚かましくも反ユダヤ主義を唱えていた。 その中の1人として、ナチス親衛隊長官ヒムラーの右腕として活躍したラインハルト・ハイドリヒを取り上げてみたい。 イギリスの伝記作家チャールズ・ワイトンによれば、ハイドリヒは比類無く冷酷で恐ろしい人物であったという。 彼は1942年にプラハでチェコ人によって暗殺された。 彼の後継者となったアイヒマンをして「ゲシュタポの中でハイドリヒ以上の冷血犬はいなかった」と言わしめた程であった。 とは言え、ハイドリヒにも泣き所があった。 ナチスの高官たちの間では「ハイドリヒの祖母はユダヤ人だ」と噂されていたのである。 のちに、ナチスが「ハイドリヒの身元を調べたら、彼はアーリア(ゲルマン)系と証明された」と発表したが、それによって完全に疑いが晴れた訳ではなかった。 その後、ハイドリヒはライプツィヒを訪れた折に、噂の根拠となった祖母サラ・ハイドリヒの墓を引っくり返して跡形もなく破壊してしまった。 戦後の調査によれば、サラ・ハイドリヒがユダヤ系であったことはほぼ確実とされている。 ハイドリヒがユダヤ人迫害に異常な熱意を示したのは、ユダヤ人迫害に異常な熱意を示すことで「後ろめたい自分の素性」を帳消しにしようとしたのだという見方がなされている。
『ナチスと動物』(青土社)の著者ボリア・サックスは次のように述べた。「ヒトラーは自分にユダヤ人の血が混じっているのではないかと、いつも悩んでいた。 同じことは、ハイドリヒ、シュトライヒャー、ローゼンベルクなど、多くのナチス幹部にも当てはまる。 ナチスの反ユダヤ主義には自己確認と自己嫌悪の組み合わせとも言うべき複雑な感情が反映されていた。 彼らにとってユダヤ人は禁じられた憧れと隠された怖れが投影された負のイメージだった」。
上智大学名誉教授の品田豊治氏は 『第三帝国の神殿にて』(中央公論新社)の中で次のように述べている。
そのころのドイツの笑い話の一つに、『純粋なアーリア(ゲルマン)人とは何でしょうか。 』 『それはヒトラーのようにブロンドで、ゲッベルスのように背が高くて、ゲーリングのように細っそりとしていて、その名前はローゼンベルクという』というのがあった。 ところが、事実は、ヒトラーは黒髪であったし、ゲッベルスは背が低く、ゲーリングは肥満型で、ローゼンベルクは典型的なユダヤ人の名前であった。 ナチスの主張と現実との乖離を皮肉ったのである。 不思議にもナチスの幹部には外国生まれ、外国育ちのドイツ人が多かった。 ヒトラーはオーストリア生まれ、へスはエジプト生まれ、農林大臣のダレはアルゼンチン生まれ、ローゼンベルクはリトアニア生まれであった。 外国生まれのドイツ人は故国の姿を理想化していたのであり、外国生まれのドイツ人の“大ドイツ幻想”と現実の生活感覚との間には常に深い対立があったであろう。 戦局の見通しが悪化すると、こうしたドイツ的感情が表面に表われてきて、もろくも国全体がばらばらになっていったのである。
おまけ情報: ユダヤ人と仲良く生活していた青年時代のヒトラー
ヒトラーはウィーン時代(1905年16歳〜1913年24歳)には絵を描いて生計を立てていた。 この時代のヒトラーが接した人の多くは意外にもユダヤ人であった。 若年で経済力の余りないヒトラーにはユダヤ人の画商は無くてはならない存在だった。 その中から幾人かを紹介しておく。
◆ ヤコブ・アルテンベルク: ガリチア出身のユダヤ人で、下町のウィードナー本通りなどに画商兼額縁商の店を開いていた。 ヒトラーは画商ハーニッシュと別れた後、このユダヤ人画商に自分の絵を買い取ってもらった。
◆ サミュエル・モルゲンシュテルン: ブダペスト出身のユダヤ人で、ガラス工芸職人兼額縁商。 ヒトラーが最も信頼をおいた絵の買い取り人だった。
◆ ヨーゼフ・ノイマン: ウィーンの南方にある葡萄畑で有名なフェスラウ出身のユダヤ人で、本職は銅加工だが、実際には雑貨の行商をしており、1910年の1月から7月までヒトラーの住む男子アパートに住んでいた。 ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。
◆ ジークフリート・レフナー: モラヴィア地方出身のユダヤ人で、ヒトラーの住む男子アパートに住んでいた。 ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。
このように、ヒトラーは描いた絵をユダヤ人画商に売って生活の糧を得ていた。 のちのヒトラーの激しいユダヤ人憎悪からは想像できない話である。 青年期のヒトラーに詳しい津田塾大学名誉教授の藤村瞬一氏は次のように述べている。「ヒトラーはウィーンで所謂『反ユダヤ主義』に染まったわけではない。 ヒトラーのウィーン時代の生活にはユダヤ人の存在が欠かせず、後年どうしてあのような極端なユダヤ人憎悪に走ったのか、何が彼をそのように変質させたのか、究明しなければならない問題が残る」。