ヒトラー・ユーゲント
第1章 「ヒトラー・ユーゲント」の誕生
第一次世界大戦後、ドイツ国内では敗戦を潔しとしない右翼勢力と、革命政府の樹立を叫ぶ左翼勢力が対立していた。 これらの勢力はドイツ青少年の獲得に余念がなく、その影響で多くの青少年組織が乱立していた。 1919年に創設されたナチスも、ドイツ青少年を掌握する者が未来を掌握するということを熟知していた。 それゆえ、ナチスの宣伝はドイツ青少年の獲得を目指して行なわれた。 1922年3月にナチス青年部が設立され、19歳という若さのアドルフ・レンクがその指導者となった。 正に「青年を指導するのは青年自身」であった。 しかし、翌年、ナチスはミュンヘン一揆の失敗により活動を禁止された。 その後、ヒトラーが恩赦で釈放され、1925年にナチスが再結成されると、同年、ナチス青年部に純血ゲルマン人の特徴を持つ少年たちから成る「ドイツ労働者青少年団」が結成され、この組織が1926年7月に「ヒトラー・ユーゲント(Hitler Jugend)」と呼ばれるようになった。 この名称は「ヒトラーの若者」という意味である。 この時のメンバーは700人しかいなかった。 1929年、ヒトラー・ユーゲントのメンバーは1300人に増えた。 この当時のナチス青年組織として、ヒトラー・ユーゲントの他に「ナチス大学生団」や「国民社会主義学生同盟」もあったが、これら3つの団体はドイツ青少年運動全体の中では取るに足りない存在であった。
第2章 バルドゥール・フォン・シーラッハ
1931年10月、ヒトラーは「全国青少年指導者」の地位を設け、その初代指導者に24歳という若さのバルドゥール・フォン・シーラッハを任命した。 彼は翌年3月、ヒトラーの専属写真家ホフマンの娘ヘンリエッテと結婚し、同年7月、25歳で国会議員になった。 そして、その後、シーラッハはヒトラーによりヒトラー・ユーゲントの指導者に指名された。 シーラッハの指導によってヒトラー・ユーゲントは急激に成長していった。 シーラッハはナチス幹部としては珍しく、裕福な貴族の出身であり、アメリカ人を母に持ち、ドイツ語以上に英語が達者だった。 彼は1927年にヒトラーの勧めでミュンヘン大学に入学した時、地政学者カール・ハウスホーファー教授の講義を聴いて感銘を受けたという。 彼は純血ゲルマン人の未来を託す青少年組織の指導者としての大役を与えられたが、皮肉にも彼自身はアメリカ人とドイツ人との混血だった。
1933年1月30日、ヒトラーが政権を合法的に獲得し、これによりヒトラー・ユーゲントへの加入者が激増した。 1934年6月、シーラッハはナチスの一元化政策を踏まえて、カトリック系、同盟系、スポーツ系、職業系、軍事系の青少年組織をヒトラー・ユーゲントに統合し、その後、プロテスタント青年団や体操協会をヒトラー・ユーゲントに編入した。
第3章 ヒトラー・ユーゲント法の制定(1936年)
1936年12月、ヒトラー・ユーゲント法の制定によって、それまでナチスの私的な組織だったヒトラー・ユーゲントは国家機関となり、それ以外の青少年組織は禁止された。 そして、10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、ヒトラー・ユーゲントはドイツの青少年組織の総称となった。 10歳になった少年少女を持つ親で、ヒトラー・ユーゲントへの届け出を行なわなかった者には150マルクの罰金もしくは拘束が課せられることになった。 かくして、ヒトラー・ユーゲントのメンバーは1937年末には580万人、1938年末には700万人、1939年初めには770万人と、増加の一途をたどった。
ヒトラー・ユーゲント法によって、10歳から13歳までの女子は「少女団」に、14歳から18歳までの女子は「女子青少年団」に、19歳から21歳までの女子は「労働奉仕団」に所属するものとされた。 17歳以上の女子には看護衛生の授業を受けることが義務づけられ、応急手当の技術を持った「保健女子」が養成された。 成績の良い者は保健部隊に編入された。
