アウシュヴィッツ収容所で毒ガス大量殺人はあったのか、なかったのか

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かの有名なアンネ・フランクはアウシュヴィッツ収容所で毒ガスで殺されたと思い込んでいる人が時たまいる。 しかし、アンネ・フランクは毒ガスで殺されたのではない。 彼女はソ連軍の侵攻の前にアウシュヴィッツ収容所からベルゲン・ベルゼン収容所に移送され、そこで発疹チフスにかかって病死した。 それは、ベルゲン・ベルゼン収容所がイギリス軍に解放される約2ヶ月前の1945年3月のことだった。 そして、ベルゲン・ベルゼン収容所は絶滅収容所ではない。 アンネ一家4人のうち、アンネの母親はアウシュヴィッツ収容所で死んだ。 アンネと姉の2人はベルゲン・ベルゼン収容所に移送され、発疹チフスにかかって病死した。 アンネの父親はアウシュヴィッツ収容所で発疹チフスにかかったが、入院して回復した。 彼は1980年にスイスのバーゼルで死ぬまで、91歳の寿命をまっとうした。 現在、資料館になっているベルゲン・ベルゼン収容所の入口には、アンネの写真とともに明確に彼女が発疹チフスで亡くなったことが示されている。 ベルゲン・ベルゼン収容所の資料センターの歴史家トーマス・ニーエは次のように語る。「アンネがどの棟にいたか、正確にはわかっていない。 アンネが死んだ3月、チフス感染で1万8000人が死んだ。 死者は合計5万人、解放時の生存者は6万人だった」。

アンネ一家からもわかるように、当時の強制収容所では発疹チフスが大流行していた。 強制収容所の中には多くのシラミがいて、そのシラミが媒介となって発疹チフスが伝染し、弱っていた人びとを死に追いやった。 『世界大百科事典』(平凡社)の「発疹チフス」の項目には、「シラミが寄生するような衛生状態の不良なところに流行が発生し、〈戦争熱〉〈飢饉熱〉〈刑務所熱〉〈船舶熱〉などの別名でも呼ばれた。 第二次世界大戦でも発疹チフスは将兵をおそい、多くの日本軍兵士の命を奪った。 さらにアウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行した」と書かれている。

ダッハウ収容所から運よく生還したユダヤ人ソリー・ガノールは、この時の悲惨な体験を著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。 この本には次のような記述がある。「囚人服はシラミだらけだった。 この害虫に慣れてきていたとはいえ、陽光の中をうごめく数千のシラミには吐き気をもよおした。 ナチとその追随者の次には、シラミこそが我々の第二の大敵にほかならなかった。  〈中略〉  状況があまりにもひどくなったため、ドイツ側もなんとかしなくてはいけないと気付いた。 このままでは、奴隷労働そのものが崩壊しかねないありさまだったのである。  〈中略〉  12月中旬のある真夜中、私たちは全員、寝棚からたたき出された。 バラックに走りこんできたナチス親衛隊の警備兵とカポ(囚人の間から登用される統制者)たちが「ひとり残らず服を脱げ」とわめいた。 ぐずぐずしていると、こん棒とムチがふってくる。 脱いだ衣服は消毒のため持ち去られ、素っ裸の私たちはそのまま雪の戸外へ追い出され、シャワーの場所まで走らされた。 冷たい風が吹きつけ、骨までつき刺してくる。 そのうえで、なんと、水のシャワーを浴びせられた。 ナチス親衛隊の兵士たちは怒鳴りっぱなしである。 『このシラミ野郎! うす汚いユダヤめ、さっさとしろ!』 多数の年輩者、大勢の骸骨人間がコンクリートの床にくずおれた。 ユダヤ人のシラミ退治のために、吹雪の最中に暖かいベッドを離れねばならなかったことで、監視兵たちは不機嫌そのものだった。 裾まであるロング・コートでがっちり身をくるみ、帽子を目深にかぶり、手袋をはめた彼らの姿を見あげて、こいつらは人間なんだろうかと、私は改めていぶかった」。

アメリカ軍がダッハウ収容所を解放した時、毒物の所在を示すドクロマークがついた部屋を発見した。 そして、その部屋の中には、これまたドクロマークのついたシアン化合物「チクロンB」の缶が大量に残されていた。 驚いたアメリカ軍は、ガス室の決定的証拠として、このドクロマークの付いた部屋の写真を世界に発表した。 しかし、のちにそれは消毒室だったと訂正された。 ドクロマークの付いた部屋は発疹チフスの病原体を媒介するシラミを退治するための消毒室だった。 この消毒室では、衣類やマットなどからシラミを駆除するために、チクロンBが使われていた。 チクロンBは当時のドイツ社会で一般に販売され、殺虫目的で広く使用されていた。 DDTを持たなかったドイツ軍はチクロンBをシラミ駆除の殺虫剤として使用していた。

