ヒトラーの周囲は裏切り者でいっぱいだった

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1944年7月20日、総統官邸での作戦会議中に時限爆弾によるヒトラー暗殺未遂事件が起こり、4人のヒトラー側近が死亡し、参席者全員が負傷したが、ヒトラーは奇跡的に軽傷で済み、後日、実行犯の多くは自殺もしくは逮捕・処刑された。 この事件はナチス政権に反対するドイツ国防軍の将校グループが計画・実行したものである。 この事件で使われた爆弾は時限装置付きのプラスチック爆弾である。 この時限爆弾の入ったカバンをドイツ国防軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が総統官邸での作戦会議中に会議場の巨大なテーブルの下に置き、ベルリンへ電話をかけるという口実で会議場を出た。 午後12時42分、この爆弾が爆発し、会議室は破壊された。 この爆発により、速記者ハインリヒ・ベルガーは両足を失い、即死した。 総統副官ハインツ・ブラント大佐は片足を失い、後日に死亡した。 空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将は腹に重傷を負い、後日に死亡した。 総統副官ルドルフ・シュムント少将は腰に重傷を負い、後日に死亡した。 ヒトラーは打撲と火傷を負い、鼓膜を損傷したが、奇跡的に生き残った。

戦後、南アメリカに逃亡した元ナチス高官は次のように語った。 「ヒトラーは第三帝国内の裏切り者たちに随分と幻滅を感じていた。 戦況がドイツにとって不利に展開し始めた頃、ヒトラーの直接命令によって裏切り者をマークするグループが結成された。 このグループにはヒトラーが真に信頼するナチス親衛隊(SS)メンバーとゲシュタポメンバーが入っていた。 私はその1人だった。 我々は徹底した調査を行ない、その結果をリストに仕上げた。 そのリストにはフィギャライン、カナリスなどの大物の名前が書き込まれていた。 フィギャラインはナチス親衛隊の将軍でヒトラーの義弟でもあった男だ。 カナリスは諜報部のトップだった。 この他に我々はヒムラーの名前も加えた。 ヒムラーがヒトラーに本当の事を報告していないことが度々あった。 これではヒトラーが戦況について正しく判断できるわけがない。 一種の裏切り行為だ。 不幸にしてこの予感は適中した。 敗戦が決定的になった時、ヒムラーはいろいろな手段を使って連合国側にアプローチしようとしていた。 自分の身を守る為に何とか敵と話し合おうとしたのだ。 ナチス親衛隊の長官ともあろう者が情けないことだ。 ドイツは負けるべくして負けたのかもしれない。 因みに、私個人の意見としてはヒトラーが自殺したとは考えられない。 ヒトラーの性格から言って絶対に自殺志向ではないからだ。 ヒトラーを知っている者なら誰しもそう思うだろう」。

ロスチャイルド金融勢力の一員であるクルト・フォン・シュローダー男爵が組織した「ヒムラー友の会」は、ナチス親衛隊を介してナチス指導部とドイツ財界首脳が直接交流する機会を提供すると同時に、シュローダー男爵の銀行に設けられた秘密口座を通じて、ドイツ財界の資金をナチス親衛隊へ流すパイプとしても機能していた。 第二次世界大戦末期、ヒトラーはヒムラーの裏切り行為を察知すると、ヒムラーを解任し逮捕しようとしたが、ヒムラーは警官に変装して逃亡した。 その後、ヒムラーはイギリス兵に捕まり、服毒自殺した。

ヒトラー研究の本を出している濱田政彦氏は、著書『彼らはあまりにも知りすぎた』(三五館)の中で次のように述べている。 「第二次世界大戦当時、ファシスト・フランコ将軍下のスペインで、ナチス・ドイツに協力していたスペインのトップスパイ:ベラスコはスパイ活動を通じて幾度も奇妙な光景に遭遇した。 敵味方を超えた次元では、奇妙にも両者は同じ目的(共通の利益)の下に動いていたのである。 それは、この対立が茶番劇であることを意味していた。 彼はドイツ国防軍情報部とSS情報部の下で、M I 5やM I 6と激しい抗争を繰り広げたが、そこで多くの“裏”を見ている。 SS情報部は国防軍情報部とは違って、『全世界に網羅した驚異的な情報網組織』を敗戦後も持っていたとベラスコは語る。 戦後も、これらの狂信的なナチストらが、ヒトラーを屈服させた“誰か”と世界の舞台裏で密かな暗闘を続けているのだ。 だが、一方で、“誰か”に内通する裏切り者も多かったらしい。 ベラスコに言わせれば、ヒトラーの周囲は裏切り者で満ちており、彼はほとんど一人で絶望的な闘いをしていたというのである」。