ヒトラーは女性の役割について、とても保守的な考えを持っており、「女性の本分は主婦と母親にある」と考えていた。 そのため、男子に関しては未来の戦士の養成に主眼が置かれていたのに対し、女子に関しては未来の母親の育成のみが強調された。 ドイツの女性ユーゲントは組織的・政治的にはほとんど自立性を与えられていなかった。
ヒトラー・ユーゲントの教育で重視されたのは何よりもスポーツだった。 ヒトラーは詰め込み教育を有害なものとしており、知的活動の総ては統制されなければならないと主張し、「ドイツの男子青年は各自が戦士のような身体をつくること」を提唱していた。 スポーツと共に野外キャンプもヒトラー・ユーゲントの訓練で重視された。 ヒトラー・ユーゲントの団員は3週間にわたる野外キャンプに参加することが義務づけられ、集団生活を通じてナチスの世界観や共同体精神を叩き込まれた。
ヒトラー・ユーゲントの活動は、低所得者層の子どもたちや女性たちがそれに参加できるというメリットがあった。 低所得者層の子どもは、貧しさゆえに体験できなかったレジャーが大変気に入った。 また、当時のドイツでは、大都市は別として、特に保守的な農村地帯において女性は外に向かって解放されていなかったので、ヒトラー・ユーゲントに参加することで、解放感を味わう女性は少なくなかった。
しかし、もちろん、問題が無い訳ではなかった。 多様な青少年組織を強制的にヒトラー・ユーゲントに一元化した為、様々な問題が生じていた。 例えば、飲酒、喫煙、禁止された歌を歌う、不適切な或いはだらしない敬礼をする、門限を破る、ビリヤードやダンスホールで騒動を起こす、といった問題を起こす反抗少年たちが存在していた。
また、ルール工業地帯の「エーデルワイス海賊団」と呼ばれる不良グループはヒトラー・ユーゲントの歌や軍歌ではなく外国のヒット曲などを歌い、ヒトラー・ユーゲントのパトロール隊を襲う危険な存在であった為、ナチス指導部は彼らを捕まえて、裁判抜きの処刑や残酷な「少年強制収容所」送りにして取り締まった。 こうした青少年の悲劇は、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、急速に拡大した。
第4章 ヒトラー・ユーゲントの戦争動員
1940年8月に、シーラッハに代わってアルトゥール・アクスマンが「全国青少年指導者」になると、ヒトラー・ユーゲントは軍隊化して戦火に巻き込まれるようになった。 これはヒトラー・ユーゲントを大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。 シーラッハはヒトラー・ユーゲントの戦争動員に大反対の立場だったが、後継者のアクスマンはシーラッハと違って、ヒトラー・ユーゲントの軍隊化を当然視していた。
ヒトラー・ユーゲントには海軍部・航空部・通信部・自動車部といった計9部門の特殊訓練機関があった。 ドイツ国防軍とナチス親衛隊(SS)は将来の将兵の確保という観点から、これらの訓練機関に援助を惜しまなかった。 1940年以降、連合軍によるドイツ主要都市への爆撃が増加すると、多くのヒトラー・ユーゲントが消化活動に駆り出された。 そして、1944年からヒトラー・ユーゲントは爆撃に対する高射砲部隊や探照灯部隊に配置されることが多くなった。 そして、戦争が長引くにつれ、徴兵される年齢が低下していった。 団内には軍事教練キャンプが設置され、ヒトラー・ユーゲントは兵士としての訓練を施された。
第5章 ヒトラー・ユーゲントの最期
1943年6月、ヒトラーはアルトゥール・アクスマンに「ヒトラー・ユーゲント」の名を付けた師団の創設を命じた。 志願兵を募ることを託されたアクスマンは17歳と18歳のヒトラー・ユーゲントを選抜した。 彼らは訓練を受け、1944年初頭、彼らの部隊は第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」と命名され、ドイツ占領下のベルギー北部アントワープ南東に配置された。 その後、このヒトラー・ユーゲント部隊はノルマンディーでの戦いで、圧倒的な兵力を持つ連合軍を相手に奮戦し、その戦闘能力の高さを証明した。 この戦いでヒトラー・ユーゲント部隊は、子供だと侮れない恐るべき相手として勇名をはせた。 しかし、それ以降の戦闘においては将校の不足や補充員の質の低下などが災いし、二度と実力を発揮することはなかった。 なお、ヒトラー・ユーゲント出身者は、第12SS装甲師団だけに入隊したわけではなく、その他の師団に入隊する者もいた。
