ヒトラー逃亡説

原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc350.html

アドルフ・ヒトラーはナチス・ドイツの敗北と同時にベルリンにあるヒトラー総統官邸の地下壕でピストル自殺したとされている。 だが、その一方でヒトラーの死にまつわる疑惑が密かに執拗に囁かれている。

第1章  ヒトラー自殺説
ヒトラーの死について、イギリス軍とソ連軍は公式な調査を行なった。 イギリス軍の調査責任者はトレバー・ローパー大尉であり、彼は1947年に『ヒトラーの最期』を出版し、ヒトラーの死に関する詳細な調査報告を残した。 彼の採用したデータの殆ど全ては、連合軍の捕虜になったドイツ軍幹部から聴取したものである。 今日ではイギリス軍トレバー・ローパー大尉の書いた『ヒトラーの最期』に基づいて広く次のように語られている。
1945年4月、ドイツの首都ベルリンはソ連軍に包囲され陥落寸前であった。 総統官邸は通信網が寸断され孤立しており、ゲーリングやヒムラーなど、後継者とされた人物が次々とベルリンを離れた。 ヒトラーは総統官邸の地下15メートル、厚さ2メートル強のコンクリートの壁で守られた地下壕に僅かな腹心と共に踏みとどまっていた。 もはや戦局は明らかだった。 こうした状況の中で、1945年4月29日の未明、ヒトラーは長年献身的に尽くしてくれたエバ・ブラウンとの結婚式を地下壕の小会議室で挙げた。 そして、接見室で秘書に遺言状を口述筆記させた。 1945年4月30日午後2時、ヒトラーは残った幹部を食堂に集め一人一人に無言で握手して回り、エバ・ブラウンと共に自室に入った。 廊下には親衛隊員たちが待機していた。 彼らの任務は「遺体は人目に曝したくない。 検視もされたくないので、すぐに焼却処分にしてくれ」というヒトラーの望みを叶えることだった。 ヒトラー夫妻が部屋に入ってから約10分後の午後3時30分。 静寂を破って1発の銃声が聞こえた。 側近の者が室内に入ると、ヒトラーは血まみれになってソファーに横たわっていた。 ピストルの銃口をくわえ、引き金を引いたのだった。 弾丸は口腔から脳を貫いていた。 即死であった。 脇にはエバ・ブラウンが青酸カリを飲んで死んでいた。 ヒトラーとエバ・ブラウンの2人の遺体は毛布にくるまれ、親衛隊員たちによって壕から運び出され、総統官邸の裏庭の小穴に安置され、その日のうちに140リットルのガソリンを掛けられて焼かれ、そのまま埋められた。 その後、ソ連軍が現場に到着し、数日間に渡って探索を続け、焼け焦げた遺体を2つ発見した。 炭化して判別のつかない状態であった遺体の1つがヒトラー本人であることは、燃えずに残っていた義歯によって確認された。
これが今日広く語られている“ヒトラーの最期”である。 ウィキペディアによるヒトラーの解説においても「ヒトラーは1945年4月30日、自ら命を絶った」とされている。

ソ連軍はイギリス軍より先にヒトラーの遺体確認作業をしたが、ソ連軍による調査はヒトラーの日記などの重要な資料を見落とすなど、かなりずさんだったようで、しかも、ソ連軍は貴重な目撃者を拉致して捕虜収容所に拘留し、調査に当たっていた全員にヒトラー総統官邸の地下壕内で見たことについての口外を禁じた。 更に、ソ連軍はトレバー・ローパー大尉率いるイギリス調査隊への協力を拒否した。 その為、トレバー・ローパー大尉は調査の為の資料を十分には入手することが出来ず、彼の調査報告は不完全なものとなった。 その為もあってか、ヒトラーの死について、イギリス軍の調査報告とソ連軍の調査報告とは互いに大きな食い違いを見せる。 例えば、トレバー・ローパー大尉は「1発の銃声が聞こえた」と記し、「ヒトラーはピストル自殺した」と推定しているが、ソ連政府は法医学委員会の調査結果として「ヒトラーはピストル自殺したのではなく、服毒自殺したことが判明した」と発表した。

