ヒトラーの東方植民政策
ヒトラーは『我が闘争』の中で「東方生存圏の獲得」と「スラブ民族の奴隷化」を明言していたが、彼の東方植民政策については謎が多い。 ここでは、この政策について述べる前に「ドイツ騎士団」の歴史について述べたい。「ドイツ騎士団」(別名「チュートン騎士団」)は十字軍時代の3大宗教騎士団の1つである。 このドイツ騎士団が後にナチス親衛隊の手本になった。
第1章 ドイツ騎士団の歴史
■ ドイツ騎士団の誕生
1197年、十字軍遠征の一環として、ドイツ王フリードリヒ1世の軍の一部が聖地エルサレムに到着した。 翌1198年、ドイツ諸侯や騎士の協力と参加によりドイツ騎士団が結成され、ドイツ人巡礼者の護衛に当たるようになった。 更に、ドイツ騎士団は翌1199年には早くもローマ教皇インノケンティウス3世の公式許可を受け、独立の軍事修道会となった。 ドイツ騎士団も他の騎士団と同様に巡礼商人が作った野戦病院から発展したものである。
ドイツ騎士団は「清貧、貞節、服従」を誓う点など、集団規範については先駆者のテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団を手本としたが、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団と大きく異なっている点があった。 それは、入団者がドイツ語圏出身者に限られたこと、そして、ドイツ語圏出身の巡礼者のみを護衛対象としたことであった。 また、テンプル騎士団員が「赤い十字架」を縫い込んだ白マントを羽織っていたのに対し、ドイツ騎士団員は「黒い十字架」を縫い込んだ白マントを羽織っていた。 この配色について、ドイツ騎士団員はテンプル騎士団から激しい抗議を浴びた。 両者を区別するのはマントに縫い込まれた十字架の色だけで、非常に紛らわしかったからである。 そして、度重なる抗議にもかかわらず、ドイツ騎士団は「黒い十字架」を縫い込んだ白マントを着用し続けた。 もともとテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団はドイツ人に対して一種の民族的偏見を持っていた。 テンプル騎士団は超国家的性格を持つと言いながら、その団員の中にはドイツ人騎士は殆どいなかったと言われている。 聖ヨハネ騎士団も概ねフランス人・イタリア人を主体とする南欧系で、ドイツ人の聖ヨハネ騎士団員は少数であったようである。 テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団はとかくドイツ騎士団との協力を嫌い、結局、ドイツ人はテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団とを模した独自の組織を創設することになった。
ドイツ騎士団長は「ホッホマイスター」と呼ばれ、ドイツ諸侯「ライヒスフュルスト」の資格を与えられ、所領の寄進をうけて忽ち大領主となった。 13世紀初頭、ドイツ王兼シチリア王フリードリヒ2世がエジプトへ遠征軍を派遣したとき、テンプル騎士団が敵方のスルタン(国王)に内通したため、フリードリヒ2世の遠征軍は大敗した。 怒り狂ったフリードリヒ2世は、イタリアとシチリアにあるテンプル騎士団の所領を没収し、テンプル騎士団員をイタリア国外に追放した。 この時からドイツ騎士団はフリードリヒ2世直属の軍隊になった。
■ 聖地エルサレム奪還を断念してプロイセン(プロシア)へ帰還
