第二次世界大戦下の東欧諸国でのユダヤ人迫害

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第1章  ウクライナでのユダヤ人迫害
第一次世界大戦によりオーストリア・ハンガリー帝国の解体が確定的になると、オーストリア・ハンガリー帝国領となっているガリチア地方のウクライナ人の運動は急速に独立へ向けて動き出した。 ウクライナ人の代表者たちはガリチア地方の中心都市リヴォフに集まり、「ウクライナ民族評議会」を形成し、ガリチア地方を含めたウクライナ国家の建設を目指すことを宣言した(1918年10月)。 一方、ポーランド人も、かねてからガリチア地方のポーランドヘの併合を主張していた。 1918年10月、ガリチア地方のポーランド人たちはクラクフにおいて「ポーランド清算委員会」を形成し、ガリチア地方をオーストリア・ハンガリー帝国領からポーランド領に変更すべく、ガリチア地方の支配権をポーランド人が掌握する作業に着手した。 この結果、ガリチア地方の支配権を巡って、ウクライナ人とポーランド人の間で戦闘が始まった。 リヴォフでは市域がポーランド人地区とウクライナ人地区とに二分されて、20日間、激しい市街戦が展開された。 この間、ウクライナ人は「西ウクライナ人民共和国」の独立を宣言したが、第一次世界大戦後の1920年、ウクライナ軍はポーランド軍に敗北し、ウクライナ人の独立の夢はあっけなく打ち砕かれ、ガリチア地方の西部はポーランド領となった。 ガリチア地方の東部に関しては、ポーランドとソビエト政権とが領有を争ったが、西暦1921年3月、ポーランドとソビエト政権との「リガ条約」によって、ガリチア地方の東部はポーランド領とされた。 そして、第一次世界大戦中にオーストリアやチェコなどに避難していたハザール系ユダヤ人の多くが戦争の傷跡も生々しいガリチア地方に追い返された。

ウクライナは西暦1920年から「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」として、ソビエト政権の支配下に置かれた。 西暦1930年代になると、ウクライナの民族主義者にとって、ナチス政権が希望の星となった。 彼らは、ナチス政権がウクライナ人の待ちに待った独立の実現を助けてくれるものと思った。 ナチス・ドイツがソ連に侵攻を開始した日(1941年6月22日)から3日後には、リヴォフで「ウクライナ民族政府」の樹立が宣言された。 このウクライナ民族政府がまずやったことは、ヒトラーへの忠誠を誓う書簡をヒトラーに送ることだった。 ところが、ナチス・ドイツ軍は解放者としてウクライナへやって来たのではなかった。 ナチス・ドイツ軍は抑圧者としてウクライナへやって来たのである。 そのため、「ウクライナ民族政府」はたった3日間でナチス・ドイツ軍によって解散させられた。 ウクライナ民族主義運動は禁止され、ナチス政権に忠誠を誓ったばかりのウクライナ人指導者は投獄の憂き目にあった。 しかし、それでも、ウクライナ人とナチス政権との関係が比較的良好だったので、ウクライナ人は突如、「準支配階級」とでも言うべき存在になった。 それまでポーランド人やロシア人の陰で暮らしてきたウクライナ人は権力を持つようになり、ナチス政権のユダヤ人狩りに率先して協力した。 ナチス政権はこうしたウクライナ人の反応に驚き、その様子を次のように記録した。「この地方の原住民達はユダヤ人問題の解決に少なからぬ関心を寄せている。 それゆえ、ユダヤ人の逮捕をただ見ていることには飽き足らず、自分たちから進んで『我々にユダヤ人始末の権限を与えよ』と、申し出ているのである」。 リヴォフでは、ウクライナ人がナチス・ドイツの将兵たちと共にハザール系ユダヤ人の家を一軒ずつ襲い、ハザール系ユダヤ人を見付け次第、殺害したと言う。 このように、ユダヤ人殺害が速かに行なわれた為、この地方ではハザール系ユダヤ人の収容所を作る必要がなかったとまで言われている。 一方では、お目こぼしにあずかっていたユダヤ協会の指導者がナチス・ドイツ軍の指揮官に向かって「ウクライナ人を取り締まってほしい」と陳情したという話が残っている。 ナチス政権は「補助警察官」をウクライナ人の中から募ったが、ウクライナ人の大多数は生まれながら反ユダヤ主義に取り憑かれていたので、ユダヤ人殺害作戦の立案・実行は殆どウクライナ人補助警察官の手で行なわれ、ナチス側はほんの2、3人、指揮するナチス親衛隊員か保安警察官がいるだけで済んだ。

