ロシア帝国・ソ連のハザール系ユダヤ人

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第1章  黒海の北側一帯の歴史的概要
黒海の北側一帯では紀元前8、7世紀にギリシャ人の植民都市が建設され、次いでスキタイやサルマートなどの騎馬民族国家が興亡し、紀元後2世紀には東ゴート族が侵入し、紀元後4世紀後半にはフン族が東から西へ通過していくなど、諸民族が入り乱れ、興亡を繰り返していた 。 5世紀前後に東スラブ族が黒海北岸地域に住み着いた。 6世紀頃、ヴォルガ川の下流域を中心に「ハザール王国」(カザール王国)が勃興し、北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。 ハザール王国は9世紀初頭に世界史上類を見ない「改宗ユダヤ教国家」となり、国民の大部分がユダヤ教徒になった。 9世紀後半にはキエフを中心に現在のロシアのルーツとされる「キエフ大公国」が成立した。 その担い手は東スラブ人であり、彼らは自分たちをルーシ(ルス人)と呼んでいた。「ロシア」の名はこれに由来している。 キエフ大公国はハザール王国の衰退に乗じて、この地域の覇権を握り、西のカルパチア山脈から東のヴォルガ川、南の黒海から北の白海にかけて勢力を誇った。 なお、12世紀に作成されたキエフ大公国の『原初年代記』によれば、西暦986年にハザール王国のユダヤ教徒がキエフ大公国のウラジミール公(在位 980年〜1015年)にユダヤ教への改宗を進言したとある。 しかし、ウラジミール公は西暦988年に先進的な文明国であった東ローマ帝国(ビザンチン帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めた。 ハザール王国のユダヤ教徒は以後、ロシア人にユダヤ教への改宗を勧めた者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになり、11世紀に入ると、ハザール王国はキエフ大公国と東ローマ帝国の連合軍に攻撃され、大きなダメージを受けた。 12世紀、キエフ大公国は内紛と周辺の遊牧民との争いによって力を弱め、13世紀になると、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍によって滅ぼされ、代わって「キプチャク・ハン国」が成立した。 しかし、14世紀後半、モスクワ大公国が成立し、それに伴い、キプチャク・ハン国は消滅した。 そして、ウクライナ(キエフを中心として東西1000kmに及ぶ地域)は、13世紀後半から急速に領土を東と南へ拡張したリトアニア大公国の支配下に入り、西暦1569年にポーランド王国がリトアニア大公国を併合した為、ウクライナ北部・中部はポーランド王国の支配下に入った。 ウクライナ南部(黒海の北側沿岸地帯)はオスマン帝国の支配下にあった。 そして、この頃からウクライナ中央部に「コサック」と呼ばれる自治共同体が現れた。 しかし、コサックの自治共同体はポーランド王国やモスクワ大公国やオスマン帝国に挟まれ、余り長くは続かなかった。 ウクライナ東部(ドニエプル川の東側)は17世紀の中頃にロシア帝国領となった。 ウクライナ西部(ドニエプル川の西側)は依然としてポーランド王国領のままであった。 1772年の第一次ポーランド分割により、ガリチア地方(現ポーランド南部から現ウクライナ西部にかけての地域)はオーストリア帝国領となり、第二次・第三次ポーランド分割により、ポーランド王国の東側6割がロシア帝国領となり、ポーランド王国領であったウクライナ西部はロシア帝国領となった。

19世紀の民族運動の発展において、ウクライナでは過去の栄光を象徴する存在としてコサックが理想化された。 そして、ロシア帝国からのウクライナ独立という目標を掲げたウクライナ民族主義運動が起きたが、この運動はロシア政府により徹底的に弾圧された。 しかし、ウクライナ民族主義運動への弾圧は、かえってウクライナ人としての民族意識を根強いものとした。 また一方で、ウクライナ人は、ハザール王国時代以来の同居人であるハザール系ユダヤ人を迫害することによっても、自らをウクライナ人として意識した。 ウクライナ人によるハザール系ユダヤ人迫害については、後で詳しく触れていく。

1991年、ウクライナはソ連から独立した。 ウクライナは黒海に面し、欧州ではロシアに次いで国土面積が広い。 この国の草原地帯にはチェルノーゼム(黒土)と呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「ソ連の穀倉」と呼ばれていた。 1986年4月、ウクライナ北部のチェルノブイリ原子力発電所(キエフの北方100km)で炉心溶融と炉心爆発が起きた。 一般にウクライナは日本人には余り馴染みのない国であるが、ハザール系ユダヤ人の歴史を知る上で、このウクライナの歴史を知ることは重要である。 なぜなら、ウクライナはハザール王国のあった地域と大きく重なっているからである。 そして、ヨーロッパ圏ロシア(ウラル山脈から西のロシア)でのハザール系ユダヤ人に対する集団的・計画的な虐殺(ポグロム)ではウクライナ人がかなり重要な要素になっている。 ウクライナ人はロシア人やベラルーシ人と同じく「東スラブ族」に属している。 なお、「ウクライナ」という名はロシア人が勝手に付けたもので、元々「辺境」という意味で、これが国名にも民族名にもなっている。 この名が象徴するように、ウクライナの歴史はウクライナ人とロシア人とハザール系ユダヤ人との闘争の歴史である。