第二次世界大戦中にはソ連軍将校として参戦した歴史学博士レフ・ベジュメンスキーは戦後にはジャーナリストとして活躍し、ヒトラーの死に関する論文を1968年に発表し、更に、それから27年後の1995年に『ヒトラーは何回葬られたか?』を出版した。 彼の論文はKGB公文書や遺体発掘に係わった兵士へのインタビューなどを纏めたものである。 それによると、総統官邸の裏庭で発見されヒトラーの遺体だと思われたものはヒトラーの影武者であると判明した。 一方、ソ連軍が総統官邸の裏庭ではなくベルリンの郊外で発見した焼け焦げた遺体こそヒトラーの遺体であり、その義歯を調査したところ、ヒトラー本人のものと確認されたという。 その後も遺体はベルリン北部に一度は埋葬されたが、確認の為に掘り起こすという作業が8回も繰り返され、最後には東ドイツのマクデブルクのソ連軍基地に埋葬されたが、1970年の基地返還に伴って、遺体は完全に灰にされ空中にまかれたという。 しかし、ソ連軍が焼け焦げた遺体の義歯からヒトラー本人であると確認したという話には疑念が持たれている。 この論文は信憑性が低い。 発表のタイミングからして、ソ連お得意のプロバガンダのように思われる。

アメリカ人ジャーナリストのコーネリアス・ライアンは著書『ヒトラー最後の戦闘』の中で、「ソ連軍は歯が完全に残っている焼け焦げた遺体を発見し、ヒトラー掛かり付けの歯科医の助手を捜し出し、その後、総統官邸の診察所跡からヒトラーの歯のX線写真を回収し、発見した遺体から採取した金のブリッジでつながれた義歯と比較・照合し、26ヶ所の一致点をもってヒトラーのものと確認した」という内容のソ連軍の調査報告を取り上げ、この調査報告に疑義をはさんでいる。 彼は、遺体が炭化するほどの高温によって焼却されたのに、金が溶けずに残っているはずがないと指摘している。 (この指摘には疑問を感じる。 遺体がどの程度に炭化したか、そして、遺体が炭化を超えてどの程度に灰になったかが問題である)。 なるほど実に素朴な指摘である。 また、奇妙なことに、ヒトラー掛かり付けの歯科医の助手はその後、捕虜収容所に連行されてしまったという。 口封じの為であろうか。 また、コーネリアス・ライアンは、ソ連軍がヒトラーの遺体を総統官邸の裏庭ではなくベルリンの郊外で発見したこと、更に、ソ連軍がエバ・ブラウンの遺体を発見できなかったことを指摘している。 となると、「ヒトラーとエバ・ブラウンの2人の遺体は総統官邸の裏庭で焼かれ、そのまま埋められた」とするイギリス軍トレバー・ローパー大尉の調査報告は一体どうなるのか。 なぜ、エバ・ブラウンの遺体は発見されなかったのか。 ここに至って、ヒトラーの死を述べた人々の発言も実に曖昧になってくる。 『ヒトラー生存の神話』を著したドナルド・マッケイルは、その中で次のように述べている。「ヒトラーは死んだと言った者たちは、厳しい尋問が続くにつれて、次第に辻棲を合わせることが出来なくなってきて、終には、ヒトラーの遺体を実際に目撃した者はいないことを認めたのである。 例えば、運転手のエーリッヒ・ケンプカは、彼が実際に見たものは毛布から出ている2本の足だけであり、ヒトラーの遺体と確認したわけではないことを認めている」。