ヒトラー・ユーゲント部隊は、年寄りに銃を持たせた義勇兵団「国民突撃隊」と共に、廃墟と化したベルリンで最後まで戦い続けた。 ヒトラー・ユーゲント部隊員の大多数は捕虜になる気などなかった。 彼らは全滅するまで戦い続ける覚悟を持っていた。 ヒトラー・ユーゲント部隊に遭遇した連合軍の兵士たちは敵のあまりの若さに唖然とした。 ナチス・ドイツが完全に崩壊した時、ベルリンには、むせ返るような埃と死臭が充満し、最後まで戦い続けたヒトラー・ユーゲント部隊員の死体が散乱していた。 このように、ドイツの軍事的抵抗の最終局面で絶望的な戦闘に従事したのは純真な少年兵たちだった。 なんとも悲惨な話である。
戦後のニュルンベルク裁判で、ヒトラー・ユーゲントの初代総裁だったシーラッハは、ドイツの青少年団体の責任者として人道に対する罪に問われた。 そして、禁固20年の刑を宣告されたが、彼は法廷で次のように自らの責任について陳述した。「私はヒトラーを信頼して、この世代の青少年たちを教育しました。 従って、私の築き上げた青少年運動はヒトラーの名前を有しているのです。 我が民族と若者たちを偉大に、かつ自由に、かつ幸福にして頂ける総統の為にお仕えしようと考えたのでした。 私と共に数百万の若者たちがそのことを信じ、国家社会主義の中にその理念を見い出したのです。 多くの若者がその為に命を落としました。 それは私の責任であり、神とドイツ民族、我が国家の為に今後その責任を負っていくつもりです」。
おまけ情報1: NHKスペシャル 映像の世紀 第4集『ヒトラーの野望』
1995年にNHKで放送された「映像の世紀」は、世界30ヶ国の公文書から収集した貴重な映像と回想録や証言などで構成されたドキュメンタリー番組で、現在でも高く評価されており、「NHKスペシャル」の中で最高の作品の1つとも言われている。 このNHKスペシャルの第4集『ヒトラーの野望 人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した』では、ヒトラーの巧みな政治戦術や、ヒトラーを支持するドイツ国民の姿などが丹念に描かれており、非常に興味深い内容になっている。 参考までに、この番組の中で紹介された「当時少年だったドイツ人の回想録」や「ヒトラー・ユーゲントの手記」などを簡単に紹介しておく。
★ 当時少年だったドイツ人の回想録より
私は、繰り返し次のようなボードを読んでいた。「大ドイツ帝国成る。 オーストリア再びドイツのもとに」。 私の傍らの一人の紳士が私に語りかけてきた。「なぁ、坊や。 君は誇りに思っていいんだぞ。 我々は偉大な時代に生きているんだ」。 私も、そのように感じた。 ドイツの国力の増大に私達は感嘆の念を抱いていた。 私達は偉大な時代に生きていた。 そして、その時代の創造者、その保証人はヒトラーその人であった。
★ 当時のナチ党員の手記より
大衆へ情熱を込めて語ったのは彼(ヒトラー)だけでした。 私たちは何か新しいことを聞く為に、何でもいいから新しいことを聞く為に、集会に出かけたのです。 (ヒトラーが登場するまで)ドイツ国内の状況は悪化する一方でした。 人々の日常生活を支えていたものが根底から無くなり、自殺する人が溢れ、風俗は乱れました。 経済状況に絶望していた私たちにはヒトラーの語る新しいドイツが素晴らしいものに思えました。
★ ドイツの元社会民主党員の手記より
