ヒトラーの日本観

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第二次世界大戦中、日本はイタリアと共にドイツと同盟を結んでいた。 日本、イタリア、ドイツの三国は1940年9月27日にベルリンで日独伊三国軍事同盟を結び、三国の枢軸体制を強化し、イギリスとアメリカとを牽制しようとした。 ヒトラーは日本をどのように考えていたのだろうか。 ヒトラーは『我が闘争』の中で世界には「3つの人種」がいると書いている。 1つ目は「文化創造種」で、これは一等種である。 2つ目は文化創造種の創った文化に従う「文化追従種」で、これは二等種である。 3つ目はこれらの文化を破壊する「文化破壊種」である。 彼の説によると、文化創造種はゲルマン民族(金髪・青い目でドイツ・オーストリア・北欧に広がる民族)のみであり、日本人は文化追従種であり、ユダヤ人は文化破壊種である、と書いている。 また、ヒトラーは『我が闘争』の中で、当時、世界に蔓延していた「黄禍論(反日感情)」はユダヤ人が扇動したものである、と書いている。

ヒトラーは同じ敵を持つ仲間として日本を考えていた。 ヒトラーは日本の実力を侮り難いものであるとも考えていた。 ナチス・ドイツの軍需大臣を務めた建築家アルベルト・シュペーアは次のように書いている。「彼は人種的観点から問題の多い同盟を拒否しなかったが、日本との対決を遠い将来に予想していた。 ヒトラーはイタリアをそれほど強国とは信じていなかったが、日本を列強国かつ同盟国と見ていた」。

『ヒトラーのテーブル・トーク』(三交社)には、ヒトラーの次のような言葉が記されている。「『ユダヤ菌』の発見は世界の一大革命だ。 今日、我々が戦っている戦争は、実は前世紀のパスツールやコッホの闘いと同種のものなのだ。 いったい、どれほどの病気がユダヤ菌によって引き起こされていることやら。 日本はユダヤ人を受け入れなかったので、ユダヤ菌に汚染されずに済んだのだ。 ユダヤ人を排除すれば、我々は健康を取り戻せる。 全ての病気には原因がある。 偶然などない。 1925年、『我が闘争』に書いたのだが、ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない敵だと見ている。 日本人には鋭い直感が備わっており、さすがのユダヤ人も内部から日本を攻撃することは出来ないということが分かっているのだ。 となると、外から叩くしかない。 本来、イギリスとアメリカにとって日本との和解は多大な利益を意味する。 その和解を必死に阻止しているのがユダヤ人なのだ。 私は警告を発したが、誰も聞く耳を持たなかった」。

ヒトラーは日本についてかなり詳しい知識を持っていた。 その情報源のひとつがドイツの代表的な地政学者カール・ハウスホーファー教授である。 (この教授のミュンヘン大学での助手がルドルフ・ヘスだった)。 カール・ハウスホーファー教授は滞日経験もある日本研究家であり、流暢な日本語を話し、日本に関する著書をたくさん残した。 彼はヒトラーに『我が闘争』の執筆を勧め、ヒトラーの政治顧問を務めた。 しかし、1941年6月にナチス政権が独ソ不可侵条約を破棄し、ドイツ陸軍がソ連への侵攻を開始すると、彼はヒトラーと政策面で意見が合わなくなり、冷遇されるようになった。

1939年にベルリンで「日本古美術展」が開かれた。 この美術展にヒトラーも訪れた。 ヒトラーは日本の多くの古美術を熱心に見てまわった。 特に平清盛像に異常な関心を寄せ、いつまでも覗きこんでいたという。 平清盛といえば、一代にして栄華を極めた男である。 ヒトラーは平清盛に自分の姿を重ね合わせていたのであろうか。

山崎三郎氏(独協大学教授)の『ユダヤ問題は経済問題である』には興味深い話が紹介されている。 日産自動車の実質的な創業者で満州重工業の総裁であった鮎川義介氏がドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。 ヒトラーは鮎川氏に次のようなことを語ったという。「貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツが作っているような工作機械は作れないだろう。 しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。 それは貴方の国の万世一系の皇統である。 これはドイツが100年試みても、500年頑張っても出来ない。 大切にせねば駄目ですよ」。 これはヒトラーが日本の天皇を崇敬しているというより、君民一体の理想的な国家形態を伝統的に継承している日本に、率直に敬意を表わしたものであろう。 君主政治を完全に近い形で実現している国は当時では日本だけであった。 ヨーロッパの王朝では、国王は概して飾り物的な意味合いが強かった。 また、国王は往々にして圧政をしき、国民と対立関係にあった。 日本では、天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛するという関係がごく自然な形で成り立っていた。