このように、ヒトラーの死に関しては余りにも矛盾や疑問点が多いが、これら以外にもヒトラーの死に関しては様々な説が浮上している。 ヒトラーの後継者に指名されたドイツ海軍総司令官デーニッツは、ハンブルクのラジオ放送で「ヒトラーは司令室でソ連軍と最後まで戦って死んだ」と国民に呼びかけた。 『パリ・プレス』紙は「戦争続行についての意見の食い違いで部下に爆弾を仕掛けられ殺された」と報じた。 他には、「前年の暗殺計画によってヒトラーは既に殺されていた」という説や、「ユダヤ人に誘拐されて殺された」という説や、「脳梗塞を起こして死んでいた」という説までが登場した。 ヒトラーの死に関して混乱が生じた理由の中で大きなものは、最初に遺体確認作業をしたソ連軍諜報機関「スメルシュ」やKGB関係者に対し、スターリンが徹底した口外禁止令を出したことである。

第2章  アメリカ軍のヒトラー捜索隊が出した衝撃的な調査報告
アメリカ軍もヒトラー捜索の為に、ウィリアム・F・ハインリッヒ陸軍情報部大佐を長とする捜索隊をベルリンに派遣した。 この捜索隊は1945年7月中旬にベルリンに入り、ヒトラーの遺体を焼いたという穴を掘削して詳しく調べたが、驚くべきことに焼却が行なわれたという痕跡が全く無かったという。 結局、そこから発見された物は「AH」というイニシャル付きの帽子と、「EB」というイニシャル入りのパンティだけだったそうだ。 更に、総統官邸の地下壕を調べてみると、ヒトラーとエバ・ブラウンとが倒れていたとされるソファーには確かに血痕が認められたが、後日の分析では、それらはいずれも彼らの血液型とは一致しなかったという。 それだけではない。 ピストルの弾痕も発見されなかったという。 こうしてみると、イギリス軍トレバー・ローパー大尉の著書『ヒトラーの最期』は実にいい加減な調査報告であり、信用できるものではない。

1946年10月17日付けの『ニューヨークタイムズ』に、ウィリアム・F・ハインリッヒ陸軍情報部大佐の衝撃的とも言えるコメントが掲載された。「ヒトラーの自殺については、何ら確実な証拠がない。 これでは世界中のいかなる保険会社も保険金を支払うことは出来ないだろう。 私は、ヒトラーは生きていると思う。 なにしろ、彼が去年までに死んだということすら証明できないのだから。 ヒトラーの側近だったマルティン・ボルマンが南アメリカに亡命しているとしたら、ヒトラーも当然に脱出できたはずだ」。 ハインリッヒ陸軍情報部大佐は、ソ連が発見したというヒトラーの遺体は偽物である可能性が極めて高いと指摘した。 彼はアメリカ政府への最終報告書の中で「ヒトラーの自殺を立証する根拠は存在しない」と強調した。

また、ベルリン陥落寸前、決死的な脱出に成功した有名な女性飛行士ハンナ・ライチュはヒトラーの脱出に一役買ったのではないかと言われている。 当時ヒトラーには専用パイロットがおり、専用機も用意されていた。 従って、ベルリンからの脱出は決して不可能ではなかった。

1945年8月、ソ連のジューコフ将軍がベルリンのソ連軍を代表する立場として、「ヒトラーの遺体は確認できなかった。 イギリスがヒトラーを隠している」という公式声明を出した。 また、1945年9月にソ連政府が出した公式発表は次のような内容であった。「ヒトラー及びエバ・ブラウンの遺体の痕跡は発見できなかった。 偽りの証拠を示すことで、ヒトラーは自分の痕跡を隠そうとした。 4月30日未明、小型飛行機がティアガルテンから飛び立ち、ハンブルク方向に向かったという明らかな証拠がある。 その飛行機には男性3名、女性1名が乗っていた。 また、イギリス軍侵攻前にハンブルクから大型潜水艦が出港したことも確認されている。 潜水艦に乗っていた人間の氏名は不明だが、女性が1人含まれていた」。

