公式に否定された「ダッハウ収容所は絶滅収容所である」説

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ナチス・ドイツの強制収容所と言えば、ポーランド南部にある「アウシュヴィッツ収容所」が有名である。 アウシュヴィッツ収容所はユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の代名詞にまでなっている。 しかし、1960年代までは、アウシュヴィッツ収容所よりミュンヘン郊外にある「ダッハウ収容所」のほうが有名だった。 ダッハウ収容所はナチス・ドイツがドイツ国内に作った最初の収容所であり、第二次世界大戦開始の6年前(1933年)にナチスの政敵や同性愛者や売春婦などを収容するために建設された。

ニュルンベルク裁判で「大量ガス殺人」の現場証拠として法廷に提出されたものは、記録フィルムの上映によるダッハウ収容所のシャワールームの水栓の映像のみであった。 ニュルンベルク裁判では、このシャワー水栓の映像が法廷で映写されたことだけで「ダッハウ収容所は絶滅収容所である」と認定された。 そして、反対尋問すら許可されずに「600万人のユダヤ人虐殺」が認定された。 世界中の人々は、長い間、この裁判結果に基づいて、第二次世界大戦中に大量のユダヤ人がダッハウ収容所のガス室で虐殺されたと信じてきた。 しかし、今ではイスラエル寄りの学者でも、ダッハウ収容所が絶滅収容所だと言う者はいないし、ドイツ国内に絶滅収容所があったと言う者もいない。 なぜならば、ドイツ国内に絶滅収容所は無かったことが1960年に発表されたからである。 当時、第二次世界大戦やホロコーストに関する西ドイツ政府のスポークスマン的立場にあった歴史学者マーティン・ブロサット博士が1960年8月19日付『ディー・ツァイト』紙で次のような趣旨の声明を発表した。「ナチスが大戦中ガス室を作ったのはドイツ軍に占領されたポーランドだけで、ドイツ本国にガス室はなかった。 ダッハウでも、ベンゲル・ベルンゼンでも、ブッフェンヴァルトでも、ユダヤ人やその他の収容者がガスで殺されたことはなかった。 ガスによるユダヤ人大虐殺が始まったのは1941年か1942年であり、占領下のポーランドのアウシュヴィッツ、ビルケナウ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、ベウツェックにおいてである」。 このようにブロサット博士はニュルンベルク裁判の判決に全く反する声明を発した。 ブロサット博士はその後、1972年にミュンヘン現代史研究所の所長に就任した。 この研究所は、ブロサット博士が所長に就任するまで、ドイツ国内での大量ガス殺人の存在を証明するために実に多くの発表を行ない、西ドイツ政府の見解を代弁する団体と見なされていた。 しかし、この研究所は、ブロサット博士が所長に就任すると、従来の見解を捨て去った。 今では、ナチ・ハンターとして有名なユダヤ人活動家サイモン・ヴィーゼンタールまでが「ドイツ国内には絶滅収容所はなかった」と言わざるを得ない。 ダッハウ収容所は現在では記念館になっていて、そのパンフレットには「このガス室はシャワー室に偽装したものですが、一度も使われたことがありませんでした」と書かれている。 このように、ニュルンベルク裁判で認定された「ダッハウ収容所は絶滅収容所である」という定説は完全否定された。 それまでは、ダッハウ収容所以外のドイツ国内の収容所(ベルゲン・ベルゼンなど)でもガス室における処刑の告発や証言が山ほどあったが、これらも吹き飛んでしまった。 つまり、「ダッハウ収容所以外にもドイツ国内に絶滅収容所が数ヶ所あった」という定説も完全否定された。

「ダッハウ収容所は絶滅収容所である」という定説が完全否定されたあと、アウシュヴィッツ収容所が絶滅収容所として注目されるようになった。 アウシュヴィッツ収容所は、戦後10年間、ソ連が立ち入りを全面的に禁止していた為、十分な調査がなされていなかった。 その為、アウシュヴィッツ収容所の実態に関しては不明な部分が多く、現在もアウシュヴィッツ収容所を巡る論争は尽きない。

ドイツ国内に絶滅収容所はなかったことになった。 しかし、ガス室はあったとされる。 ガス室があった場所は収容所ではなく精神医療施設である。 そこでは何万という精神障害者が一酸化炭素ガスで殺された。 また、最近では、収容所内でも実験的ガス殺人が存在していたという研究報告も出されている。 しかし、この実験的ガス殺人は小規模なもので、そこでの死者は恐らく数千人程度であることはほぼ確実だという。

追加情報: ダッハウ収容所の「ハーブ園」と「医学人体実験」
ナチス・ドイツではハーブと自然薬が大いに推奨されていたが、1930年代末、ナチス親衛隊の長官ハインリッヒ・ヒムラーの命令を受けたナチス親衛隊の植物学者たちはダッハウ収容所に広大なハーブ園を建設した。 こうして実験用およびナチス親衛隊と軍への配給用として、香辛料や植物の栽培が始まり、ダッハウ収容所は世界最大の薬用植物研究所を持つに至った。 多くの囚人たちがダッハウ湿原の200エーカーの土地で様々な種類の薬草・香草類の栽培・乾燥・出荷にあたっていた。 有機栽培で育てた花から蜂蜜も作られていた。

アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスによれば、戦争中、軍が使用した調味料の殆ど全てがこのハーブ園で栽培されていたという。 これは事業としても収益性が高く、ナチス親衛隊は年間何十万ライヒスマルクを得ていた。 このように、ダッハウ収容所は世界有数のハーブとスパイスの栽培所となっていた。 そして、1945年以後も、ダッハウ収容所のハーブ園は共同農場として運営が続けられ、何百人もの元囚人が労働を続けていたほど収益性の高いものだった。 ダッハウ収容所のハーブ園以外にも、ヒムラーの命令により多くの収容所で薬草の栽培が行なわれた。

もちろん、ダッハウ収容所は囚人たちにとって楽園ではなかった。 そこは死神がうろつくような劣悪な生活環境であった。 栄養失調と石切り場での重労働で囚人の命は数ヶ月しか持たなかった。 また、ナチスの医者によって残酷な医学人体実験も行なわれていた。 主な人体実験として「低圧実験」「低温実験」「マラリア実験」「海水飲用実験」などがあった。 人体実験の被害にあったのはユダヤ人だけではなく、ソ連軍捕虜やジプシー(ロマ)も多く含まれていた。 微笑ましい風景に見えるハーブ園と残酷でおぞましい医学人体実験。 この本来結びつきそうもない両者が奇妙に共存していたのがダッハウ収容所であった。 ダッハウ収容所で薬草を栽培していたナチス親衛隊員にとって、囚人たちは価値のない雑草にしか見えなかったのかも知れない。

ところで、当時のドイツにとって囚人たちは貴重な労働力であったことも見逃すことの出来ない事実である。 ダッハウ収容所では毒ガスによる殺戮はなかったが、過酷な労働作業があった。 ダッハウ収容所の労働力を使って進められた大プロジェクトとして、防空構造を持たせた巨大地下施設の建造がある。 この巨大地下施設で生産される予定だったものは世界最初のジェット戦闘機「Me262」である。 ドイツ空軍が連合軍機によって駆逐されつつあったため、ドイツ側は猛烈な勢いで世界最初のジェット戦闘機「Me262」の開発に取り組んでいた。 Me262は時速800km強のスピードと上昇能力の点で当時のどんな飛行機より遥かに優れていた。 Me262は1945年初頭に何機かが実戦に参加したが、そのときにはすでに、連合軍の制空権は圧倒的なものとなっていた。