ヒトラーの政治手腕

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1940年頃までのヒトラーは当時のドイツ国民から圧倒的な信頼と支持を受けていた。 実際、ナチスは不法にドイツを乗っ取ったのではなく、合法的かつ民主的な手続きを経て、政権を握り、ヒトラーが首相に就任した(1933年1月30日)。 1934年8月、ヒトラーは大統領職と首相職とを統合した「総統」職を新設して、自らそのポストにつき、その是非を問う国民投票を実施した。 是とする票は90%に上った。

ナチスが政権を握った1933年頃、ドイツは1929年に始まった世界経済恐慌に痛めつけられ、工業生産は30年前の水準にまで落ち、失業率は30%を越えていた。 ヒトラーは麻痺状態にあったドイツ経済と600万人の失業者を抱えて、政治をスタートさせなければならなかった。 だが、ヒトラーは首相就任からわずか4年で、夢も希望もない状況の中にあったドイツ経済を活気に満ち溢れた状態に変えた。 他のヨーロッパ諸国では、数多くの失業者たちが1個のパンを求めてうめいていたとき、ヒトラーは全ドイツ国民にパンと仕事と生き甲斐を提供した。 ドイツ国内の失業者は影を潜め、1940年にはドイツの総生産力は世界の総生産力の11%にまでなった。 ナチス・ドイツはアメリカに次いで世界第2位の経済大国にのしあがった。 このヒトラーの功績は奇跡的であった。 なぜなら、このヒトラーの経済復興は、当時のあらゆる経済学の理論に反したやり方で成し遂げられたものであるから。 彼が経済政策の柱としたのは、専門の経済学者のアドバイスを無視しての生産力の拡大と完全雇用をめざした失業対策だった。 当時の経済専門家たちが無謀だと非難したヒトラーの経済政策は、40年後、世界の先端を行く経済学者J・K・ガルブレイスによって、「現代の経済政策を予見していた」と評価された。 しかし、ガルブレイスは次のように付け足した。「恐らく、ヒトラーは自分のやっていることが分かるほどの経済学の知識は無かっただろう」。 ヒトラーの首相就任から4年後の1938年、ドイツはかつての不況が嘘のように繁栄を謳歌していた。 特に、ひどい目に会い続けてきた労働者階級にとって、新しいナチス・ドイツは正に理想の国家だった。 飢えと失業の心配が無くなっただけでなく、劣悪だった労働条件が著しく改善された。

ヒトラーが時代を先取りしていたのは労働問題だけではなかった。 彼は国民の健康と環境衛生の向上にも全力を注いだ。 ヒトラーの政権獲得後、7回もドイツを訪問したイギリスの国会議員アーノルド・ウィルソン卿は次のように書いた。「幼児死亡率は大幅に低下し、イギリスのそれよりかなり低い。 結核その他の疾病は目に見えて減少した。 刑事裁判所はかつてないほど暇で、刑務所も閑散としている。 ドイツ青少年の肉体的能力は見た目にも快い。 最も貧しい人々でも以前に比べたら遥かにましな服装をしているし、彼らの陽気な表情は心の中の精神的向上を示している」。

更に、ヒトラーは「公害の防止」にも非常に熱心だった。 大気汚染を防止するために有毒ガスの完全除去を産業界に奨励し、実際、多くの工場に汚染防止装置が設置された。 新設工場は水質汚染防止のための装置を取り付けることを義務づけられた。 新たに進められる都市計画では、自動化された地下駐車場や、車両通行禁止の広場、無数の公園、緑地などを設けて、大気汚染が厳重に規制された。

ナチス・ドイツの「新都市計画」はヒトラーの発案で作られ、ヒトラーによって推進された一大事業であった。 総統令が出され、ベルリン、ニュルンベルク、ハンブルク、ミュンヘン、リンツは総統都市として優先的に改造された。 特にリンツはパリに劣らぬ“芸術の都”とすべく、ベルリンは世界に誇れる政治の中心地とすべく、力が注がれた。 ヒトラーは、軍需大臣で建築家でもあったシュペーアの協力で、ベルリンを大帝国の首都にふさわしい超大型の建築物の林立する都市に造り変える構想(世界首都ゲルマニア計画)を立てた。「新ベルリン」の中央には幅122m、長さ5kmの巨大な南北軸の大通りを造り、南の端には総統宮殿と大理石の巨大な凱旋門(パリの凱旋門の15倍の大きさ)が建つことになっていた。