チクロンBは1923年、ユダヤ人化学者フリッツ・ハーバー博士 (1868年〜1934年)によって偶然開発された。 彼はアンモニア合成法の「ハーバー・ボッシュ法」で知られ、1918年にノーベル化学賞を受賞した。 ユダヤ人だった彼は、ヒトラー政権誕生後、祖国ドイツから追放され、翌1934年にスイスで死んだ。

「ダッハウ収容所は毒ガス殺人が行なわれた絶滅収容所である」という説は戦後15年たってから公式に否定されたが、ダッハウ収容所と同じタイプの消毒室はアウシュヴィッツ収容所にもあった。 アウシュヴィッツ収容所でもシラミ駆除のために消毒室でチクロンBが使用されていた。 これは公式に認められている事実である。 ここで疑問が起きてしまう。 アウシュヴィッツ収容所では「チクロンB」が殺人用にも使われていたのか。 一般的には、アウシュヴィッツ収容所ではチクロンBが、人間を大量に殺すために転用されていたと主張されている。 しかし、チクロンBの転用に関しては世界的に大きな議論が起きている。 肯定派と否定派の意見は真二つに割れている。 もし、転用されたのであれば、どの場所(部屋)で転用されたのかが問題となる。 消毒室は非常に狭く、人間が何人も入れない。 目標「1100万人」、実績「150万人」と称される計画的な大量虐殺の場所としては余りにも不適当である。 そのため肯定派は、収容所の中に存在する防空シェルターとして使われたことのある半地下室こそが大量虐殺のためのガス室だと主張している。 一方、否定派は、アウシュヴィッツ収容所ではチクロンBによって殺害された遺体は一体も発見されていないという事を挙げる。 更に、否定派は、半地下室をガス室として使用するには、科学的に問題がありすぎるとして、「アウシュヴィッツ収容所は毒ガス大量殺人が行なわれた絶滅収容所である」という説を完全否定し、チクロンBはシラミ駆除のためだけに使われたとして、次のように主張する。「ダッハウで発見された死体の山の死因のほとんどが発疹チフスだったという事実は一般に無視されている。 アウシュヴィッツでも発疹チフスが大流行していて大きな問題になっていた。 そのため、裸の人の群れだとか、衣服や髪の毛の山だとか、これまでに何度も見た写真などの各種の資料については、次のような説明が理に適ったものに思えてくる。 ── 発疹チフスの流行下でユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、彼らを収容所に入れる前に、彼らが着ていた衣服を全部ぬがせ、シラミの卵が付着している可能性の高い髪の毛を刈り、シャワーを浴びせた。 衣服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで薫蒸することよってシラミを駆除した。 チクロンBと薫蒸室には、毒物の危険を知らせるために、ドクロマークがつけられた。 戦争末期にアウシュヴィッツで発見された死体の山の主な死因は、ダッハウと同じ発疹チフスだった」。

興味深いことに、否定派の中にはユダヤ人学者もいる。 プリンストン大学のユダヤ人歴史学者アーノ・メーヤー教授である。 メーヤー教授は、子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカに渡ったユダヤ人で、現在は左翼思想の持ち主であるという。 そんなメーヤー教授が、「ナチスの多くは殺戮より労働力としてユダヤ人を利用することに関心を持っていた。 アウシュヴィッツのユダヤ人の死者の多くは疫病死だった」と述べている。 このことは1989年6月15日号の『ニューズウィーク』日本版でも取り上げられ、現在、メーヤー教授の主張を巡ってアメリカの歴史学会は揺れているという。

果たして、アウシュヴィッツ収容所ではチクロンBの転用による毒ガス大量殺人はあったのか。 この議論は多くの人々の関心を呼んでいるが、危険な問題をはらんでいる。 この議論に便乗して、欧米のネオナチたちが自分たちの主張を押し通そうとしているからだ。 彼らは「ヒトラーによるユダヤ人虐殺は無かった」と主張している。

最後になるが、私個人としては、多くのユダヤ人がアウシュヴィッツ収容所で死んだのは間違いない事実であると考えている。 ナチスの犯した罪は重い。 これは否定できない。 だが、彼らはどのようにして死んでいったのか、あるいは殺されていったのか。 そして、それはどれほどの規模だったのか。 これらは歴史を研究する上で正確に知りたい事柄である。 しかし、現在、欧米ではこの事柄を学術的に「徹底検証」することは極めて困難である。 特にドイツは戦後、ナチズムの教訓から、ネオナチはもとよりホロコーストについても言論を統制し、疑義を挟む事さえ法律で禁止した。

「いろいろ」の中に収録した「化学兵器について」も読んで頂きたい。