第2章  ウクライナのハザール系ユダヤ人
9世紀以降、ハザール王国領であったウクライナ東部(ドニエプル川の東側)では、ウクライナ人とハザール系ユダヤ人とが何世紀にも渡って一緒に暮らしてきたが、仲良く暮らして来た訳ではない。 ハザール王国滅亡(13世紀半ば)以降、ウクライナ西部(ドニエプル川の西側)には多くのハザール系ユダヤ人が住むようになった。 そうした状況の中で、ウクライナ人とハザール系ユダヤ人の間には常に社会的緊張が生じていた。 ウクライナ人が抱く反ユダヤ感情は、他のヨーロッパ諸国に負けないほど激しかった。 ウクライナを支配した民族は、ロシア人であれ、ポーランド人であれ、ドイツ人であれ、全てこの緊張関係を利用した。 ウクライナ人が支配者に反抗してウクライナ人の国家を要求すると、支配者はいつもウクライナ人を巧みに操って、彼らにハザール系ユダヤ人を攻撃させた。

西暦1648年、ボグダン・フメリニツキーを首領に頂くコサックは、ウクライナをポーランド王国の支配から解放するという大義名分で、「フメリニツキーの乱」を起こした。 彼らはポーランド王国の行く先々でハザール系ユダヤ人を虐殺し、金品を略奪した。 これにより、50万人のハザール系ユダヤ人が殺された。 この虐殺と略奪によって、ユダヤ人共同体は壊滅的打撃を受けた。 フメリニツキーの乱はウクライナ対ポーランド王国の大規模な戦争に発展し、ポーランド王国の衰退を引き起こした。 ボグダン・フメリニツキーはロシア史においては、コサックと農民の反乱指導者として、ウクライナ東部をポーランド王国から解放し、ロシア帝国の支配に至らせたとして高く評価されている。 しかし、その反乱において、多くのハザール系ユダヤ人を虐殺し、多くのユダヤ人共同体を破壊した為、ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。 更に、西暦1734年から1736年にかけてもウクライナにおいて「ハイダマク」という名称の集団がハザール系ユダヤ人虐殺を行なった。 この虐殺では、フメリニツキーがやった以上にハザール系ユダヤ人虐殺が行なわれ、しかも、ロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行なった。

ウクライナのハザール系ユダヤ人は17世紀と18世紀にウクライナで起きたハザール系ユダヤ人虐殺にもめげずに仕事に励み、立ち直り、活発な商業活動を展開した。 1817年、ウクライナの工場の30%はハザール系ユダヤ人が所有していたものである。 とりわけ製酒工場の90%、製材工場の56%、タバコ工場の48%、製糖工場の32%がハザール系ユダヤ人により経営されていた。 これらは中小企業にすぎないが、このような産業から何人かのユダヤ資本家が登場してきた。 例えば、製糖業では「砂糖の王」と称されたA・ブロッキーが、鉄道建設業ではC・ポリャコフが1850年から1870年にかけて第一人者であった。 また、黒海北部沿岸で1883年に開始されたドニエプル運河搬業、1876年に開始されたヴォルガ河蒸気船業などはいずれもユダヤ資本家によるものであった。 また、ハザール系ユダヤ人は小作雇い主としても活動し、目立つ存在であった。 ウクライナの小作農民とコサックはこんなハザール系ユダヤ人を搾取者と見なして、敵意を募らせた。 なお、注意しないといけないのは、ウクライナに住んでいたハザール系ユダヤ人の多くは都市下層民であったという点である。 ウクライナは北西ロシアに比較すると、経済的には恵まれてはいたが、ウクライナのハザール系ユダヤ人の多くは貧しかった。 当時のハザール系ユダヤ人の状況に関する調査報告には、ハザール系ユダヤ人の多くは貧困状態にあり、食事は通常、パンと野菜のみであったと記されている。 キエフのある地主の報告には、ハザール系ユダヤ人の大多数はウクライナ農民より貧しかったとさえ述べられている。

ウクライナ生まれの小説家ニコライ・ゴーゴリ(1809年〜1852年)の名作『タラス・ブーリバ』には、当時のウクライナの主人公だったコサックがハザール系ユダヤ人を虐殺する姿が描かれている。 それをニコライ・ゴーゴリがいかにも楽しげに書いている。 例えば、次のような場面では、コサックの会話の中に搾取者としてのハザール系ユダヤ人への敵意が表現されている。「今では教会もみな、ユダヤ人どもに抵当に押さえられているんだ。 それで前もってユダヤ人に借金を返さんことには、礼拝式のミサも行なうことができない有様なんじゃ。 なんだと! ユダヤ人どもがキリストの教会堂を抵当に差し押さえたとな。 忌まわしい邪宗門どものために、ロシアの大地の上でこんな苦難がまかり通っているんだと。 そうだ。 そんな真似はさせておかんぞ、断じてなるものか。 この会話の後、コサックはハザール系ユダヤ人を手当たり次第に川に投げ込んだ」。