第2章  ウクライナ以外の東欧諸国でのユダヤ人迫害
第二次世界大戦中のユダヤ人殺害は東欧諸国に共通する現象であった。 北はリトアニアから南はクリミヤまでのナチス・ドイツ占領下のソビエト連邦では、ユダヤ人殺害の為にナチス政権ヘの様々な協力が見られた。 それと共に、ソビエト政権の統治下でくすぶっていた極右民族主義の集団がナチス政権の方法をそのまま導入して、ユダヤ人の殺戮に当たった。

リトアニアでは極右民族主義の集団が、ドイツ軍が攻め込んで来る前にいち早く、ユダヤ人の殺戮を独自に始めた。 リトアニアでは警察のみならず、一般庶民もユダヤ人の殺戮のためなら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかったと言われている。 リトアニアで殺されたユダヤ人の数は20万人で、生きながらえたユダヤ人はわずか2万人だけであった。
   ユダヤ人を撲殺するリトアニア人たち
こうした状況の中で、リトアニアの日本領事館員・杉原千畝は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(日本通過ビザ)を発給し、6千人の命を救った。 彼に助けられたユダヤ人の多くは日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。 リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、ダッハウ収容所に収容されたが、アメリカの日系人部隊によって救出されたという。 彼はこの時の体験を著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。 彼は当時のリトアニアの状況について、この本の中で次のように書いている。「リトアニアの臨時の首都カウナスは長年にわたり、ユダヤ人がよそからの干渉をほとんど受けることなく暮らすことのできる、ヨーロッパで数少ない場所のひとつで、ユダヤ人は強固なコミュニティを築き上げていた。 私が11歳のとき、第二次世界大戦が始まり、一転して恐怖に満ちた日々となった。 カウナスは、ナチの手を逃れ、避難場所を提供してくれる国を必死に探し求める人々であふれかえる、ふきだまり地点と化した。 彼らの多くがあちらの政府こちらの当局から断られ、追い返された。  〈中略〉  ユダヤ人にとってスラボトケ(リトアニアの一地区)は殺戮の地とされていた。 ナチス・ドイツの対ソ連不意打ち攻撃(1941年6月)が始まってからわずか3日後の6月25日、リトアニア人によるユダヤ人虐殺の最初の惨劇がここで繰り広げられたのである。 夜更け、斧や銃やナイフで武装したリトアニア人たちの大きな集団がユダヤ人の集中的居住地区に三々五々集まってきた。 朝の光は無残な光景を照らし出した。 男も女も子供も、四肢をばらばらにされており、家の中は壁も床も血だらけだった。 酒に酔ったリトアニア人は犠牲者の首でサッカーをしたとも伝えられている。 この夜、700人をこえる人々が命を落とした。 スラボトケの惨劇は、その後、第7要塞で行なわれた数千人の虐殺の序曲にほかならない。 リトアニア人によるユダヤ人攻撃が多少とも鎮まるのは、ドイツ人による民政・軍政が整備されてからのことである。 1941年8月7日、臨時の首都カウナスにいたリトアニア人は1千人を超すユダヤ人男性を射殺した。 このリトアニア人の攻撃は、ゲットー年代記の中で『木曜日の迫害行動』として知られるようになる。 私は同じ日、カウナスを離れてスラボトケのゲットーに向かっていたが、市内はわりあい静かに思えた。 おそらく、街路をドイツ軍の巡察隊がパトロールしていたせいであろう。 私たちを隣人たちから守るためにナチが出てくるなんて変なことになったものだと思わずにはいられなかった。  〈中略〉  リトアニア人は時々私たちに罵声を浴びせてきた。 『ユダヤのろくでなし、終わりは近いぞ!』『キリスト殺しめ、地獄へ落ちろ!』 橋のところまで来ると、ドイツ兵とリトアニア人の混成チームが警備にあたっているのが見えた。 何を言い交わしているのかはよく分からないが、私たちを見る目の違いは分かる。 ドイツ兵のほうは軽蔑か無関心、これに対し、リトアニア人は不機嫌で、目に憎しみがこもっている」。