スターリンはヒトラーの自殺を信じていなかった。 彼は、ドイツ降伏後の1945年5月26日にモスクワを訪れたアメリカ特使ハリー・L・ホプキンズに対し、「ヒトラーは生きており、側近のマルティン・ボルマンと一緒にどこかに隠れているのではないか」との見解を示した。 ハリー・L・ホプキンズが「ヒトラーはUボートで逃走したのではないか」と言うと、スターリンは「それはスイスの黙認により遂行された」と答えたという。 スターリンはポツダム会談でも繰り返しヒトラー逃亡説を語って関係者たちを困惑させていたという。 因みに、ソ連以外の各国の情報部もヒトラーの逃亡先を追っていて、1950年代に入ってもドイツ将校を捕まえる度に、「ヒトラーはどこにいるのか」と、しつこく質問していたそうである。

第3章  ヒトラー逃亡説
ヒトラー逃亡説については様々な発言がある。 それらの発言の幾つかを取り上げてみたいと思う。 ベルリン陥落の2日前、正確にいえば1945年4月30日の午後4時15分、ベルリンに近いテンペルホフ空港は6分ごとに離着陸する飛行機でごったがえしていた。 ちょうどそのとき、ベルリン防衛の為の若いドイツ軍兵士を満載した飛行機「Ju-52」が着陸した。 この飛行機に搭乗していた通信兵1人と砲兵1人は、燃料補給を待っている間、機外で雑談をしていた。 そのとき、彼らから100メートルと離れていない距離にヒトラーが立っているのが目に入ったという。 グレーの制服に身を包んだヒトラーは、見送りに来たらしい数人のナチス親衛隊高官たちと何やら話を交わしている様子で、目撃者の通信兵1人と砲兵1人は燃料補給が終わるまでの約10分間、この光景を見つめていたという。 やがて4時30分過ぎに彼らの飛行機はテンペルホフ空港をあとにした。 目撃者の通信兵1人と砲兵1人は真夜中の軍事ニュースでヒトラーの死を知り、てっきり、ヒトラーの乗り込んだ飛行機が墜落事故を起こしたのだと思ったそうである。 この2人はこの話を終戦後、連合軍の調査機関に語った。「ヒトラーは1945年4月30日の午後4時30分頃、間違いなくテンペルホフ空港にいた」と、この2人は主張したという。 また、別ルートからのヒトラー逃亡情報もあり、ヒトラー逃亡説は更に現実味を帯びていった。 1947年10月6日付けの『ニューヨークタイムズ』は、スウェーデンのティデニンガルナス・テレグラムビラ通信の報道として「ヒトラーは飛行機でデンマークに渡った」と報じた。 そして、1948年1月16日付けのチリの新聞『ジグザグ』は「ピーター・ボムガードというドイツ空軍の機長がヒトラーとエバ・ブラウンをテンペルホフ空港からナチス支配下のデンマークのトンダーまで脱出させ、彼らはそこから別の飛行機でナチス支配下のノルウェーのクリスチャンスンへ向かい、そこでドイツのUボート艦隊と合流した」と報じた。 1968年には 『ポリスギャゼット』紙が「ヒトラーがアルゼンチンで生きている」というセンセーショナルなタイトルの記事を報じた。 この記事によると、ヒトラー一行6人は飛行機でベルリンを脱出したあと、予め用意してあったUボートに乗り換えて逃亡し、1945年7月19日早朝、コロンビアのバイア・ホンダに上陸し、そこから馬に乗り、インディオ4人とドイツ人諜報員2人の案内で夜間にのみジャングル内を移動し、6日後にラ・ロマに到着した。 そこには仮設の滑走路と軽飛行機2機が用意されていて、彼らはそこから軽飛行機に乗り、姿をくらませたという。 このとき、ヒトラーは3万ドルの入ったスーツケースを所持していたという。 アメリカのアイゼンハワー大統領は 『ポリスギャゼット』紙に掲載された「ヒトラー逃亡説」に対して、次のようにコメントした。「ヒトラーの死を証明する確かな根拠は今までまったく発見されていない。 そして、ヒトラーはベルリンから逃亡したと多くの人が言っている。 私はこれに対して反証を挙げることはできないだろう」。