ドイツ騎士団はパレスチナにおいて、他の騎士団に勝るとも劣らない勇敢さを示した。 しかし、出足の遅れを取り戻すことはできず、エルサレム奪還の主導権を取り損ねた。 また、この頃、エルサレム近郊では土地不足からドイツ騎士団領は狭小で、ドイツ騎士団は2、3の城塞を託されたに過ぎず、また、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団との対立意識に災いされ、ドイツ騎士団の目ざましい活躍は期待できなくなっていた。 その為、ドイツ騎士団はエルサレム奪還よりも本国における所領経営の方に重点を置くようになった。 13世紀当時、プロイセン人(プロシア人)は未だキリスト教に改宗しておらず、ポーランドへの侵入を盛んに繰り返していた。 そういうこともあって、1226年、バルト海沿岸のマゾヴィア(ポーランドとプロイセンとの国境地方)領主のポーランド貴族コンラートがドイツ騎士団に救援を要請してきた。 その当時のドイツ騎士団長へルマン・フォン・ザルツァは返答を渋っていたが、「ポーランドとプロイセンとの国境沿いにあるクルム地方をドイツ騎士団領として承認する」という神聖ローマ皇帝の内約を得て、ついにエルサレムを去る決心をした。 ドイツ騎士団は灼熱のエルサレムを離れ、寒風吹きすさぶ故国ドイツへ帰った。 こうして、ドイツ騎士団の情熱は異教徒プロイセン人の征服へ向けられることになった。
■ プロイセンにドイツ騎士団国家を建設
ドイツ騎士団によるプロイセン地方の植民地化事業(布教・開拓)は順調に進んだ。 彼らはプロイセン地方にドイツ移民を誘導し、原住民を征服しつつ、その地にドイツ騎士団国家を建設した(1283年)。 ドイツ人以外にスラブ人の入植も認められており、のちにプロイセン人がキリスト教に改宗すると、プロイセン人の入植も認められるようになった。 だが、プロイセン人の都市への居住はついに認められなかった。 のちに、ドイツ騎士団はリトアニアにも侵攻し、異教徒リトアニア人をも屈服させた。 このような対異教徒戦は殆どの場合、ドイツ諸候との共同戦線により実現した。 このようなドイツ騎士団の植民地化事業によって建設された都市の中で最大のものは、ベーメン王オットカル2世によって建設された「ケーニッヒスベルク」(現在のカリーニングラード)である。 ドイツ人によるケーニッヒスベルクの支配は1255年から1945年までの約700年間も続いた。 因みに、ドイツ騎士団の本拠地は時代によってヨーロッパ各地を転々とし、ベネチア、ケーニッヒスベルク、マリエンブルク(1309年)などに置かれた。
15世紀初頭になると、ドイツ騎士団領は最大規模に拡大し、一般のドイツ諸候領と何ら変わらない規模に達した。 ドイツ騎士団は国家規模とも言える地域を支配下に収め、その軍事力は他の世俗国家と比較してもひけをとらないものとなった。 しかし、15世紀においてドイツ騎士団の運命は下り坂に差し掛かっていた。 ドイツ騎士団は異教徒プロイセン人を全て屈服させたあと、同胞であるはずのキリスト教徒の世俗騎士や自由都市の市民と争うことになった。 また、ドイツ騎士団を招聘したポーランドもドイツ騎士団の隆盛に対して危惧の念を抱き、ドイツ騎士団を政治的なライバルと見なすようになった。
■ ドイツ騎士団の衰退
1410年に東プロイセン地方でドイツ騎士団とポーランド・リトアニア両国との戦いが起きた。 この戦いにドイツ騎士団側は1万2千ないし1万5千の兵士が参加し、ポーランド・リトアニア側は2万の兵士が参加したとされる。 この戦いでドイツ騎士団は惨敗を喫し、ドイツ騎士団の主力は粉砕された。 この戦いでドイツ騎士団長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン以下200名の有力騎士が死んだ。 この戦いは「タンネンベルクの戦い」と言われ、中世末の戦闘中で最大規模のものとして知られている。 ドイツ騎士団は領地の大半を失い、それまでドイツ騎士団領内にあった都市や城塞の大部分はポーランド王ヤギェウォのものとなった。 それから約50年後、ドイツ騎士団とポーランドとの間で締結された「トルン和平条約」により、西プロイセンはポーランド王の領土となり、ドイツ騎士団は何とか東プロイセンを保ったものの、ポーランド王に服従する封建臣下となった。 こうして、ドイツ騎士団の勢力は大きく後退した。