次はポーランドについて述べたい。 ポーランドにおいては、ユダヤ人がアウシュヴィッツ強制収容所をはじめとする多くの強制収容所で悲惨な目にあっていることを知らない者はいなかったという。 ポーランド人の中には、悲惨な運命を辿りつつある身近なユダヤ人を、危険を冒してまでかばおうとした人々もいたが、ポーランド人の大多数はユダヤ人に対して至って冷淡だった。 ポーランドはナチス・ドイツ軍が撤退した後もユダヤ人にとって平安の地ではなかった。 ポーランドでは8万6千人のユダヤ人が生き残り、13万6千人のユダヤ人が1946年7月までにソ連からポーランドに引き揚げてきた。 これらのユダヤ人に対してポーランド各地でポーランド人によるユダヤ人殺戮が発生した。 その犠牲者は合計2千人と見積もられている。 なかでも有名なのは1946年7月の「キェルツェ事件」である。 ポーランド人の群衆が根も葉もない噂に興奮して次々とユダヤ人40人を虐殺し、それを当局が傍観した。 多くのユダヤ人は恐怖に駆られて出国した。 その数は1945年7月からの1年半で13万人にのぼった。

2002年11月5日付けの『東京新聞』は次の記事を載せた。「第二次世界大戦中の1941年にポーランド北東部で起きたユダヤ人大量虐殺事件を調査している同国の国家記憶協会(IPN)は2002年11月4日、有名な『イェドヴァブネ事件』以外に少なくとも30件の虐殺事件がポーランド住民によって引き起こされたとする報告書を発表した。 この報告書によると、ユダヤ人生存者の証言や共産政権下の裁判記録から、20以上の町で数百人のユダヤ人がポーランド住民に殺害されたことが判明した。 約1600人が納屋で焼き殺されるなどした『イェドヴァブネ事件』が特異なケースではないことが明らかになった。 虐殺があったのは、1939年、ナチス・ドイツがポーランド北東部に侵攻した直後で、ユダヤ人がソ連軍の圧政に協力したという偏見に基づいた憎悪が引き金になった。 ナチスのユダヤ人絶滅政策も住民感情に拍車をかけたとみられる。 『イェドヴァブネ事件』は米国在住のポーランド人歴史学者ヤン・グロス氏の調査で2年前に公となり、それまで第二次世界大戦に被害者意識しか持たなかったポーランド社会に大きな衝撃を与えた」。

因みに、イェドヴァブネ事件とは第二次世界大戦中の1941年7月にポーランドの町イェドヴァブネ近郊で起こったユダヤ人殺戮事件である。 この殺戮事件は、長い間ドイツ軍部隊の仕業であると考えられてきたが、現在では、ほぼ全て、非ユダヤ系ポーランド人の手によるものであることがわかっている。

次はスロバキアである。 スロバキアにおいては、カトリック政党の政権が1939年4月以降、ユダヤ人排除の路線を敷き、ユダヤ人をあらゆる公的機関から追放した。 更に1940年にティゾ政権が生まれてからは、ティゾがカトリックの司祭であったので、一層ユダヤ人迫害に拍車がかけられ、遂にユダヤ人は生計すら立たなくなるほどであった。 時のローマ教皇はティゾ司祭のことを「わが愛する息子」と呼んだそうで、スロバキアはバチカンの覚えがめでたかったという。 時のローマ教皇は駐バチカンのスロバキア大使シドールに対して、わざわざスロバキア語で全面支持を示したとも伝えられている。 スロバキア政府は、ナチス親衛隊を真似た「フリンカ警備隊」とか「スロバキア親衛隊」というグループを組織し、ユダヤ人の逮捕や輸送の任を自ら買って出た。 彼らは国内隈無くユダヤ人を探索し、約7万5千人のユダヤ人を狩り出した。 これはスロバキアに住む全ユダヤ人の85%に相当し、これらの人々は例外なくアウシュヴィッツ収容所に送られた。