第3章  ヨーロッパ圏ロシアにおける反ユダヤ政策
ハザール王国が13世紀半ば(西暦1243年)に滅亡して以降、非常に多くのハザール系ユダヤ人がヨーロッパ圏ロシアの西部に住み着いた。 ヨーロッパ圏ロシアにおける反ユダヤ主義は15世紀に始まった。 この当時、モスクワ宮廷内にはユダヤ教信仰が広まり、高位聖職者や貴族やモスクワ大公国の王イヴァン3世(在位 西暦1462年〜1505年)の義理の娘もユダヤ教を信仰した。 これに対して、西暦1487年、ノヴゴロド大司教がハザール系ユダヤ人追放令を出し、西暦1504年にはイヴァン3世がハザール系ユダヤ人を火刑に処する命令を出した。 モスクワ大公国の王イヴァン4世(在位 西暦1533年〜1547年)もまたハザール系ユダヤ人に対する敵意を示し、ハザール系ユダヤ人を“毒薬商人”と見なし、西暦1545年にはモスクワにおいて、ハザール系ユダヤ人の商品を焼き、彼らのモスクワでの商業活動を禁じた。 ハザール系ユダヤ人追放令はそれ以後、幾度も出された。 西暦1610年にはロシア帝国の王ヴァシーリー4世(在位 西暦1606年〜1610年)がハザール系ユダヤ人追放令を出した。 西暦1727年にはロシア帝国の第3代皇帝ピョートル2世(在位 西暦1727年〜1730年)がハザール系ユダヤ人追放令を出した。 西暦1744年にはロシア帝国の第6代皇帝:女帝エリザベータ(在位 西暦1741年〜1762年)が3万5000人のハザール系ユダヤ人にリヴォニア(現エストニア南部から現ラトビア東北部にかけての地域)から9年以内に退去するように命じた。 この退去命令に対しては、ハザール系ユダヤ人の商業活動による利益を考慮した元老院からの反対があったが、女帝エリザベータは「私はキリストの敵から利益を得たくない」として、これを拒否した。 このように、啓蒙君主であるピョートル1世を除いて、ロシア皇帝の多くは18世紀後半のポーランド分割に至るまでハザール系ユダヤ人追放政策を取った。

ロシア帝国の第8代皇帝:女帝エカチェリーナ2世(在位 西暦1762年〜1796年)は、それまでの皇帝によるハザール系ユダヤ人政策を引き継ぎ、西暦1762年、ハザール系ユダヤ人の入国を禁止した。 しかし、その政策は「ポーランド分割」によって無意味になった。 なぜなら、西暦1772年の第一次ポーランド分割によって20万人のハザール系ユダヤ人がロシア帝国の支配下に入ったからである。 そこで彼女は西暦1772年8月16日にハザール系ユダヤ人に対し移住禁止令を出した。 その後、西暦1793年の第二次ポーランド分割と西暦1795年の第三次ポーランド分割によって70万人のハザール系ユダヤ人がロシア帝国の支配下に入り、短期間で合わせて90万人ものハザール系ユダヤ人がロシア帝国の支配下に入った。 その結果として、ロシア帝国はハザール系ユダヤ人が最も多い国となった。

啓蒙主義者たちはハザール系ユダヤ人に対して宗教的な偏見を抱いていなかった。 彼らはハザール系ユダヤ人を他の全ての人々と同じ権利と義務とを備えた良き国民につくり上げようとした。 しかし、時間が経つにつれて、かなり大きな反動が現われてきた。 このままハザール系ユダヤ人を自由にさせておいてはならないと考えたエカチェリーナ2世は、西暦1791年、ベラルーシをハザール系ユダヤ人の定住区域(身分登録地)とした。 それから2年後の西暦1793年、彼女はウクライナ(キエフを中心として東西1000kmに及ぶ地域)をハザール系ユダヤ人の定住区域(身分登録地)とした。 更に、それから2年後の西暦1795年、彼女はリトアニアをハザール系ユダヤ人の定住区域(身分登録地)とした。 その結果として、ハザール系ユダヤ人はこれらの定住区域以外には定住できなくなった。 こうして、エカチェリーナ2世は「ハザール系ユダヤ人定住区域」の基礎を作った。 西暦1814年から1815年にかけて開かれたウィーン会議で、ワルシャワを首都とするワルシャワ公国の大部分がポーランド立憲王国としてロシア帝国の支配下に入った。 ポーランド立憲王国は西暦1831年にロシア帝国に併合されてロシア帝国領となり、間もなくハザール系ユダヤ人の定住区域とされた。 この「ハザール系ユダヤ人定住区域」は100万平方キロメートル(日本の領土の2.7倍)の広さがあり、ロシア帝国における巨大な「ゲットー」(ユダヤ人集団隔離居住区域) のようなものであった。 この「ハザール系ユダヤ人定住区域」には西暦1897年まで500万人強のハザール系ユダヤ人が住んでいた。 ハザール系ユダヤ人は少数の例外を除いて、第一次世界大戦中の西暦1915年に至るまで、この区域を離れることを許されなかった。 エカチェリーナ2世が作った「ハザール系ユダヤ人定住区域」は本質的には、ロシア帝国内でのユダヤ商人の商業活動を恐れたロシア商人の要求によるものであった。
次の図で黒く塗られた部分がロシア帝国のハザール系ユダヤ人定住区域である。