人々はナチスに対し、全く無批判でした。「精神の自由」など大多数の人々にとっては、価値のある観念ではありませんでした。 ナチスに疑いを差し挟むと、次のように反論されました。「ヒトラーが成し遂げたことをぜひ見て欲しい。 我々は今では以前と同じように大したものになっているのだから」。 ヒトラーが失業問題を解決したことこそ、私達にとって重要な点だったのです。
★ ヒトラー・ユーゲントの手記より
ナチスには神秘的な力で我々を魅惑し熱狂させる何か違ったものがあったのです。 それは旗をなびかせ、じっと前方を見つめ、太鼓を鳴らしながら進む若者たちの一糸乱れぬ行進でした。 この共同体には何か心を揺さぶる圧倒的なものがありました。 しかし、私の父がナチスについて語る時、その言葉には感激や誇りが無く、それどころか、ひどく不機嫌な響きがあるのが理解できませんでした。 父は「連中の言うことを信じるな、連中はオオカミだ。 ナチスはドイツ国民を恐ろしい形で誘惑しているのだ」というのです。 しかし、父の言葉は、興奮した私たち若者の耳には入りませんでした。
おまけ情報2: 日本国内を旅行したヒトラー・ユーゲント
日独防共協定の成立(1936年11月)から凡そ1年半が経過した1938年8月、ヒトラー・ユーゲントの代表団30名が来日した。 彼らはドイツの汽船グナイゼナウ号に乗って、凡そ1ヶ月の船旅の後、1938年8月16日に横浜港に到着した。 この時、横浜港は、ドイツの若者たちを一目見ようとする数千人の群衆で埋め尽くされた。 彼らドイツの若者たち30名は翌日の8月17日、横浜に上陸し、横須賀線で東京に入った。 そして、東京駅に降り立った彼らはブラスバンドの吹奏など、熱烈な歓迎を受けた。 それから、彼らは明治神宮と靖国神社を参拝した。 彼らは11月12日までの約3ヶ月間、日本各地(北は北海道から南は九州まで)を訪問して熱烈な大歓迎を受けた。 伊勢神宮でのヒトラー・ユーゲント代表団の参拝態度は外国人としては珍しく敬虔な態度で人々を驚かせた。 規律正しく統制された彼らの姿は日本の青少年の指標として大きな影響を日本の青少年に与えた。
彼らドイツの若者たち30名は日本のホテルの清潔さ・日本製の自動車・日本建築・鉄橋・トンネルなどを見て、日本の急速な近代化に驚嘆した。 また、忘れ物を届けてもらったり、傷のある商品を値引きしてもらったり、時間通り迎えに来たタクシーを見て、日本人の正直さに感心した。 また、日本の各村に必ず小学校があること、また、その設備もよく、若い熱心な教師が多く、小学生も行儀がよく従順であることに好印象を抱いた。 さらに、「人の数だけで判断すれば、100年の長期戦をしても平気だろう」と思わせるほど、1家庭につき平均5人という子供の多さに驚き、子供の愛らしさと子供への母性愛の強さに感動し、二毛作のできる日本の土地の肥沃さを羨望した。
彼らドイツの若者たち30名は日本国内を巡歴中、行く先々で日本の印象を聞かれ、その都度、コメントを残している。 ヒトラー・ユーゲント代表団の団長シュルツェは日本の印象について次のように語った。「現在まで外国人たちの多くは日本の大都会のある一面のみを見て日本の全てを観察した如くに考えていたが、我々は日本の真の姿を見るには、日本の片田舎をも回って親しく日本の青少年達と起居を共にしてこそ、その独特の精神に触れることができると信じた。 そして、それは我々の期待を裏切らなかった。 防空演習に際しての青年団の活動、岩手県六原道場での厳格なる動作など、これら全ては日本青少年たちの優れた長所を我々に十分に認識せしめた。 我々は日本の神社や自然を見て、日本国民の魂は自然美により形成されていると実感した。 日本の将来は、南西方に向かって大きな民族的飛躍が約束されており、日本は東アジアの王冠を頂くことになる。 我が国では、民族意識の高揚によって国民の団結を図ってきた。 しかし、日本では血の純血と神聖は自然に備わっている。 日本は幸福な国だと思う。 我々の印象を最も引いたのは会津若松の『白虎隊』の墓だった。 なぜならば、1920年から1933年までヒトラー総統の困苦時代に、忠勇なるヒトラー・ユーゲントの同志22名は、いずれも18歳の若さで共産党と戦い、壮烈な戦死をした追憶を持っているからである」。