次はルーマニアである。 ルーマニアにおいても反ユダヤ主義が公認され、一般民衆のユダヤ人迫害がエスカレートしていった。 1940年10月に、ユダヤ人の財産を没収する法律が成立し、11月には更に別の法律が可決され、ユダヤ人の工場や農場も合法的に奪取出来るようになった。 やがて、ナチス・ドイツと同盟を結んだルーマニア軍は1941年6月にソ連に侵入し、ブコヴィナ地方やモルダウ河に沿ったベッサラビア平原などを占領したが、その時の軍司令官がその地方のユダヤ人虐殺を公認したので、たちまち大勢のユダヤ人が殺された。 ルーマニア兵たちのユダヤ人虐殺に示す情念や方法には、ドイツ軍の兵士さえ背筋が寒くなったという。 例えば、1940年から1941年にかけて首都ブカレストでは、ルーマニア兵たちが、捕えたユダヤ人を屠殺場に曳いていき、牛や豚と全く同じ方法で彼らを屠殺し、死体を鉤(かぎ)に引っ掛けて、ユダヤ人を罵る言葉を書き連ねたものと共に陳列したという。 駐ルーマニアのアメリカ大使フランクリン・モット・ガンサーはアメリカ政府に次のように打電している。「肉を吊るす鉤に60体のユダヤ人の死体が掛けてあった。 全て皮膚を剥がされていた。 生きながら皮膚を剥がされたため、大量の血が流れていた。 目撃者によると、犠牲者の中には、まだ5歳にもならない少女もいた。 その少女は全身血まみれで、殺された子牛のように足から吊り下げられていた」。 また、ルーマニア軍は占領したソ連領内にユダヤ人強制収容所を作り、そこに無制限にユダヤ人を送り込んで、片っ端から殺していった。 それがまた、ドイツ人から見ても我慢ならない方法が採られたので、ナチス親衛隊幹部から「少しは合法的にやれ」と叱責されたということが伝えられている。

次はハンガリーである。 ハンガリー人によるユダヤ人迫害も激しいものであった。 ハンガリー政府は1944年にナチス政権と手を結んだ後、すぐにナチス・ドイツのニュルンベルク法(人種差別法)を取り入れ、ユダヤ人に対してニュルンベルク法より厳しい法規を作った。 ハンガリー政府は外来のユダヤ人に対しては全く容赦しなかった。 アメリカ政府発行(1944年10月19日)の『戦略情報局レポート』には次のように記載されている。「ハンガリー一般民衆のユダヤ人輸送に対する反応は尋常一様のものではないという以外に言いようがない。 ハンガリーのインテリや中産階級はナチスの反ユダヤ宣伝に完全に染まっているようだ。 この国のジャーナリズムの伝えるところでは、住民の大多数がユダヤ人の追跡・検挙に進んで協力を申し出、その熱意には政府も顔負けしたほどだという。 また、確かな筋の報告によれば、ハンガリーの憲兵達のユダヤ人摘発と迫害のやり方はナチスのゲシュタポの比ではないという。 更に、ナジヴァラドに於いては2千人のキリスト教徒がユダヤ人の残していった財産を横領し、その件で訊問を受けているという。 ユダヤ人迫害政策に対する抗議といったものは、どこにも見当たらない」。 1944年11月8日、ハンガリーの親ナチス「矢十字党」政権は、4万人のユダヤ人にブダペストからオーストリア国境までの厳寒の道を水も食料も与えずに歩かせるという「死の行進」を断行した。 この行進でユダヤ人は雪と厳しい寒さの中を180kmも歩かされ、途中で何千人という子供や女性が疲れ果てて死んだり、銃で撃たれたり殴られたりして、死んでいった。 当時スウェーデン外交官としてハンガリーに赴任していたラウル・ワレンバーグは、その行進をトラックで追いかけ、食料や衣類を与え、約4千人をブダペストに連れ戻した。「死の行進」は24日目で打ち切られた。 また、ワレンバーグはブダペスト各地に隠れ家を31軒設置し、ナチス政権の襲撃からユダヤ人を保護した。 更に、彼はユダヤ人を救出するため、ビザをばら撒き、時には処刑寸前のユダヤ人をナチスからお金で見逃してもらうというようなことまで行なった。 1945年1月17日、ブダペストがソ連軍により占領されると、ワレンバーグは事後処理のためソ連軍との交渉に出かけた。 しかし、彼はソ連KGBによりスパイ容疑で逮捕され、その後消息を絶った。