ロシア帝国の第10代皇帝アレクサンドル1世(在位 西暦1801年〜1825年)は「ユダヤ人改善委員会」を設置して、漸進的にハザール系ユダヤ人を矯正して改宗させようとしたが、これはハザール系ユダヤ人の反対に遭い失敗に終わった。 そこで、次のロシア皇帝ニコライ1世(在位 西暦1825年〜1855年)は「兵営学校制度」などを施行し、ハザール系ユダヤ人強制同化政策を取った。 しかし、この制度によって改宗したハザール系ユダヤ人はごく少数であった。 また、改宗を拒んだハザール系ユダヤ人の中には自殺した者も少なくなかった。 西暦1841年、ニコライ1世はハザール系ユダヤ人の改宗を目的とする公立学校とラビ神学校を設立し、西暦1844年にはハザール系ユダヤ人自治組織を廃止する法令を出し、西暦1851年にはユダヤ人分類計画を提案した。 しかし、これらの強制同化の試みは、あるものは廃止され、あるものはハザール系ユダヤ人の反対に遭って実施されず、全体的には失敗に終わった。 ニコライ1世の次のロシア皇帝アレクサンドル2世は、初めのうちは、自由主義的な政策を実施し、ハザール系ユダヤ人に対しても比較的寛容であったが、西暦1861年のポーランド反乱のあと、急変し、ハザール系ユダヤ人に対する政策を厳しくし、西暦1870年には都市条例を出し、ハザール系ユダヤ人が市役所職員の3分の1以上を占めることやハザール系ユダヤ人が市長職に就くことを禁止し、西暦1873年にはハザール系ユダヤ人の公立学校とユダヤ神学校を閉鎖した。 一方、ロシア帝国内においては、スラブ主義者とウクライナ民族主義者が台頭し、反ユダヤ宣伝が繰り広げられた。 その最たるものがヤコブ・ブラフマンによって西暦1869年に出版された『カハルの書』である。 この序文は、ハザール系ユダヤ人が国家の中に国家を形成し、その目的は一般市民を服従させ搾取することであるという反ユダヤ宣伝になっている。 この書は主として政府高官に好評を得た。 また、西暦1880年には新聞『ノーヴォエ・ヴレーミヤ(新時代)』が自由主義から保守主義に転じ、「ユダヤ人がやってくる」という警告文を掲載し、ハザール系ユダヤ人のロシア文化への進出の危険性を述べた。

西暦1881年3月、農奴解放で知られたロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されると、この犯行グループの中にユダヤ女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、「皇帝殺しのハザール系ユダヤ人に制裁を加えるべきだ」という煽動が民衆の間でなされた。 その為、狂暴な反ユダヤの嵐が吹きまくり、ロシア帝国領ウクライナでポグロム(ハザール系ユダヤ人に対する集団的・計画的な虐殺)が西暦1906年まで爆発的に、且つ、大規模に、且つ、ロシア帝国のハザール系ユダヤ人定住区域の全域に広がりながら、断続的に起きた。 警察や軍隊までがこれらの迫害を見物し助長した。 更に、キリスト教会はこれらの迫害に対して沈黙を保つどころか、支持さえした。 この一連のポグロムにより、十数万人のハザール系ユダヤ人が殺されたと言われている。 ナチスによるユダヤ人迫害が発生するまで、ロシア帝国はユダヤ人が最も大量に殺された国であった。 このポグロムの加害者はウクライナ人の農民と町人であり、それも下層民が多く、被害者はハザール系ユダヤ人の商人であった。

有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は、東欧ユダヤ文学者であるシャローム・アライヘムの『テヴィエの7人の娘たち』を原作としているが、これはロシア帝国の末期にウクライナで生活していたハザール系ユダヤ人がポグロムに遭遇する物語である。 この作品にはハザール系ユダヤ人を迫害するウクライナ人の暴動ぶりが描かれている。 このように、ウクライナで生活していたハザール系ユダヤ人たちは、その地のウクライナ人によって、とんでもない迫害を受けた。

1881年に爆発的で大規模なポグロムが起きると、ロシア帝国の内相イグナチエフはロシア皇帝アレクサンドル3世に「ポグロムはハザール系ユダヤ人の商業・工業への進出に対する一般民衆の抵抗の表明であり、ハザール系ユダヤ人の有害な活動を阻止する必要がある」と報告した。 これを受けて、アレクサンドル3世は特別委員会を開設し、この問題について討議させた。 この結果として、翌1882年5月3日に反ユダヤ法「5月法」が成立した。 「5月法」と呼ばれる反ユダヤ法の内容は次の3つである。
◎ 町に居住するハザール系ユダヤ人の村への移住の禁止
◎ 町以外(村)におけるハザール系ユダヤ人の商業活動および土地賃貸の禁止
◎ 日曜日(キリスト教徒の休日)におけるハザール系ユダヤ人の商業活動の禁止
これらはいずれもロシア人商人階級の要求を満たすものであり、特にハザール系ユダヤ人定住区域の15県において実施された。 1887年には、1882年以前から村に居住しているハザール系ユダヤ人の村間の移動が禁止された。 ロシア帝国におけるハザール系ユダヤ人差別政策は、この「5月法」にその完成をみた。

ロシア政府の内部には、人道的ないし経済戦略的な理由から、反ユダヤ政策の段階的撤廃を望む人物もいた。 特にロシア政府の大蔵大臣等は種々の規制の緩和を支持した。 彼らは、ハザール系ユダヤ人がロシア帝国において重要な経済的要素たり得ることを理解していた。 そして、ハザール系ユダヤ人敵視の政策が継続した場合、外国のユダヤ人銀行家の謀略により不利益が生じてくることを恐れていた。 大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテがアレクサンドル3世と行なった対話は示唆に富んでいる。 アレクサンドル3世は大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテに、ハザール系ユダヤ人に好感をもっているかどうかを訊ねた。 これに対して大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテは、「ハザール系ユダヤ人を全員黒海で溺死させることが可能でしょうか」と問い返し、言葉を続けて、「もし、それが出来ないとすれば、ハザール系ユダヤ人は生きていてもよいとせざるを得ません。 それはとりもなおさず、ハザール系ユダヤ人に他の全臣民と同様の権利を承認することを意味するのです」と述べた。 しかし、本質的な改善は実施されなかった。