当時、ソ連軍や連合軍、いや、世界中がヒトラーの死を待望していた。 第二次世界大戦を完全に終結する為には、ヒトラーの死は絶対に必要であった。 かつて、ヒトラーは「自分の死を擬装すべきである」と側近に語っていた。 もし、この言葉通りに、ヒトラーがドイツ国外へ逃亡していたとなると、大変なことである。 一般大衆の心理的な面での混乱・不安が起きることは容易に想像できる。 ヒトラーの逃走ルートや潜伏先を巡って様々な憶測が流れる中で、ヒトラー逃亡説はやがて一部の人々の間でナチス再興の恐怖となって語られるようになった。

ハインリッヒ陸軍情報部大佐は 『ポリスギャゼット』紙の中で興味深いことを語った。 先に述べたように、彼はアメリカ軍のヒトラー捜索隊の長として現場を徹底的に調査した結果、ヒトラーの自殺を立証する根拠は存在しないことを最終報告の中で述べた人物である。 彼は『ポリスギャゼット』紙の中で次のように述べた。「その結果として、1948年を最後として発表された『戦争犯罪人指名手配リスト』には『手配中 アドルフ・ヒトラー第三帝国総統』と書かれていた。 これはあまり公には語られなかった。 というのは、その頃ヒトラーが確かに生きているという噂が絶えず、もし、それを公にしてしまったら、そのような噂を裏付ける結果になることを我々は恐れたからである。 特に南アメリカに住んでいた多くの狂信的ナチス主義者たちは、これを聞けば、かつてナポレオンがエルバ島から帰ったと同様に、彼らの総統もいつの日かカムバックすると信じ込むに違いなかった」。