追加情報1
第二次世界大戦中、ソ連のユダヤ人の多くはシベリアに送られた。 ソ連軍内と強制収容所で少なくとも100万人のユダヤ人が殺された。 最近の研究によって、スターリンもヒトラーと同じように、ユダヤ人問題の最終的解決を図ろうとしていたことが明るみに出た。 つまり、スターリンはユダヤ人の集団流刑の計画を立てていた。 トルストイの子孫である作家ニコライ・トルストイは、その著書『スターリン』の中で次のように述べている。「1953年には、各大学からユダヤ人の徹底的な追放が行なわれた。 そして、とどのつまり、スターリンはユダヤ人問題の最終的解決を準備していたのであった。 ソ連のユダヤ人は、すべて北カザフスタンの荒野に追放されるはずであった。 スターリンの死によって、初めてこのヒトラーばりの課題の完遂は中止されたのである」。

追加情報2
第二次世界大戦でソ連軍により占領された地域はソ連兵によるレイプ・略奪の地獄となった。 ソ連兵によるレイプはソ連軍が1944年に東プロシアとシレジアに入った時に始まった。 多くの町や村では10歳から80歳までの全ての女性がレイプされた。 女性はソ連兵に見つかり次第レイプされた。 町のいたるところにレイプされ殺害されたドイツ女性の死体がころがっていた。 進軍するソ連軍部隊は強制収容所においても、ものすごい数のロシア女性やポーランド女性をレイプした。 スターリンと彼の司令官たちはドイツ女性ばかりか、ハンガリーやルーマニアやクロアチアの女性に対するレイプをも許し、正当化した。 ソ連軍がベルリンを制圧した際、スターリンはソ連兵に対し「ベルリンはおまえたちのものだ」といい、3日間の“祭り”を許可した。 ベルリンのドイツ女性のほとんどがソ連兵によってレイプされ、連合軍に届けられたものだけでも10万件を越えた。 また、暴行による自殺者は6千人を数えた。 レイプの規模は、1945〜48年の間、毎年200万人のドイツ女性が妊娠中絶した事実から暗示される。 ソ連兵の強姦率は80%だった。 ソ連当局が病気のまん延を心配し、レイプを行なったソ連兵に重罰を課すようになったのは、1946年の末になってからのことであるという。

1945年8月9日、スターリンは突如「日ソ中立条約」を破って日本に戦争を仕掛け、北方領土を奪い、満州に侵入した。 この満州でもソ連兵はレイプしまくった。 日本の降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮ではアメリカ軍に、北鮮ではソ連軍に降伏するように指令された。 南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでに殆ど全て引き揚げたが、北鮮では31万人の日本人がそのまま残っていた。 31万人の日本人の内訳は、もともと北鮮に住んでいた27万人と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。 北鮮に入ってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪・放火・殺人・暴行・レイプをほしいままにした。 在留日本人は一瞬にして奈落の底に落とされた。 白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶ多くの女学生はソ連軍のトラックに乗せられ集団的に拉致された。 反抗した者や暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。 虐殺・餓死・凍死などで非業の死を遂げた民間人は20万人にも達した。 また、最近の研究によれば、ソ連は100万人にものぼる日本人を捕虜にして極寒のシベリアに送り、強制労働をさせ、40万人を死亡させた。

1997年11月6日、モスクワ放送は、「10月革命の起きた1917年から1987年までの間に6200万人が殺害され、その内4000万人が強制収容所で死んだ。 レーニンは社会主義建設のため国内で400万人の命を奪い、スターリンは1260万人の命を奪った」と放送した。
ソ連のノーベル文学賞作家アレクサンドル・ソルジェニツィンは、この膨大な強制収容所(ラーゲリ)の群れを「収容所群島」と呼び、その恐るべき実態を明らかにした。 ソルジェニツィンによれば、囚人の総数は1500万人に達する。囚人の総数は4000万人〜5000万人という説もあるが、実数はもはや確かめようがない。 規模の大きさからいって、ナチス・ドイツのホロコーストより凄まじい「国家犯罪」である。 だが、ホロコーストへの糾弾に比べてスターリンの「強制収容所」という犯罪が追及されないのはなぜだろうか。 理由ははっきりしている。 アメリカ政府による原爆投下という犯罪が糾弾されないのと同じで、ソ連が戦勝国だからである。