時代が下って、宗教改革時代にはドイツ騎士団領の全てが世俗領主に譲渡され、ドイツ騎士団員はプロテスタントとカトリックとに分裂した。 ドイツ騎士団長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは1523年にマルティン・ルターと面会して感銘を受け、カトリックからプロテスタントになった。 彼は1525年にブランデンブルク家が世襲する「プロイセン公国」を作り(これはのちの「プロイセン王国」の基となる)、ここにドイツ騎士団は“世俗の騎士団”となった。 一方、1809年まで残存したカトリック側のドイツ騎士団は教会財産国有化によって所領を没収され、廃絶した。
時代が下って、プロイセン王フリードリヒ大王(在位 1740年〜1786年)による第1回ポーランド分割(1772年)の結果、西プロイセンはプロイセン王国領となった。 更に時代が下って、プロイセン王ヴィルヘルム1世(在位 1861年〜1888年)はユンカー出身のビスマルクを首相に起用し、ビスマルクはヴィルヘルム1世の右腕として「鉄血政策」を打ち出し、プロイセンの軍備拡張を遂行した。 そして、ビスマルクは普墺戦争や普仏戦争を経てドイツ統一を達成した。 そして1871年、ビスマルクはベルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世の戴冠式を行ない、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ここにドイツ帝国が成立した。 ドイツ帝国は「神聖ローマ帝国」の次の統一ドイツ国家という意味で「第二帝国」とも呼ばれ、1871年から1918年まで続いた。 第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北すると、西プロイセンはポーランドに明け渡されて「ポーランド回廊」と呼ばれ、東プロイセンがドイツ本国から分離される状態となった。 こうして、東西に分断されてしまったプロイセンの再統合はドイツ国民の悲願となった。 のちに、このドイツ国民の悲願を果たそうとしたのが「第三帝国」の総統ヒトラーであった。
第2章 ヒトラーとヒムラー
■ ヒトラー政権の成立
ヒトラーは第一次世界大戦中にはドイツ帝国軍の伝令兵(階級は伍長)として従軍していた。 第一次世界大戦後の1919年7月、ヒトラーはドイツ共和国軍の諜報員となった。 彼は任務としてドイツ労働者党(1919年1月設立)の調査を始めた。 ところが、ヒトラーはドイツ労働者党の党首アントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義・反資本主義の演説に感銘を受けて、取り込まれてしまい、1919年9月、ドイツ労働者党の党員になった。 ドイツ労働者党は1920年2月に「国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 略号:NSDAP)」と改称した。 (因みに、「ナチ」「ナチス」は蔑称であり、国家社会主義ドイツ労働者党員が自らの党を「ナチス」と呼ぶことはなかった。 以下では、簡単の為に「国家社会主義ドイツ労働者党」を「ナチ党」と記す)。 ヒトラーはナチ党内で忽ち頭角を現し、1921年に党首となり、この党を率いて、入党から14年後の1933年1月30日、合法的に政権を獲得した。 翌年の1934年9月、ドイツ騎士団ゆかりの古都ニュルンベルクで第6回のナチ党大会が開催され、ツェッペリン広場に15万人のナチ党員が集合した。 この党大会では「1つの民族、1人の総統、1つの帝国」というナチ党のスローガンが生まれ、盛り上がった。 この党大会でヒトラーは自信に満ちた表情で声を高らかにして次のように宣言した。「私の夢。 それは古代ゲルマン以来の失地回復であり、ヨーロッパ全土の、東はウラル山脈にまでおよぶ大帝国の建設である。 当面の目標は大ドイツ。 つまり、全てのドイツ民族を含む大ドイツ帝国の建設である」。 ナチスは自らが支配するドイツを、神聖ローマ帝国(800年〜1806年)、ドイツ帝国(1871年〜1918年)に続くものとして「第三帝国」と称した。