「5月法」の制定によりハザール系ユダヤ人の商業活動にかなりの制限が加えられたが、彼らの商業活動は衰えなかった。 1897年の国勢調査によれば、ロシア帝国内には520万人のハザール系ユダヤ人が居住し、彼らはロシア帝国の人口の4%を占めていた。 このうち、ハザール系ユダヤ人定住区域には490万人のハザール系ユダヤ人が居住し、彼らはハザール系ユダヤ人定住区域の人口の11.5%を占め、この地域内でポーランドに限れば、130万人のハザール系ユダヤ人が居住し、彼らはその地区の人口の14%を占めていた。 ロシア帝国内のハザール系ユダヤ人の86.5%は都市に居住し、残りの13.5%は田舎に居住していた。 この当時、商業・銀行の領域と、手工業・工業・運輸業の領域には多くのハザール系ユダヤ人が従事しており、それぞれの領域でハザール系ユダヤ人が40%強を占めていた。 20世紀初頭以降、商業がロシアのハザール系ユダヤ人の最も重要な収益源となった。 ロシアのハザール系ユダヤ人が自由業で占める割合は大きくなり続けた。 また、ロシアのハザール系ユダヤ人が農業で働くことは少なくなっていった。

1881年以降にロシア帝国のハザール系ユダヤ人定住区域の全域で発生した一連のポグロムは、ロシアのハザール系ユダヤ人に大きな衝撃を与え、ロシア・ハザール系ユダヤ人社会に“3つの動き”を生み出した。 1つ目の動きはハザール系ユダヤ人の大移住である。 1880年代から1914年までに、300万人近くのハザール系ユダヤ人(アシュケナジム)がロシアを離れて他国へ移住した。 そのうちの280万人はアメリカ合衆国に移住し、5万人は開拓民としてパレスチナに移住・入植した。 2つ目の動きはロシア革命への積極的参加である。 ロシアに残ったハザール系ユダヤ人のうち、青年の一部は、革命によって自由と平等の権利を得ることこそユダヤ人迫害の唯一の解決策だと考え、革命運動に参加した。 3つ目の動きはシオニズムの発生である。 東ヨーロッパのハザール系ユダヤ人の一部は、当時オスマン帝国の支配下にあったパレスチナにユダヤ国家を樹立することがユダヤ人迫害の唯一の解決策だと考えた。

第4章  ロシアのハザール系ユダヤ人が深く関与した「ロシア革命」
ロシア革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、総人口中のユダヤ人の割合に比べて、共産党員中のユダヤ人の割合がかなり高いことが判る。 ロシア革命期にはハザール系ユダヤ人の革命家が実に多くいた。 トロツキー、カーメネフ、ジノビエフ、ラデック、さらにメンシェヴィキのマルトフなど、革命指導者の大多数はハザール系ユダヤ人であった。 革命指導者だけでなく、革命参加者の中にも多数のユダヤ青年がいた。
政治局員クラスで言うと
トロツキー (ハザール系ユダヤ人)
ジノビエフ (ハザール系ユダヤ人)
カーメネフ (ハザール系ユダヤ人)
ブハーリン (ロシア人、妻がハザール系ユダヤ人)
スヴェルドロフ (ハザール系ユダヤ人)
クイブイシェフ (ウクライナ人、秘書がハザール系ユダヤ人)
ヴォロダルスキー (ハザール系ユダヤ人)
ウリツキー (ハザール系ユダヤ人)
ルイコフ (ハザール系ロシア人)
カリーニン (ハザール系ロシア人)
ソコリニコフ (ハザール系ユダヤ人)
ラデック (ハザール系ユダヤ人)
はハザール系ユダヤ人である。

1920年にイギリスで発行された『ユニティ・オブ・ロシア』は、ロシア革命で政権を握った政治組織の中にいかに多くのハザール系ユダヤ人がいたかということを伝えている。 実に85%がハザール系ユダヤ人である。 また、イギリスの新聞『モーニング・ポスト』がロシア革命直後に掲載した革命の中心メンバーの一覧表によると、50人中44人までがハザール系ユダヤ人である。 ただし、ロシア革命に係わった政党・組織の中に、ロシアに永く住んできて革命に参加したハザール系ユダヤ人がどの位いたかは不明である。 親ユダヤ主義者であったアメリカのウッドロー・ウィルソン大統領は1919年に「ロシア革命はユダヤ人が指導した革命である」と言った。 ロシア革命はハザール系ユダヤ人の解放運動である。 これは否定できない事実である。 この時期には、リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ労働者総同盟、シオニスト社会主義労働者党、ユダヤ社会主義労働者党、などの、ハザール系ユダヤ人による社会主義政党も盛んに活動していた。

アメリカのユダヤ人社会はロシアの革命家たちに多大な資金を提供してロシア革命運動を支援した。 例えば、ヤコブ・シフは1917年にレーニンとトロツキーに対してそれぞれ2000万ドルの資金を提供した。 その目的は、世界最大の反ユダヤ国家であるロシア帝国を打ち倒すことであった。

レーニンはユダヤ系である。 レーニンの母方の祖母はハザール系ユダヤ人である。 レーニンの妻クルスプカヤはハザール系ユダヤ人である。 ハザール系ユダヤ人ジノビエフはレーニンの腹心中の腹心であり、レーニンの原稿を代筆するまでになっていた。 レーニンを継いだスターリンはハザール系ユダヤ人ではなくグルジア人であると言われるが、スターリンはハザール系ユダヤ人であるという根強い説がある。 その根拠の1つとして、彼の本名が挙げられる。 彼の本名は「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ」だった。「ジュガシヴィリ」とは「ジュウ(ユダヤ)の子孫」という意味で、彼はそれを嫌って、スターリン(鉄)というあだ名を正式の名にしてしまったというのだ。 また、スターリンは身辺に多くのハザール系ユダヤ人を抱えていた。 スターリンの長男の妻もハザール系ユダヤ人だったし、娘スヴェトラナの恋人も夫も共にハザール系ユダヤ人で、スターリンの妻はモロトフの妻(ハザール系ユダヤ人)と親友だったし、ユダヤの血の流れている孫達にも囲まれていたのである。 その上、彼の侍医たちはハザール系ユダヤ人ばかりであった。