上のシュルツェ団長のコメントで触れられているように、ヒトラー・ユーゲント代表団は白虎隊を見学する為に、8月31日に会津若松市を訪れ、凡そ1万人もの群衆の大歓迎を受けた。 歓迎式の後、ヒトラー・ユーゲント代表団は東山温泉へ向かった。 そこでの彼らの宿舎は来日以降初めて純日本式の旅館だったので、彼らは温泉の浴槽に飛び込んだり、鯛の刺身やお吸い物などをパクついたり、浴衣姿で、日の丸行進曲や会津盆踊りに拍手を送ったり、獅子舞に興味を示したりと、楽しい夜を過ごした。 翌日、天気が悪く、飯盛山の白虎隊士の墓の参詣を中止しようとの意見が出された。 しかし、ヒトラー・ユーゲント側の強い希望もあって、激しい風雨の中、白虎隊士の墓を参詣した。 この時、ヒトラー・ユーゲント代表団は、白虎隊墓地広場にあるドイツの記念碑も拝観している。 この記念碑は、駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフが1935年に飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受け、個人的に寄贈したものである。 そこにはドイツ語で次のような碑文が刻まれている。「ひとりのドイツ人が 会津の若き騎士たちへ 1935年」。 この記念碑は、戦後、GHQの手によって碑面が削られ撤去されたが、フォン・エッツドルフの強い希望により、1953年に再刻され復元された。 因みに、この記念碑のそばには、1928年にイタリアのムッソリーニが元老院とローマ市民の名で贈った記念碑(大きな石柱)が建っている。 この石柱は、ポンペイ遺跡から発掘された古代宮殿の柱である。 ムッソリーニは白虎隊の話に感動し、日本の武士道を尊んでいたという。 このローマの記念碑の裏面には、「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、戦後、GHQがその碑文を削り取ってしまった。
ヒトラー・ユーゲント代表団の副団長レデッカーは日本の印象について次のように語った。「日本の印象は余りに大きいので、適当な言葉を見出せないほどである。 例えば、富士登山を行なったとき、御来光が日本の同志諸君の顔に映るのを見て、日本精神の如何に美しいかを体得した。 会津若松の『白虎隊』の勇士の墓に詣でたとき、『白虎隊』の精神が身にしみて感じられた。 今まで多数の外国人が参詣し、有名な人が詣でたにしろ、ヒトラー・ユーゲントの如く、心からその『白虎隊』の精神を理解し習得した者はかつてあるまいと確信する。 また、各地で神社仏閣を参拝したが、日本人の敬神の念が強いのには感心した。 戦傷兵士を慰問した時、日本の軍人の強さを知り、かくの如き立派な軍人を持てば、日本は永久に勝利者として残ることを我々は確信した。 我々は偉大なる国民の叫びを聞いている。 それは『日本のため』『日本のため』というリズムである。 日本国民の忠誠を国民道徳的な教訓として受け取り、ドイツ魂と日本精神が一致することを知った」。
このように、ヒトラー・ユーゲント代表団は日本に対して強い好印象を抱いていた。 しかし、彼らに不満がなかった訳ではなかった。 彼らの不満としては、まず、写真撮影禁止区域が余りにも多いこと、軍部の意向で八幡製鉄所などの機械工場・製作工場を見学できなかったこと、武器など軍務関係のものを見学できなかったこと、林業・牧畜や日本茶の採取・製造を見学できなかったこと、また、取材に来る新聞記者の厚顔、礼儀知らず、服装のだらしなさ、愚問の多いこと、慰安旅行のつもりで付いてくる役人などの旅行随行者の多いこと、日本精神を体得させるという目的でスケジュールに神社参拝が多く組まれていること、大臣・知事・青年指導者と農村の青年は立派であるが、健全な中間層がいないこと、大学や高校にトーマス・マンなどナチに追われた作家やユダヤ人作家の書いたものをテキストに使用する自由主義教授が多いこと、日独文化協会やドイツ文化研究所がナチス的になっていないこと、などが挙げられている。 また、茶・香・華道の真髄は理解できなかったという。