ヒトラーの国家的な健康管理は想像以上の効果を上げていた。 当時のドイツの医学雑誌は、食物や飲み物の中の人工着色剤や防腐剤の悪影響について警告し、薬品・化粧品・肥料・食物についても、有機的で自然な素材のものに戻すように力説していた。 ヒトラーの侍医であったテオドール・モレルは、殺虫剤のDDTは無効であるばかりか危険であると断言し、健康に対する脅威であるという理由で1943年まで配布しなかった。 また、ナチスは世界最大規模の反タバコ運動を展開して、喫煙の根絶を目指し、党の事務所や待合室など公共の場での喫煙を禁止した。 特効薬や抗生物質がまだ見つかっていなかったこの時代、日本人の多くは当然のように結核や感染症で死んでいったが、ナチス・ドイツは保健事業による公衆衛生の向上で、既に感染症を克服していた。

更に、ヒトラーの人気を高めたのは経済政策と並ぶ対外政策の成功であった。 ナチス・ドイツは1933年10月、国際連盟と軍縮会議から脱退した。 ヒトラーは言った、「いかなる権利も平等も持たないこのような機構の一員として名を連ねることは、名誉を重んじる6500万人の国民とその政府にとって、耐え難い屈辱である」と。 国際社会に背を向けるこの外交的ギャンブルは第一次世界大戦の敗戦国としてヴェルサイユ条約に屈辱感を抱き続けてきた国民を熱狂させた。 20世紀の大哲学者の一人として名高いマルティン・ハイデッガーは学生に次のように語った。「総統をして国際連盟脱退に踏み切らせたものは、野心でも、激情でも、盲目的な我執でも、暴力への欲求でもない。 それはドイツ国民の運命を支配するに当たって無条件に責任を負おうとする明白な願望以外の何物でもない」。 この世界的な哲学者はヒトラーを賞賛し、ナチスへの共感を積極的に表明した。 彼は1933年にナチスの後ろ盾でフライブルク大学の学長に就任し、ナチス党員になり、大学からユダヤ人を排除した。 彼は戦後になってからも、かつての言動を反省する様子を見せず、ユダヤ人迫害にも終始、黙秘し続け、厳しく糾弾された。 なぜハイデッガーはヒトラーに荷担したのかについて、学問レベルでの論争が今なお続いているが、ハイデッガーとナチスをめぐる謎は明らかにされていない。

1935年1月、それまで国際連盟の管理下にあったザール地方の帰属を決める住民投票が行なわれ、ドイツへの帰属を希望する票が91%を占め、その結果として、1935年3月、ザール地方はドイツに復帰した。 更に翌1936年、ヒトラーはラインラントの無血占領に成功し、1938年3月には、オーストリア国民の圧倒的支持を受けてオーストリアを併合し、その半年後にズデーテン地方を併合した。 このように、ヒトラーはわずか3年のうちに、ヨーロッパのドイツ語圏の全ての地域を手に入れた。 しかも、その領土拡張は常に戦争の危険を孕みながら、全く無血のうちに行なわれた。 フランスやイギリスは武力介入を一切行なわず、むしろ暗黙の了解を与えた。

オーストリア国民は必ずしもナチスを支持していたわけではなかったが、第一次世界大戦の戦勝国によって阻まれた「ドイツとオーストリアとの合併」の悲願を実現してくれるものとして、ドイツ軍を歓呼の声をもって迎えた。 そして、国民投票が行なわれ、99.7%のオーストリア国民がドイツとオーストリアとの合併に賛成した。 ある歴史家は当時のドイツの大衆に見られた雰囲気について「我々はそのようなことを希望する勇気さえ持たなかった。 なのに、この男は、あっさりと全てに成功した。 彼は神の使者だ」と書いた。 ドイツ国民はヒトラーの先を読む目のすごさに感嘆した。