唯物史観に基づいて共産主義経済理論を体系化したカール・マルクスはハザール系ユダヤ人であった。 ハザール系ユダヤ人と共産主義の関係はとても深い。 カール・マルクスはハザール系ユダヤ人でありながら、ユダヤ的なものを極度に忌み嫌った。 彼は自分がハザール系ユダヤ人であることを極度に嫌っていた。 マルクスにとって、ユダヤ教と駆引商売とは同義であり、「そこでは金の力が唯一絶対であって、市場と貨幣の思想が社会の中の人間的な絆にとってかわり、そのために、我々の社会は細分化され、非人間的になっていった」とし、その責任はユダヤ人にあると考えた。 マルクスは、ユダヤ教を排除し共産主義社会を実現することが人間らしい社会的結合を取り戻すための必要条件であると考えた。

第5章  スターリン政権の政策
ロシア革命(1917年)後の内戦と戦時共産主義体制(1918年〜1921年3月)の中で、ロシア国内のハザール系ユダヤ人は法的な面では、かつてなかった程うまくいっていた。 ハザール系ユダヤ人は公職、教育機関での役職、国営企業の管理部門、その他重要なポストに昇進した。 こうしたハザール系ユダヤ人は、社会主義・世界革命・階級闘争がユダヤ民族の国家問題や宗教問題より価値あるものだと考えた。 こうしたハザール系ユダヤ人は「同化ユダヤ人」であった。 また、戦時共産主義体制下では私企業が禁止されていたが、1921年3月に始められた新経済政策(1921年〜1928年)により中小規模の私企業が解禁され、ハザール系ユダヤ人も私企業の経営に従事できるようになった。 その結果、ハザール系ユダヤ人は都市住民の8%、商人の20%、手工業者の40%を占めるようになった。 しかし、1927年12月、スターリンが最高権力者の座に就くと、情勢は急変した。 スターリンが1928年に発表した第一次五ヶ年計画により、私企業は全面的に禁止され、裕福なハザール系ユダヤ人は労働者階級の敵であると宣告された。 ユダヤ教は他の宗教と共に反宗教闘争の対象となり、「シオニズム」はブルジョア思想として排斥された。 共産党内部のユダヤ人支部は1930年にことごとく廃止された。 共産党指導部内の権力闘争のなかで、スターリンとその支持者はボルシェヴィキの中から着々とハザール系ユダヤ人を排除し、意図的に反ユダヤ主義のスローガンを掲げた。「ユダヤ人は労働者階級とは何ら共有するもののない、プチブル(中産階級)的インテリだ」と叫ばれた。 そこでは、比較的高位の公職についているハザール系ユダヤ人や、新経済政策の時期(1921年〜1928年)に蓄財したハザール系ユダヤ人に対する不信感が利用された。 『赤の広場』などの著書で知られるソ連生まれのハザール系ユダヤ人エフ・ニエズナンスキー(彼はモスクワ大学を出て25年間にわたり司法界で活躍したが、1977年に西ドイツに亡命した)は、1986年に日本の雑誌『中央公論』の対談で、ソ連の「ユダヤ人問題」について次のように語った。「ロシア革命時には、かなり多くのユダヤ人が功績を立てたので、スターリン独裁が確立されるまでは、ユダヤ人は政治の世界でも活躍の場を持っていた。 ところが、スターリン独裁が確立した後の状況では、ユダヤ人問題はちょっと特別な社会の病理現象といった感じで受け止められるようになってきて、結局、スターリン時代に政治の檜舞台からユダヤ人は一掃されたと言ってよい」。

スターリン政権は第一次五ヶ年計画(1928年〜)の中で、農民をうまくコントロールするために農民を集団化した。 この農民集団化政策に対して最も頑強に抵抗したのがウクライナ農民であった。 ウクライナは豊かな土壌に恵まれてはいたが、課せられた収穫高の達成は困難で、ウクライナ農民は当局による厳しい食料調達に耐えられなかった。 また、ウクライナの農村部はウクライナ民族主義者の溜まり場であるとして目をつけられていた。 スターリンは、ウクライナ民族主義者、インテリ、農民集団化政策の反対者など、彼の権力体制にとって邪魔な者を全て抹殺した。 真っ先に高学歴の地方エリートが弾圧目標となり、作家や学者たちが何百人も逮捕され、監獄や強制収容所へ送られた。 ウクライナ正教会の関係者も弾圧の対象となった。 ソ連政府の政策を批判したという理由で100万人のウクライナ人が殺され、1000万人のウクライナ人がシベリアでの森林伐採や白海・バルト海運河建設の為に連行されたと言われている。 スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられた。 この村の男は白海・バルト海運河建設へ、女はウラルのステップ地帯に送られた。