おまけ情報
軍事史関係・冒険小説・歴史小説など、幅広い分野の作品を発表している作家の柘植久慶氏は、著書『ヒトラーの戦場』(集英社)の中で、ヒトラーの自殺について次のような疑問を述べている。 参考までに抜粋しておく。
歴史、そして歴史上の人物を語るには、ある程度の時間の経過が必要とされる。 悪虐の限りを尽くしたと伝えられるネロやリチャード三世が、その実像は全く違っていたことなど、現在では常識となっている。 彼らは異なる王朝に逐われたことから全く別の姿に書き変えられたのだ。 ヒトラーに関しても、第二次世界大戦直後から発表された多くの文献が非難の大合唱を展開した。 だが、冷静に読んでゆくと、そのほとんどが感情論に終始しており、都合のよい資料だけを針小棒大したものだった。 とりわけユダヤ人に関する記述は科学性に乏しく数字上もいい加減である。 ところが、それに反論することは、非人道行為を是認するに通じると、半ば脅迫まがいの雰囲気がつくり上げられてきたのだ。 彼の犯した誤りは、自由主義陣営と共産主義陣営、それに国際間にまたがるユダヤ資本のすべてを、同時に敵に回したことによる。 このため戦中戦後を問わず、非難の集中砲火を喰う破目に陥ったと言えよう。
ヒトラーと第三帝国の残虐性を主張する人びとが、スターリンや毛沢東のそれとなると、一転して口をつぐんで看過した。 スターリンの時代、ソ連はユダヤ人を数十万虐殺し、戦時捕虜100万以上を死に到らしめた。 その政権誕生の前後には、レーニンと共に2000万から3000万のロシア人同胞を殺害しているのだ。 毛沢東もまた、二度の革命で5000万の中国人を殺害した。 中国政府は口を開くと「日本の侵略」を声高く叫ぶが、1950年にチベットを侵略したのは、“偉大的”毛沢東の中国にほかならない。 その後もヴェトナムに侵攻した。 中国は侵略国家の代表的存在である。 カンボジアの大量虐殺をやったポル・ポト政権は、そっくり毛沢東の真似をして知識階層と有産階級の一掃を企てた。 人口が少ないだけ虐殺の規模が小さかったことは言うまでもない。 注目すべきことは、ヒトラーは自らの手でドイツ人を多数殺害しておらず、むしろ内政面での成功者だったという点だ。
定説では、ヒトラーの死は1945年4月30日となっている。 だが、これは果たして信じられるのだろうか。 4月28日、正確に言うなら27日の夜半から28日にかけて、シャルロテンブルクの王宮付近の路上に一機の「Ju-52」が駐機しているのを目撃されている。 この機種は古くからヒトラーの愛用したものとして知られていた。 当時の状況からして、テンペルホフ、テーゲルなどベルリンの飛行場は敵の砲火を喰う危険性が高かった。 だから、幅広い道路を有する旧王宮付近に着陸させるのは少しも不思議ではない。 問題は誰がそこに待機させたかだ。 ヒトラーの脱出用だったとしても少しもおかしくない。 もちろん、彼は度重なる周囲からの勧めをそのたびに強く拒絶している。 だが、ゲーリングやヒムラーの裏切りに、当初の決心を変えたことは十分に考えられるのだ。 ノルウェーはまだドイツ軍が確保していたから、このルートが安全なことでは一番である。 南ドイツ経由でスペインへの脱出も可能性は残されている。 フランコ総統の庇護下に入る屈辱を甘んじて受けるという前提だが。
何しろヒトラーの遺体が確認されていないため、疑問が多く残っている。 どういった手段で自殺したのか、それすら証言はバラバラだ。 拳銃で自殺したとの説だと、右のこめかみと言う者があれば、左だと主張した者もいた。 なかには毒薬を仰いだとの証言まで出るに到っては、混乱をつくり出すものとしか考えられない。 死の瞬間に立ち合った者が一人もいないことも、真実が伝えられてこない一因だろう。 ヒトラーが死んだと皆に告げた人間も、ゲッベルスをはじめすべて生存していない。 かなりの人数が残っていた地下壕の住人たちは揃いも揃って気づいていないのだ。 その死と火葬されたことを人伝てに聴いているにすぎなかった。 ソ連軍の発表も謎をいよいよ深くするだけだ。 5月2日正午に総統官邸に突入した一兵士は、口髭のある男ともう一体、女の死体が燃えていたと報告した。 ところが、これだと死体は二日にわたり、燃えていたことになる。 もし本当だとしても、口髭など残っているわけがない。 発見されたゲッベルスの焼死体のように、頭髪も何もかも燃えてしまっているはずなのだ。 1960年代半ばになって、ソ連軍情報将校が、『アドルフ・ヒトラーの死』という本を発表した。 これによると発見されたのが5月4日とのことだ。 だが、確認されたと称しているだけで、鮮明な写真は全く載せられていない。 証拠も何一つ示されていないのである。 反面、ゲッベルスとその家族のものに関しては、これでもかとばかり角度を変えて幾枚も掲載している。 これ一つをみてもソ連軍当局の発表は全然信用できないことが判る。 第一、彼らは焼死体を発見していたら、文字どおり鬼の首を取ったように、自国に運んで展示するだろう。 隠し続けること自体、ヒトラーの最期に関する確証を何も掴んでいないと考えるべきだ。
結局、ヒトラーとエバの死は永遠の謎である。 砲弾が落下して二人の遺体を吹き飛ばしたとの近年の説は、早く何らかの形で終止符を打ちたいとの、一部の人びとの願望にすぎないのだ。 ヒトラーは4月中旬以降、自殺をほのめかしてきた。 だが、自殺を頻繁に口にした人が目的を達成した例は稀である。 大体カムフラージュであることが多い。 4月30日の夕刻、地下壕の料理人は常と変わらずにヒトラーの食事を用意し続けていたのだ。 これをどう解釈するか。 晩年のヒトラーについて、巷間では狂っていたと主張する人が多い。 けれど、それはないと考える。 彼はたしかに健康を害し、判断力の衰えを示した。 けれど、尊敬するフリードリヒ大王の肖像画を前に、「大王に比べたら、私なんかただのクズだ」との言葉をはっきり残している。 これが狂人の発した最晩年の言葉だろうか。
以上 柘植久慶『ヒトラーの戦場』(集英社)より