■ ナチ党内の地位を一気に駆け上がった男ヒムラー
ヒトラーの側近の1人にハインリッヒ・ヒムラーという男がいた。 ヒムラーは1900年にミュンヘンで生まれた。 彼は敬虔なカトリックの家庭に育ち、熱心なカトリック教徒として成長したが、高校生の頃からオカルトに興味を持つようになり、第一次世界大戦に志願兵として参加し、第一次世界大戦後、ミュンヘン工科大学で農芸化学を学び、養鶏や肥料を扱う農業関係の仕事に就職した。 しかし、彼の関心は極右政治活動にあり、エルンスト・レームによって組織された「帝国戦旗団」という極右団体に所属し、1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆にも参加した。 その2年後(1925年)、ヒムラーはナチ党員となり、1927年、ナチス親衛隊の全国指導者代理に就任し、1929年、当時まだ280人ほどの隊員しかいなかったナチス親衛隊の長官となり、それ以後、ナチス親衛隊の規模の拡大に全力を尽くし、1934年に秘密国家警察(ゲシュタポ)長官に就任し、1936年にドイツ警察長官に就任し、徐々にゲーリングやゲッベルス以上にヒトラーから信頼を得るようになった。 このように、党内の地位を一気に駆け上がったヒムラーはいつしか自分自身が最高権力者となる未来を思い描くようになった。
ヒムラーは生野菜の大ファンで、酒も煙草も殆どやらなかった。 彼は自然療法の信奉者で、「あらゆる医師は自然治癒医師でなければならない」と言い、東方の諸民族は菜食の結果、健康な身体と長い大腸を有すると信じていた。 ヒムラーの命令によりナチス親衛隊の兵舎や強制収容所の多くで薬草の栽培が行なわれた。 ダッハウ収容所は世界有数のハーブとスパイスの栽培所でもあった。 ヒムラーはドイツ国民の全てが菜食主義者になることを願い、そうなってこそドイツ人は彼の思い描く古代アーリア人に戻り、ドイツは世界に冠たる国家となるのであった。
第3章 ヒトラーの東方植民政策
■ ドイツ騎士団の栄光を再び
ヒトラーは『我が闘争』の中で「東方生存圏の獲得」と「スラブ民族の奴隷化」を明言し、ドイツ騎士団の名前を挙げて、次のように述べた。「ヨーロッパで土地を得ようと思うなら、なにはともあれロシアの犠牲において、それを成さねばならない。 その際、新生ドイツ帝国は再び『ドイツ騎士団』の進んだ道を歩むことになろう。 それは、ドイツ人の刀剣によって得た土地でドイツ人の鋤鍬(すきくわ)によってドイツ国民に日々の糧を与えるためである」。 『我が闘争』は1925年7月に第1巻、翌年12月に第2巻が出版され、1943年までに984万部がドイツ国内で出版された。 当時のドイツ文芸学の大御所から、ゲーテの『詩と真実』と並んでドイツの全著作の最高峰と称えられた。
ナチス親衛隊の長官ヒムラーは東方植民への熱意がヒトラーに認められて、1939年に「ドイツ民族強化全国委員」に任命された。 これを受けて「ドイツ民族強化全国委員本部」と「海外同胞福祉本部」が設立された。 前者の本部長にはナチス親衛隊本部官房長のウルリヒ・グライフェルト中将が、後者の本部長にはヴェルナー・ロレンツ大将が任命された。 これらの機関は「ナチス親衛隊人種移民局」と連携して植民活動にあたった。 具体的には、「ナチス親衛隊人種移民局」が東方植民に関する人種・遺伝学的調査を担当し、「ドイツ民族強化全国委員本部」が植民者の配置・募集を、「海外同胞福祉本部」が交通・運輸を担当した。 ドイツ国内ではレーベンスボルンを設立し、国外では植民を推進し、人種的エリートであるナチス親衛隊を中心にして、ヨーロッパ全体を支配するというのがヒムラーの目指すところであった。
■ バルバロッサ作戦