更に恐ろしいことに、スターリンはウクライナ人を完全屈服させるために、1932年から1933年にかけて、ウクライナに人為的大飢饉を起こした。 ウクライナ国境は封鎖され、ウクライナ農民は家畜・穀物、その他の食糧の大部分を取り上げられた。 ウクライナ農民は村から出ることを禁じられ、多くの者が村から逃げ出そうとして捕まって殺された。 食糧の大部分を没収された農民たちは僅かに残されたジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、どんぐりや草まで食べた。 終に人々は病死した馬や埋葬された人間の死体を掘り出して食べ、病死した。 赤ん坊を食べた者さえいた。 通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂った。 このようにして世界史上最大規模の悲劇が起こったのである。 この人為的ウクライナ大飢饉による死者数は400万人〜1450万人と推定されている。 この人為的ウクライナ大飢饉は「ホロドモール」と呼ばれている。

イギリス、カナダ、スイス、オランダなどは国際連盟や国際赤十字を通じて、ウクライナ大飢饉に手を打つようソ連政府に要請した。 しかし、ソ連政府は頑としてウクライナ大飢饉の存在を認めず、存在しない飢饉への救済は不要だという一点張りだった。 ソ連政府が飢饉を認めるという事は、ウクライナ農民に譲歩するということであり、第一次五ヶ年計画の成功を宣伝し、国際連盟への加盟、西欧諸国との不可侵条約締結を目指し、外交的承認を得ようとしていたソ連としては自国内の飢饉を認めるわけにはいかなかった。 国際政治の場での名誉失墜は避けねばならなかったのである。 ソ連政府はウクライナ大飢饉をずっと否定し隠蔽し続けた。 ソ連政府がウクライナ大飢饉を公式に認めたのは1980年代に入ってからである。

スターリンが1936年から1938年までの間に集中的に行なった「大粛清」の犠牲となったハザール系ユダヤ人は数え切れなかった。 特に芸術や学問の分野からは多くの犠牲者が出た。 尤も、「大粛清」の犠牲となったのはハザール系ユダヤ人だけではない。 スターリンは共に戦ってきた同志を次々に逮捕・銃殺した。 スターリンは自らの偉大さをアピールし正当化した。 モスクワの至るところにスターリンの肖像画と彫像が設置された。 自分の他に神があってはならなかった。 宗教儀式は禁止され、粛清はモスクワからソ連全土に広められた。

スターリンによる「大粛清」は、彼の権力体制を脅かす恐れのある者たちを秘密警察が大々的に捕らえて銃殺または強制収容所送りにするというものである。 ロシアではロマノフ王朝時代から秘密警察があったが、レーニン時代にその機能が強化され、更に、スターリン時代に一層強化された。 1930年代には秘密警察による監視と密告制度が網の目のようにソ連全土に張りめぐらされていった。 知らないうちに人が消えていった。 家庭の中でさえ密告が行なわれ、人々は疑心暗鬼になった。 この「大粛清」により、古参ボルシェヴィキの殆ど全て、赤軍高級将校(将官、大佐)の80%〜90%、多くの自営農民・文化人・学者・俳優・音楽家・教師・司祭、果てはバレリーナ・乞食までが「人民の敵」という烙印を押され、逮捕され、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに銃殺された。 その総数は『ソビエト大百科事典』によれば200万人前後とされる。 その中には多くのハザール系ユダヤ人が含まれていた。 また、ソ連全土に200もの強制収容所(ラーゲリ)が作られ、そこに大勢の人間が正当な理由もなく強制収容され、金鉱山などで強制的に働かされた。 スターリンによる「大粛清」で政治犯として殺された者の数は1800万人とも言われる。 スターリンは多くのハザール系ユダヤ人を殺害したが、その一方、党や政府の役職にハザール系ユダヤ人を重用していた。 スターリンに重用されたハザール系ユダヤ人として、ラーザリ・カガノヴィッチを挙げることができる。 このハザール系ユダヤ人は無神論者であった。 色々な立場のユダヤ人がいるということなのだろう。 因みに、ロシア連邦国立文書館が公開した資料によれば、レーニン時代の秘密警察により、1921年〜1923年の3年間で1万2000人が銃殺された。

独ソ戦(1941年6月〜1945年)が始まって間もなく、スターリンは大規模な民族強制移住を実行した。 強制移住の標的にされた人々は「敵性外国人」のドイツ系少数民族であった。 ナチス・ドイツがコーカサス地方を短期間占領した後、コーカサス山岳民族とクリミア・タタール人(計100万人強)が強制移住させられた。 これらの人々は赤軍により一箇所に集められて行進させられたあとに、家畜同然に輸送列車に乗せられ、シベリアや中央アジアへ強制移住させられた。 老人や障害者など、足手纏いになる者は射殺されたり、崖から突き落されたりした。 チェチェン共和国のハイバフ村では、住民700人がコルホーズの馬屋に閉じ込められて焼き殺された。 スターリンにより、ウクライナ人、ソ連内のポーランド人、朝鮮人、ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、カルムイク人、チェチェン人、イングーシ人、カラチャイ人、メスヘティア・トルコ人、フィンランド人、ブルガリア人、ギリシャ人、ラトビア人、リトアニア人、エストニア人、ユダヤ人などの民族集団が徹底的に又は部分的にシベリアや中央アジアへ強制移住させられた。 その途中で多くの者が死んでいき、生き残った者は強制収容所で強制的に働かされた。 1941年から1949年までにシベリアや中央アジアへ強制移住させられた人々の総数は330万人と推定されている。

スターリン体制(1927年〜1953年)の26年間において、スターリンの政策により殺された人間の数は、銃殺・拷問で殺された者、強制収容所で過労死・凍死・餓死・病死した者、農業政策の失敗で餓死・病死した者、などを合計して2000万人〜5000万人と推定する論者が多い。