1936年8月、ベルリン・オリンピックが開催された。 今では当たり前となっている開会式の聖火リレーはヒトラーの発案で初めて行なわれたものである。 また、巨費を投じた競技施設とオリンピック史上初の選手村、擬似軍隊的な開会式・閉会式、国家元首による厳かな開会宣言、「民族の祭典」というキャッチフレーズ、初のテレビ中継など、期間中の華麗な演出は正に現代オリンピックの原型となった。 ベルリン・オリンピックはナチス・ドイツの力を世界に誇示する場となり、「ヒトラーの大会」とさえ言われ、国威を発揚して空前の成功を収めた。

ベルリン・オリンピックには49ヶ国4066人の選手が参加した。 ドイツは金メダル33個を獲得し、断然トップだった。 このオリンピックはドイツ国民の国民としての意識に火をつけ、「勝利万歳、われらの総統、アドルフ・ヒトラー」という観客の叫びが自発的に湧き上がるほどであった。 ドイツ国民はオリンピックを通じて、ナチス・ドイツが国際的に受け入れられたと信じた。 また、この大会の記録映画『オリンピア』(監督:レニ・リーフェンシュタール、邦題は第1部『民族の祭典』、第2部『美の祭典』)は1938年のベネチア映画祭で金賞を獲得するなど、各方面で絶賛され、不朽の名作となった。

あるドイツ人教師はオリンピックで見たヒトラーについて次のように回想した。「周りのおばあさんたちはまるで救世主が現れたように、すすり泣きしていました。 私も恥ずかしいことですが、一緒に歓声をあげたことを白状しなければなりません」。 因みに、ベルリン・オリンピックに参加した日本は合計18個のメダル(金6個、銀4個、銅8個)を獲得し、「前畑がんばれ」のラジオ放送は日本中を熱狂させた。 閉会の言葉は、「また4年後に東京で再会しよう」だったが、日中戦争の激化で日本はこれを返上した。 ベルリン・オリンピック大会以降、オリンピックのやり方がガラリと変わり、古代オリンピックの精神は消えてしまった。 オリンピックは個人の力を競う場ではなくて、個人の力を利用して国家を宣伝する場になり、政治的にも大いに利用されるようになった。

ヒトラーの優れた伝記作家のひとり、ジョン・トーランド(アメリカのピュリッツァー賞作家)は次のように書いた。「もしも、ヒトラーが政権獲得4周年の1937年に死んでいたとしたら、疑いもなくドイツ史上の最も偉大な人物の一人として後世に名を残したことだろう」。 ノーベル文学賞受賞者で、痛烈な皮肉で知られるイギリスの評論家バーナード・ショーは、雑誌や新聞や演説でヒトラーを弁護し、かつての仲間の社会主義者から抗議を浴びた。 更に、アメリカの知性派女流作家ガートルード・スタインは「ヒトラーにノーベル平和賞を与えるべきだ」とまで考えていた。 だが、ヒトラーは、そんな賛美者たちがイメージしたような単純な救世主ではなかった。 彼は次第に同時代の知性では認識できない精神を見せるようになる。