1941年12月8日に日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まると、ヒトラーはその直後の12月11日の演説で「我々は戦争に負けるはずがない。 我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と、日本を賞賛し、アメリカに宣戦した。 念の為に書いておくが、第一次世界大戦のとき、日本はドイツとは敵対関係にあった。 支那事変以前の数年間、日独関係は良好ではなかったし、当時のドイツの将軍たちは反日的で、その将軍たちは上海付近の中国人の防衛陣地の建設に協力していた。 縦横に張り巡らしたクリーク(溝)を利用したドイツ式陣地の突破に日本陸軍は苦戦を強いられた。 しかし、1936年に日独防共協定が結ばれ、1940年に日独伊三国軍事同盟が成立すると、日本とドイツとの関係は良好になった。

1943年、ナチス政権はドイツ製の潜水艦2隻を日本海軍に贈った。 これは、ヒトラーがドイツ海軍内の人々及び専門家の強い反対を押し切って実現したことだと言われている。 日本海軍に寄贈された潜水艦は当時の最高水準の性能を持つもので、日本の大型潜水艦よりずっと小型であったが、その性能や装備は、日本の技術者たちに、これをモデルとした潜水艦の建造を遂に断念させたほど高度なものであった。 例えば、鋼板の堅さからして、日本で使われていたものの2倍もの強度を持っていたので、爆雷攻撃に対しても強かった。 鋼鉄は強度が大きくなると、溶接がとても難しくなる。 日本の溶接技術は高くなかった。 そこで、ヒトラーの好意として、この方面の優秀な専門技師3人が、寄贈される潜水艦に搭乗して日本にやって来た(1943年7月)。 この3人のドイツ人技師は日本海軍に全面的に協力することを誓ったのであったが、精密機械を載せた後続の潜水艦がインド洋上で撃沈されてしまったので、残念なことに、彼らは十分な指導をすることが出来なかった。

ナチス親衛隊の長官ハインリッヒ・ヒムラーは、大戦中の日本軍の強さに感銘し、日本人がゲルマン民族であることを御用学者に証明させようとした。 彼は、日本人から日本刀を贈られたとき、日本人とゲルマン人の祭式の共通性を発見し、どうしたらこの共通性を種族的に解決できるかの研究を学者の協力を得て進めたという。 これは、ヒトラーが常々「なぜ我々は日本人のように祖国に殉ずることを最高の使命とする宗教を持たなかったのか。 間違った宗教を持ってしまったことが我々の不幸なのだ」と語っていたのを聞いていたからという。 ヒトラーは日本の神道を高く評価していた。
また、戦局がドイツにとって次第に不利に展開していった1944年の夏、ヒトラーはギムナジウム(高等学校)に日本語を必修科目として取り入れることを命令した。 最初はとりあえず、一校だけをモデル校に選んで試験的に授業を行なうことになったが、最終的には全てのギムナジウムで英語の代わりに日本語を必修科目にする計画だったという。 そのほか、菜食主義者であり、禁酒家・禁煙家であったヒトラーが日本の豆腐に注目し、「ローマ軍は菜食であれほど強かったのだから、ドイツ軍兵士にも豆腐を食べさせよう」という計画を立てていたとも言われている。

ヒトラーは最後まで忠実だったマルティン・ボルマンに公式の遺言を残している。 そこにはヒトラーの好意的な日本観が表明されている。 このヒトラーの遺言は、原書房から出版されている『ヒトラーの遺言』(記録者:マルティン・ボルマン)で読むことができる。 この本には次のような記述がある。
我々にとって日本は如何なる時でも友人であり、そして、盟邦でいてくれるであろう。 この戦争の中で我々は日本を高く評価すると同時に、益々尊敬することを学んだ。 この共同の戦いを通して、日本と我々との関係は更に密接で堅固なものとなるであろう。 日本が直ちに我々と共に対ソビエト戦に介入してくれなかったのは確かに残念なことである。 それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペストには来ていなかったであろう。 ドイツと日本は共同して、1941年の冬がくる前にボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。 他面において人々は、1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを残念に思うだろう。 アメリカは、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。 その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。 ドイツと日本との運命共同体は存続するであろう。 ドイツと日本は一緒に勝つか、それとも、共に亡ぶかである。(1945年2月18日)