第6章  第二次世界大戦後のソ連のハザール系ユダヤ人
第二次世界大戦後のスターリン体制最後の数年間(1948年〜1953年)は、ソ連在住ハザール系ユダヤ人にとって暗黒期であった。 この時期に生じた反ユダヤ的事件は以下の通りである。
● 1930年代及び大戦中に設立されたユダヤ人文化協会・団体の廃止。
● 1949年からのソビエトの新聞・雑誌による公然とした反ユダヤ宣言。 特にユダヤ人の世界市民的な面が攻撃された。 すなわち「母国をもたない根なし草」、反逆分子、など。
● ユダヤ反ファシスト委員会の廃止。 ユダヤ人作家・ユダヤ人芸術家などが逮捕または殺された。
● クリミア事件。 スランスキー裁判。 いずれもユダヤ人が罰せられた。 ドレフュス事件に匹敵する。
● ユダヤ人医師陰謀事件。 スターリンの権力闘争に利用された事件。 事件後、数千のユダヤ人が職を追われた。
● ユダヤ人とイスラエルとアメリカとをソ連の敵とする大衆宣伝開始。

ソ連政府は第二次世界大戦後、ハザール系ユダヤ人を差別し続けた。 スターリン時代からソ連崩壊に至るまで、ソ連の上級官僚に任命されたハザール系ユダヤ人は皆無に近い。 教育でも就職でも、ハザール系ユダヤ人は常に差別されてきた。 ブレジネフ時代(1964年〜1982年)にハザール系ユダヤ人にもたらされた恩恵と言えば、ただ1つ、出国の機会だった。 1971年から1988年までにソ連のハザール系ユダヤ人15万人がイスラエルへ移住した。

イスラエル国は1967年6月の第三次中東戦争(6日戦争)以来、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区を占領し続けている。 その結果、イスラエル国は多くのパレスチナ人(アラブ人)を国内に抱えるようになり、イスラエルの指導者たちは、数十年後にはユダヤ人よりパレスチナ人のほうが多くなるのではないかと懸念するようになった。 そこで、イスラエルのシャロン国防相はソ連の軍高官と密かに接触し、1981年に開かれたイスラエルとソ連との秘密会議でソ連のハザール系ユダヤ人をイスラエルに移住させる計画が立てられた。 ソ連政府は1989年から2010年までの間に120万人のハザール系ユダヤ人を送り出し、ヨルダン川西岸地区へ移住させることに同意した。

1989年12月、マルタ島で米ソ首脳会談が行なわれた。 このマルタ会談では、ゴルバチョフ大統領が東欧の民主化を保証する代わりに、ブッシュ大統領はソ連に「最恵国待遇」を与え、対ソ連経済協力を約束した。 そのとき、アメリカ側が出した条件は、ソ連のハザール系ユダヤ人の国外移住に制限を加えないというものであった。 この条件はアメリカ国内で強大な勢力を有するハザール系ユダヤ人シオニストの要求を代弁したものである。 このマルタ会談により、ソ連の自由化は急速に進み、ソ連は終に崩壊し、ソ連のハザール系ユダヤ人のイスラエルヘの移住は急増し、ソ連のハザール系ユダヤ人のアメリカヘの移住も急増した。 ゴルバチョフは「自分はモーセになったような気分だ」と語った。

ソ連の国勢調査によれば、1989年1月時点で、ソ連のユダヤ人口は145万人であったが、同年末までにハザール系ユダヤ人7万人がソ連を出国し、そのうちの6万人がアメリカへ移住し、残りの1万人がイスラエルへ移住した。 1990年から1993年までに、ハザール系ユダヤ人58万人がソ連を出国し、そのうちの46万人がイスラエルへ移住し、残りの12万人がアメリカへ移住した。 1994年以降も旧ソ連の国々のハザール系ユダヤ人の出国は続いた。 1994年から1997年までにハザール系ユダヤ人8万人が旧ソ連の国々を出国しイスラエルへ移住した。 (1994年から1997年までに旧ソ連の国々を出国してアメリカへ移住したユダヤ人の数は不明)

ソ連国内にはユダヤ機関の事務所が19ヶ所作られ、ハザール系ユダヤ人の出国活動を支えた。 しかし、ソ連からイスラエルに来て、イスラエルに失望するハザール系ユダヤ人が少なくない。 イスラエルではロシアから来たハザール系ユダヤ人の増加で住宅不足が起き、都市においては家賃が2倍強にはね上がり、数ヶ月分の前払いをしなければ出て行くことを要求する家主が現れている。 また、当然、失業率は高くなり、かつてはアラブ人の仕事だった道路掃除や建設現場などの肉体労働にロシア系ユダヤ人の医者や学者が従事している。 元ソ連のオーケストラの指揮者が街頭で楽器演奏をして、その日の糧を得ている様子がNHKのテレビ放送で報道されたほどである。 中にはホームレスになる人もいるという。 ロシア系ユダヤ人の増加でアラブ人は職を追われ、新たなユダヤ対アラブの対立が生まれている。 現在も、イスラエル政府は積極的に入植政策を行なっており、増え続けるロシア系ユダヤ人のために占領地に鉄筋コンクリートの頑丈な住宅を造り、パレスチナ問題を一層解決困難な状態に導いてしまっている。

ソ連に残ったハザール系ユダヤ人は現在(2006年)、その大多数がロシアとウクライナとベラルーシに居住し、その数はロシアに23万人、ウクライナに8万人、ベラルーシに7万人である。 リトアニア、グルジア、アゼルバイジャン、および中央アジア諸国のハザール系ユダヤ人口は数千人から2万人程度である。