1941年6月22日、ナチス政権は独ソ不可侵条約を破棄して、「バルバロッサ作戦」と呼ばれるソ連侵攻作戦を開始した。 ヒトラーの目的はスラブ民族の奴隷化と、ヨーロッパ東部の広大な地域を「ドイツ民族の移住地」および「資源の供給地」として確保することであった。 1942年に作成された「東部全体計画」によれば、バルト海沿岸からポーランド全域がゲルマン化される予定であったという。 これに関して、歴史研究家のE・H・クックリッジは「ドイツはソ連を巨大な奴隷収容所に作り変えようとの壮大な計画を練っていた」と指摘している。 彼の著書『世紀のスパイ・ゲーレン』には次のような記述がある。「白ロシア(人口550万人/ミンスク、モジレブ、ビテプスクを含む)は東プロシアに併合され、ドイツ人が入植することになっていた。 西ロシアの大部分は第三帝国に併合され、ドイツ人入植者の上層部の下で植民地化され、ドイツ人士官らによる統治を受けるはずだった。 総人口500万人のこの地域はモスクワにまで拡大され、ウクライナ、クリミア、コーカサスの一部と、その油田地帯をも含めるはずだった。 このドイツ人入植地の中でロシア人とウクライナ人はアーリア民族主義にのっとり亜人間と見なされる。 彼らはごく初歩的な教育と農業訓練しか受けられない。 それは奴隷国民となるためである。 約400万人のソビエト人は提供された植民地の中で抹殺される必要があった。 それは“自然な手段”つまり、飢えによって達成される」。
■ 東欧とドイツ本国とを結びつける「交通網充実計画」
ヒトラーは東方支配の効率化と迅速化を図るために、東欧とドイツ本国とを結びつける「交通網充実計画」を立てていた。 例えば、東欧とドイツ本国とを連結する片側11mの車線を有する自動車専用高速道路(アウトバーン)を建設する予定であった。 ヒトラーは、ソ連を占領した暁における東方植民政策について具体的なイメージを持っていた。 ヒトラーはアウトバーンをウラル山脈まで延長し、そのアウトバーンは全て山の尾根に建設して、風が雪を吹きちらす構造にするつもりでいた。 また、彼は、3世紀から4世紀にかけてクリミア半島に定住していた古代ドイツ民族(ゴート族)の名に因んでクリミア半島を「ゴーテンラント」と改称し、“帝国のリビエラ”と呼ばれるほどのリゾート地をクリミア半島に建設する計画も立てていた。
■ ヒトラーを裏切ったヒムラー
ナチス親衛隊長官ヒムラーは1943年に内務大臣となり、1944年に国防軍司令官となった。 彼の「ナチス親衛隊帝国建設」の夢と、自ら権力者として地上に君臨する夢は益々強まるばかりであった。 しかし、ソ連軍の前に敗色が濃厚となるや、ヒムラーは終にヒトラー打倒を試みた。 ヒムラーは、とりあえず連合国側に降伏してヒトラーを失脚させ、政権を手中に収めてから連合国側と手を結び、その上で対ソ連戦争を継続しようとした。 1945年2月、ヒムラーはスウェーデン赤十字社のベルナドッテ伯爵を介して英仏との和平交渉を試みたが、失敗した。 ヒムラーの動きを察知したヒトラーは直ちにヒムラーの解任と逮捕を命じた。 ヒムラーは警官に変装して脱走を謀ったが、1945年5月22日、イギリス兵に捕らえられた。 1945年5月23日、ヒムラーは服毒自殺した。
おまけ情報
アメリカ在住の小説家で、「米国ホロコースト記念協会」の特別コンサルタントを務めたことのあるユダヤ人マイケル・スケイキンは、著書『ナチスになったユダヤ人』(DHC社)の中でナチスの東方植民政策について次のように述べている。「ヒトラーの究極の目標は、2億5000万人のドイツ民族を創り出すことだった。 彼の忠実な官僚は、ウラル山脈西側の広大な草原にまず1億人を送り込む計画を立てた。 また、ナチの理論家アルフレート・ローゼンベルクは、北方系ヨーロッパ人(スカンディナヴィア人、オランダ人、さらにはこの計画に賛同するイギリス人植民者たち)も東部ヨーロッパへ遣り、戦争に勝ったときにアーリア化してはどうかと提案した。 熱狂的ナショナリズムが目一杯に人口統計学的な形を取った恰好のこの民族大移動は史上最も恐るべき民族移動計画だった。 ナチス親衛隊の全国指導者ハインリッヒ・ヒムラーは、この東方植民政策を熱っぽく提唱したが、ヒトラーはその計画を気に入ったものの、ヒムラーの神秘主義的人種主義についてはとりあわなかった」。