ヒトラー・ユーゲント代表団は日本に凡そ3ヶ月間滞在した。 多くの日本人がヒトラー・ユーゲント代表団の行進を見る為に、街路に溢れ出し、集会場の内外を埋め尽くし、興奮と熱狂の中でヒトラー・ユーゲント代表団の美しい制服や規律ある動きに感動を覚えた。 童心主義の詩人:北原白秋は「独逸青年団歓迎の歌」を作って、共に歓迎することを子どもたちに訴えた。
ヒトラー・ユーゲント代表団に同行した政府関係者たちは、ヒトラー・ユーゲント代表団の「鉄のような規律とメカニカルな動き」に感銘を受けて、彼らを今後の日本の青少年団運動のモデルにすべきであると考えるようになった。 例えば、来日当初から関東各地の旅に同行した文部省社会教官の宮本金七氏は次のように述べた。「すくすく伸びた四肢、グッと張った胸、実に見事な体格で、登山の際の強行軍から見ても、体力の点では到底わが青年の比ではないと思った。 それに30人のうち眼鏡をかけた者は一人もいない。 偉大な体格が大戦の疲弊した環境の中に育てられたということを考える時、長期戦体制の我々が考えなければならぬ多くのものがあると思う」。 更に別の関係者も次のように述べた。「ヒトラー・ユーゲント代表一行に会って特に目を惹かれるのは、その集団訓練から来る整然たる姿である。 指導者の命令で行なわれる見事なる行動、若々しさ、そして、あの元気、そこに我々は強く惹きつけられるものがある。 今まで行なわれてきた諸々の良き青年団の事業の他に、ヒトラー・ユーゲントのような権威ある組織制度の設けられる事が望ましいと思った」。 しかし、ヒトラー・ユーゲント代表団を厳しい目で観察して、日本青年のほうが精神的に優れていると分析する関係者もいた。 外務省調査部第二課の真鍋氏は次のように述べた。「確かに彼らは体躯も大きいし、眼鏡も掛けていない。 しかし、体力というか肉体的抵抗力というか、この点では我が日本青年は断じて負けていないと思った。 彼らは日本の養子制度・見合結婚が理解できないという。 ドイツ人は良い血と良い血の結合からドイツ精神・道徳が生まれると信じているが、日本人は良い精神と良い精神の結合から良い血が生まれると信じている。 国家を強力にするのは血ではなく道徳と国民精神である。 ヒトラー・ユーゲントは良い組織を持っている。 鉄の如き規律がある。 これをぜひ日本も学ぶべきであるという声が多く聞かれるが、私はこの意見に反対である。 ドイツ人は、悪く言えば、融通の利かない鈍重な国民である。 だから、規律が崩れたときのドイツは目茶苦茶である。 だから、ドイツ人は自分たちに適した組織を作ったのである。 彼らの指導者養成方法は、ドイツの文化・伝統に基づくものであり、それをそのまま日本が受け入れることは危険である。 ヒトラー・ユーゲントは良い青年たちだが、ナチス的な考え方しか知らない。 自分というものがない。 ナチスは人間から人間らしきものを、言い換えれば、ゼーレ(魂)を奪ってしまう。 日本は個人のゼーレ(魂)が全体のゼーレ(魂)になりうる。 ナチスは全体のゼーレ(魂)のために、個人のゼーレ(魂)を犠牲にしなければならなかった。 そこに今日、中堅のドイツ人の苦しさがある。 しかし、ヒトラー・ユーゲントはその苦しさを知らずにナチスに育て上げられている。 この点、ナチスの努力は凄まじいものがあったと考えさせられた」。
実は、ヒトラー・ユーゲント代表団が来日する1ヶ月前に、日本からも青年団・少年団の代表29名がドイツを訪れていた。 彼らは1938年7月2日にパリからケルンに入った。 彼らの戦闘帽・戦闘服・巻脚半・リュックサックという身なりがヒトラー・ユーゲントと比べて余りにも貧弱であると判断されて、在ドイツ邦人からヒトラー・ユーゲントを真似た制服を新調されるという出来事があった。 そして、彼らもドイツ各地で熱狂的な歓迎を受け、9月25日にドイツを離れた。 このように、ヒトラー・ユーゲントの来日は、反共産主義の盟約を結んだドイツ・日本の若者たちが互いに同盟国を訪れて、親善・交流するという意味合いがあった。