おまけ情報1
文芸評論家の加藤弘一氏は「ヒトラーの政治」について次のように述べている。 参考までに紹介しておきたい。「ヒトラーについては、あらゆることが言われてきた。 金髪の美女を追い回した漁色家にされるかと思えば、身体的に問題のある性的不能者ともされた。 ユダヤ人を絶滅するために第二次世界大戦を起こしたとされる一方、ヒトラー自身がユダヤ人の血をひいているという説も根強い。 こうした説の多くはヒトラーの生前からささやかれてきたもので、ナチスの政治宣伝に対抗する逆宣伝や俗説の類が多いが、『ナチス断罪』に急なあまり、客観的な評価の試みを無視してきた風潮が混乱に輪をかけたといえる。 意外に思う人がいるかもしれないが、ナチス政権が合法だったことは否定しようのない事実である。 レーニンは暴力によって権力を握り、選挙に負けると国会を閉鎖したが、ナチスは世界で最も民主的だといわれたワイマール憲法の下で、公正な選挙によって政権を取り、その後も何度も国民投票を行なって民意を確認しているのである。 『強制収容所』などはレーニンの施策から取り入れたものだが、ヒトラーは暴力革命路線と民主集中制は採用しなかった。 ナチスが終始、暴力的なユダヤ人迫害を主張してきたとする見方も間違っている。 『わが闘争』の主張と、強制収容所での虐殺があまりにも強烈なので、どうしてもそう錯覚しがちだが、ミュンヘン蜂起失敗後、ナチスは平和的な議会主義路線に転じ、反ユダヤ主義の主張も選挙民に受け入れられるようにトーンダウンされていた。 従来、ナチスの自作自演とされてきた政権獲得直後の国会放火事件も、今日では当時の判決どおり、オランダ共産党員だったルッベの単独犯行とする説が定説である。 ナチスはこの放火をドイツ共産党による組織的犯行と断定し、共産主義の脅威を言いたてて、一党独裁体制への道を開いたが、すべてをナチスの謀略だったする説も反ナチス側の政治宣伝にすぎなかったのだ。 ナチスの戦争犯罪は断じて許されるものではないが、今日、ヒトラーとナチスを論じることは、ある程度、彼らの名誉回復を伴うものとならざるをえない。  〈中略〉  資本主義の発達は伝統的な共同体を解体し、人間を孤独な個人として競争社会の中に放り出したが、寄るべきものが無い個であることからの救いを宗教以外に探すとしたなら、自己の存在根拠をマルクス・レーニン主義のように『国際的な労働者の連帯』という階級神話に求めるか、国家社会主義のように『民族の連帯』という人種神話に求めるしかない。 ヒトラーは『国際的な労働者の連帯』を『ユダヤ的社会主義』と呼んで否定したが、ユダヤ的云々はともかく、そのような抽象的な『国際的な労働者の連帯』で人間が救われるかという主張と見るなら、困ったことに、それなりの説得力を持っている。 ハイデッガーを初めとするヨーロッパ最高の知識人がナチスに傾倒したのは、『民族の連帯』という神話にある種のリアリティを認めたからだが、しかし、あくまで神話にすぎない以上、ナチズムも共産主義と同様に、団結を維持するために人民の『敵』と強制収容所を必要とした。 個であることの不安から逃れようとする人々がいる限り、新たなヒトラーはこれからも登場するだろう」(加藤弘一氏の記事 雑誌『週刊宝石』1990年より)。

おまけ情報2
ベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』の監督レニ・リーフェンシュタールは、戦後、多くのマスメディアから「ナチのプロパガンダに協力した御用監督」「ヒトラーの“お抱え監督”」と呼ばれ、厳しい批判にさらされた。 彼女は映画界から追放され、友人たちからも疎外され、様々な中傷を浴び続けた。 彼女は涙ながらに次のように訴えた。「あの頃、ドイツ人は誰もヒトラーのことを疑っていませんでした。 ナチスの政権が始まってから僅か1年で、600万人もいた失業者が激減したんです。 短期間に生活はすごく良くなりました。 戦争がこれから始まるなんて、誰も考えていませんでした。 あの当時、ナチスに反対する人なんていなかったんです。 誰ひとりとして。 私はナチ党員ではありませんでしたし、ユダヤ人迫害に賛成したこともありません。 私が興味を持ったのは、“美”だけでした」。 彼女は70歳を過ぎた頃、スキューバーダイビングの免許を取り、2000回にもおよぶダイビングで収めた海中映像やアフリカのヌバ族を撮影した写真集を出し、世間をアッと驚かせた。 その後も、彼女は精力的に芸術分野の仕事を続け、2003年9月8日に亡くなった。 享年101歳だった。 彼女は死の3年前(98歳の時)、ヒトラーについて次のように語った。「ときどき、私はヒトラーの夢を見るわ。 そして、刺し殺してやろうと思う。 でも、なんだか、母親が息子を殺そうとしているような、そんな気持ちになってしまう。 だけど、彼は殺さなくてはいけない人間なの」。 長生きのコツについては、次のように語った。「どんなことがあっても、人生に『イエス』と言うことよ」。